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雅の今川氏(偽りの風聞、受難の築山殿)

<受難の築山殿>

徳川家康の正室築山殿は、今川一門の関口刑部少輔の娘といわれている。築山御前、瀬名姫などと呼ばれる悲劇の人であり家康との間にもうけた嫡男信康とともに、家康の手で殺害された。
その原因は、「母子とも武田方と内通したうえ、淫行乱行を重ねた」と織田信長に密告され、家康は保身のため母子を殺害したというものだ。
この「築山殿非難は虚言だ」という関口永氏の論文を引用し報告する。

<築山殿の生涯>

築山殿非難の文献や読み物は、築山殿没後百余年経た江戸中期から数多く出された。また明治から現代では、小説は山岡荘八氏の「徳川家康」、戯曲は大仏次郎氏の「築山殿始末」が有名である。

築山殿の略歴(日本女子大・西村圭子教授著「人物日本の女性史」より)

◆天文十一年(1542)生まれる。同年竹千代(家康)出生
◆弘治三年(1557)元信(家康)、築山殿と結婚
◆永禄二年(1559)嫡男信康誕生
◆永禄三年(1560)長女亀姫誕生
◆永禄三年(1560)桶狭間の戦いで今川義元敗死
◆永禄五年(1562)信長・家康同盟する
◆永禄五年(1562)築山殿、信康、亀姫の母子は駿府より岡崎に移る
◆永禄十年(1567)信康と徳姫(信長の娘)結婚
◆天正七年(1579)八月二十一日、築山殿殺害される、37歳。九月十五日、信康自害、21歳

築山殿の廟(西来院)

<築山殿非難>

築山殿を誹謗する根拠は信長の十二ヶ條といわれている。

幕府の決定版といわれる明治維新の前に出た「三河後風土記」の改正版では次の通りである。


北方(徳姫)は御文にかかせ給ひ父右大臣駁(信長)の方へひそかに奉り給ふ
 一、築山殿悪人にて三郎殿と吾身の中を、さまざま讒して(人をおとし入れる為に告げ口をすること)不和し給ふ事。
 二、我身姫はかり二人産たるは、何の用にかさ定ん、大将ハ男子コソ大事なれ、妾(メカケ)あまた召て男子を設け給へとて、築山殿すすめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し三郎殿妻にせられ候事(諸説を超えて勝頼に結びつけています)。
 三、築山殿甲州の浪人医師減敬といふ者と密会せられ、剰へ是を使とし勝頼へ一味し三郎殿を申すすめ甲州へ一味せんとする事。
 四、織田 徳川両将を亡し、三郎殿には父の所領の上に織田家所領の国を参らせ、築山殿をば小山田といふ侍の妻とすべき約束の起請文を書て、築山殿へ送る事(この頃の意味を考えて見て下さい、夢物語どころではありません)。
 
 (五、以下は三郎信康に対する訴えです。)

 五、三郎殿常々物あらき所行多し、我身召使の小侍従と申女を我目前にて刺殺し共の上、女の口を引きさき給ふ事。
 六、去頃三郎殿、踊を好みて見給ひける時、踊子の衣裳よろしからず又おどりさまあしきとて其踊子を弓にて射殺し給ふ事。      .
 七、三郎殿、鷹野に出給ふ折ふし道にて法師を見給ひ今日得物のなきは此法師に逢たるゆへなりとて、彼の僧が首に縄をつけ、力革とかやに結付馬をはせて共法師を引殺し給ふ事。
 八、勝頼が文の中にも三郎殿いまだ一味せられたるには候はず、何ともして進め味方にすへしとの事に候へば、御油断ましまさば末々は御敵に組し候べきと存候、態々申上條事。

(九、以下は未発見)
右大臣この御消息を御賢し、大敵武田に一味と聞給ひてハ、ゆしき大事なればとかく思慮をめぐらし給ふ。
六月十六日には徳川家より織田殿へ御馬をまいらするとて其の御使に酒井左衛門尉忠次参りたり。
( )内は関口 永氏の加筆
 

<関口 永氏の指摘>

◆永禄五年(1562)築山殿、信康、亀姫の母子は駿府より岡崎に移る。これは人質交換であり、20才にもならぬ若妻は、一人さびしく城外十数町はなれた菅生川のほとりにある惣持尼寺に幽閉のように移されたという。
◆「三河物語」(大久保彦左衛門が書いた記録、大久保家の門外不出とされ明治になり公開され信憑性は高い)では、信康の正室徳姫が兄信長に「12箇条」を出し、信長はこれを口実に信康殺害を家康に命じたとある。
しかし築山殿への非難は、文中になく、信康も悪人にしていない。この事件は信長の家康に対する残酷な仕打ちの一例で信長を恐れての家康の行為としている。
◆築山殿非難の文書は、岡崎城内の豪華な邸宅で権勢を振るい、唐人医師と密会し武田方と内通したというもの。
しかし築山殿は、城下離れた尼寺で監視され幽閉のような生活だという。また武田方と内通の件は、当時武田勢は、長篠の戦いに敗れ大井川東の戦線を保つのがやっとという状態であった。いずれにしても非難の根拠は薄い。
◆特筆すべきは、徳川側が付けた侍女が築山殿の死に殉死の入水をした事実である。
侍女の父親は家康の政治経済の上位幕僚の伊奈忠基である。娘は殉死が一家に与える不利を乗り越え築山殿の殺害に殉じたと考えられる。
◆また関口氏は、昭和年代に書かれた二つの著名作品の作者は、いずれも「築山殿には非難される点はない」と書いており、「これはフィクションである」といっていると主張している。

このように、築山殿の虚像は、二百五十年かけて悪女の手本のように作り上げられてきた。江戸時代の施政者は神君家康公をたたえるあまり、一人の女性をスケープゴードに仕立てたのである。

しかし逆に家康の価値を下げた結果になった。

築山殿の廟は、浜松市の住宅地の一角にある西来院にある。この一文が一人の女性に関する偽りの風聞と偏見を打破する一助になることを願っている。合掌

<引用文献>

「駿河の今川氏―第八集」静大大和田研究室編の
「築山殿非難」関口永著より

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