中学校同窓会報告

99年8月14,15日、中学校(現在の能美市立寺井中学校)の同窓会があったので帰省した。
その報告(4〜6項が同窓会の部分)です。長文なので適当に読み飛ばして下さい。

1.案内状がきた
2ヶ月前に案内状がきた。卒業30周年と書いてあった。確かにそうだ。でも案内状にそう書かれるとショックである。もう30年もすぎたのか。見る聞くなし、参加の返事。翌日には往復ハガキの返信部を投かんした。それから2ヶ月があっと言う間に過ぎた。
宿の手配をお願いしていたが前日にやっと連絡がはいった。会場のすぐ近くと聞いて安心した。切符も前日に会社で買っておいた。準備万端である。

2.さあ出発
当日は朝から雨であった。駅まで車で送ってもらい出発である。汽車で帰るのは7年前の小学校の同窓会以来である。米原でしらさぎに乗り換える。混んではいたが座ることができた。以前は米原を出ると早々に電源切替だったが1〜2年前に長浜まで直流化されたので切替は長浜を過ぎてからだった。(注記:その後直流区間が敦賀まで延長された)
小松にはちょうど昼に到着した。まずバス時刻の確認である。会場のサンピア小松は長崎町にある。バス乗り場で調べると次は15時40分ではないか。それを含めて1日に数本しかない。他方面も似たようなものである。バス会社の名前も北陸鉄道ではなく加賀白山バスと小松バスであった。いやひどい状況だ。これだけ公共交通機関が衰退してとは驚いた。それでは昼食と思い駅前のコマビルに入ったら地下にあった飲食街がなくなっていた。隣の西武はどうかなと行ってみると西武ではなく大和に変わっているではないか。小松の市街地に来たのは4年振りだと思うがあまりの変わり様に驚くばかりであった。

3.会場まで歩く
時間もあるので会場まで歩くことにした。だいぶ遠いことは分かっているがのんびり歩けばなんとかなるだろう。商店街を過ぎどんどん歩いていったら8番ラーメンの店があった。昼時で混んではいたが1人なのですぐ座れた。ここまで歩いてきたことに加え、暑いラーメンを食べたので汗が噴き出してしまった。腹ごしらえができたのでまた歩きはじめた。そうすると本屋が見えてきた。こんな所に本屋があるとは。しかもうつのみやである。金沢の本屋がこんな所まで進出してきたのか。でも有り難かった。時間潰しになるし冷房が効いているはずだから休憩にもなる。嬉しいことにベンチもあった。さすがにベンチに腰掛けて立ち読み(実際は座っているが)する勇気はなかった。
長時間いては気がひけるので30分ほどで出発した。もう一頑張りである。遠くに会場が見えてきた。駅を出発してから昼食立ち読み時間を含めて2時間で会場の斜め向かいの宿に到着した。2時ではチェックインできないがご厚意で部屋にいれてもらった。受付開始時間までテレビを見ながら休息した。

4.いよいよ同窓会
いよいよ時間になったので会場へ向かった。30年振りのことであり緊張が高まる。受付に向かう。女性(もちろん同級生)が5〜6人座っていた。私の顔を見て「ああ増村君」と言ってくれた人がいた。「何組ですか」と聞かれて「忘れた」と答える。3年の時は1組だと思っていたが2組であった。受付後ろのソファに何人か男か座っていた。一目見ただけではどこのおじさんかと思うばかりである。「ます」。中学時代の呼び方で呼ばれて同級生であることを認識した。
しかし30年の年月は長い。みんな立派な中年のおじさんになっていた。そして女性にいたってはほとんど誰か分からない。式次第の出席者名簿を見ると出席者は1/3強である。幾分女性の方が多い。子育てが一段落して時間がとれる年代になったからであろう。
予定より少し遅れて同窓会が始まった。開式の宣言のあと、すでに亡くなった同級生(4人と思われる。同じ小学校の人はいない)に黙祷を捧げた。祝宴に入り乾杯が終わると一気に盛り上がった。のんびり席で料理を食べている人はいない。ビールを持って回り始めた。
私も担任の先生のところへ挨拶に行った。担任の先生はいわゆる持ち上がりで1年から3年までどこかのクラスの担任をしていたが私は3年間持ち上がりにつき合ったので3年間いっしょだった。私以外に3人が同じ境遇であった。だから担任と、この3人は忘れようがない。女性は誰か分からないので名札で確認する。しかし話しているうちに中学校時代の面影が見えてきた。中学校の時はほとんど話したことがなくてもこういう場になるとなんとなく話せる。年を重ねたせいであろうか。
カラオケが始まった。不思議とデュエットばかりである。それもスムーズにカップルができる。ふーん、中学時代はそういうことだったのか。それも当人達には良い思い出であろう。私の場合はどうだったかって。とてもここには書けません。(内緒:あこがれの君も出席していたのでとても嬉しかった。次回は告白しようかな。『実は‥‥』と)
宴も終わりに近づき恩師を囲んで記念写真となった。全員で撮るスペースがないので2テーブルずつまとまって撮った。最後は万歳三唱でお開きとなった。

同級生161人 4クラス
卒業年昭和45年(1970年)3月
参加者同級生61人 恩師7人
同級生同士の結婚2組(意外と少ない?)
物故者4人

5.二次会
30年振りの同窓会がこれで終わる訳がない。上の階のスナックで二次会が設定されていた。たぶんほとんど全員がいたのではないか。さして広くない場所に60人ちかくの人間が入ったので狭いは暑いはで大変であった。カラオケが始まる。カラオケに合わせて踊るカップルがいる。うらやましいけど私は踊りを知らない。みんなはどこで憶えたのか上手ものである。ディエットを誘われたのにあまり好きな歌ではなかったので断ってしまった。今にして思えば素直に歌えばよかった。本当に悪いことをした。今頃悔やんでも仕方ない。時間の経つのも忘れて飲んで騒いでいたが楽しい時間はすぐ過ぎてしまうものである。9時半頃お開きとなった。

6.三次会は見送り
さてこれで終わりかと思いきや三次会があると言う。場所はとくべい、7年前に小学校の同窓会を行った寿司屋である。しかしここからかなり遠い。宿まで戻ってこなければいけないことを考えると諦めるしかない。残念ながら行けないことを幹事に告げる。今回のお礼を述べ次回の再会を期してがっちり握手をした。三次会ともなるとそのまま全員が行った訳ではない。喫茶店でも行こうと話しているグループもいた。宿に戻り風呂にはいる。1Fに銭湯風のお風呂があった。酒を飲んでいるのでゆっくりと入った。同窓会の余韻を感じながらゆったりした。昔からのつき合いも大事にしなければならないと再認識した。
部屋に戻ってテレビを付けると痛ましいニュースが流れていた。丹沢湖はバイクでよく行く定番コースではないか。

7.七尾線に乗る
翌日は学生時代の友達と逢う約束をしていた。約束は午後である。その前に七尾線に乗るという目的があった。何を今更と思うかもしれないが電化された七尾線には乗ったことがない。隠れ鉄道ファンとしてはこのまますごすごと帰る訳にはいかない。時刻表を調べて乗る電車を決める。小松駅まで歩く気がしない。タクシーを使ったがなんと1400円もかかってしまった。タクシーなんて久しく乗っていなかったのでずいぶん高くなったものだと思った。
小松から金沢までTownトレインのヘッドマークのついた普通電車に乗る。日曜日の朝とは言え乗客はほとんどいない。金沢から七尾線に乗り換える。津幡を過ぎていよいよ七尾線である。電源切替だ。七尾線は直流電化である。北陸線が交流なのに電源切替を必要とする直流にしたのはそれなりに理由があるのだろう。中津幡の直前で車内灯が再点灯した。しかし電車は加速がいい。かっての気動車のにぶい加速がなつかしい。過去、宇野気駅までしか乗ったことがなかったので今日は高松駅まで乗って折り返した。時刻表を見ると所要時間が短くなっている。また七尾線と北陸線を直通するダイヤ編成が目立つ。いずれも電化されたことにより可能となったのだと思う。

七尾線津幡駅
この日に撮った写真ではありませんが七尾線の車両です。

8.友人と逢う
金沢に戻って改札を出ると携帯が鳴った。学生時代の友人からである。金沢の駅が改装されて待ち合わせ場所に困っていたが携帯のお陰ですぐ落ち合うことができた。5年振りの再会である。軽く飲みながら近況を話し合った。お互いに職場では中堅どころなので悩みも多い。それを話しているうちに少しは気分がやわらぐというものである。話しは尽きないが汽車の時間もある。今度は東京とか沼津で逢えたいいなあ、そう約束して別れた。

9.帰路につく
あとはお土産を買って帰るだけである。いつもの柴舟と子供達にはティッシュケースを買った。金沢始発の加越に乗り米原で乗り換えて沼津へ向かう。幸いなことにずっと座ることができた。駅まで迎えにきてもらった。自宅に着いたのは11時少し前だった。
充実の2日だった。この2日だけをもって、今年(1999年)はよい年だったと言っても決して過言ではない。

追記)今年初めて中学校の運動会を見に行った。娘やその同級生を見ていると自分自身の中学時代が重なって見えてきた。



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