燕市・良寛遺跡

良寛は48歳から五合庵、59歳からは乙子神社草庵と約20数年間、国上山に定住し座禅、読書、托鉢と人生で最も充実した日々を過ごした。


旧分水町
18 分水町中島628
大蓮寺の
詩碑
一箇繍毬打又打
自誇好手無倫匹
此中意旨若相問
一ニ三四五六七
一個の手まりを打っては又打ち、私ほどの名手はいないと思っている。貴方が手まりつきの意味を問うならば、仏の心がその行為にはあるからさと答えよう。一ニ三四五六七とただ無心にまりつきをするだけさ。
17 分水町地蔵堂
願王閣
遍澄の歌碑
中村家の前の道の突き当たりが願王閣である。良寛の弟子と云われる遍澄が地蔵堂の大庄屋から懇望されて願王閣主になった。願王閣主になると五合庵に居住している良寛の世話が出来なくなるので、良寛の木村邸内への移住を勧めたといわれている。
とかまもて かりはらふほき ひともなし むくらしけれる しきしまのみち  釈遍澄
(利鎌もて 刈り払ふべき 人もなし むぐら繁れる 敷島の道)
16 分水町地蔵堂
中村家
中村家の右前に歌碑
良寛は13〜18歳まで、大森子陽の熟で勉強したが、この時寄宿していたのが中村家である。
現在も非公開ではあるが、良寛の寝起きした部屋を保管している。
(参照:転萬理15号
15 国上山(含む朝日山公園)
良寛歌碑


歌碑

子供たちと良寛像
・良寛歌碑
異業種交流会が、第5回良寛サミツトin分水を記念して、分水高校が編集した良寛さまの草木うた「はなひもとく」から下記の六首を選び、草木のあるところに平成六年に建立した。
1.「あしひきの 山のたをりの 紅葉ばを 手折りてぞ来し 雨の晴れ間に」
2.「秋萩の 咲くを遠みと 夏草の 露をわけわけ 訪ひし君はも」
3.「道のべに すみれつみつつ 鉢の子を 忘れてぞ来し その鉢の子を」
4.「ひさかたの あまぎる雪と 見るまでは 降るは桜の 花にぞありける」
5.「国上山 岩の苔道 ふみならし いくたびわれは まゐりけらしも」
6.「秋もやや うらさびしくぞ なりにける 小笹に雨の そそぐを聞けば」
・歌碑
あしひきの 国上の山に 家居して いゆきかへらひ
山見れば 山も見がほし 里見れば 里もゆたけし
春べには 花咲きををり 秋されば 紅葉を手折り
ひさかたの 月にかざして あらたまの 年の十とせは
過ぎにけらしも

国上山に、庵を造って住み、行き来しながら山を見ると、山も見たいと思うほどに美しく、里を見ると、里も豊かで賑やかである。春のころには、花がたくさん咲いて枝がたわみ曲がり、秋がくると紅葉を折り取って飾りつけ、月の光に照らして楽しみ、このようにして、十年の月日が過ぎたことよ。
・子供たちと良寛像
国上寺を中心とした朝日山公園周辺は広い駐車場や休憩所も整備され、茂木弘次氏作の「良寛さんと毬」像も公園に建てられている。
14 国上寺

客殿の良寛座像


境内の良寛座像

枕地蔵
・国上寺
国上寺は、真言宗豊山派の寺院。良寛は国上寺で勤行につとめ、また講義を行ったという。良寛のえらさを、越後で最初に認めたのは、国上寺の修行僧であった。
(参考:転萬理47号
・客殿の良寛坐像
茂木弘次氏作の木彫り良寛座像
・境内の良寛坐像
13 五合庵

句碑

歌碑
・五合庵
良寛は転々としていた時と48歳から59歳までの定住した時あわせて十数年、この五合庵で暮らした。現在の建物は大正3年に再建されたものである。五合庵の名は、最初にこの庵に住んだ万元が国上寺の住職良長僧都から、毎日米五合を給されていたので付けた名であり、後には国上寺の住職の隠居する場所として用いられたという。良寛はここで托鉢に出たり、座禅したり、「源氏物語」、「万葉集」、「永平録」などを読み、また多くの漢詩、長歌、短歌を生み出していった。
(参考:転萬理40号
・句碑
「たくほどは風が持てくる落葉かな」
・歌碑
「明日からは若葉摘まむと思ひしに 昨日も今日も雪は降りけり」
12 乙子神社

草庵

詩歌碑
・乙子神社
 乙子神社は弥彦神社の末社で、良寛は59歳ころ五合庵からここに移り、約10年間をこの庵で暮らした。現在の庵は昭和62年に建て替えられたものです。
・草庵
59−69才の間居住 現在の草庵は昭和62年に再建
・詩歌碑
最古の名碑
 ・詩碑
生涯懶立身   生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々任天真   騰々(とうとう)として 天真に任(まか)す
嚢中三升米   嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺一束薪   炉辺 一束の薪
誰問迷悟跡   誰か問わん 迷悟の跡
何知名利塵   何ぞ知らん 名利の塵
夜雨草庵裡   夜雨 草庵の裡(うら)
雙脚等間伸   雙脚(そうきゃく)等間に伸ばす

一生、立身出世をするということにはものうく、そういう気にもならない。任運、つまり天の真実の法則に任すことによって、自由の境地に遊ぶ。わずかな米とわずかな薪、そこには悟りだとか、迷いだとかという問答もない。有名、無名、立身出世の悩みもない。夜、静かに雨の音を聞きながら、草庵の中で両足をのんびり投げ出している。
この詩の読み方は「良寛」33号 良寛入門講座で詳しく解説されています。
 ・歌碑
「安散都久非無閑此能遠可耳 左遠志可当て里閑美奈づき之久礼能 安め尓ぬ礼都々堂天利」
「朝づく日向かひの岡に小男鹿立てり 神無月時雨の雨にぬれつつ立てり」
11 本覚院
歌碑1

歌碑2

詩碑

山頭火の句碑
・本覚院
・歌碑1
本覚院に集いて詠める
「山吹の花を手折りて思う同士 かがす春日は暮れずともがな」

・歌碑2
「伊つ具登毛 かへ国春連登 わか古々路 具かみの左登に 満左る登古奈之」
「いづくとも かえくにすれど わがこころ くがみのさとに まさるとこなし」

・詩碑
擔薪下翠岑   薪を擔いて翠岑を下る
翠岑道不平   翠岑道平かならず
時息長松下   時に息う長松の下
静聞春禽声   静かに聞く春禽の声
*翠岑=みどりの峰
・山頭火の句碑
10 石碑 「心月輪」 和島村方面から、分水路に掛かる新大河津橋を渡ると、東側に大河津橋記念公園がある。その一角ほとんど橋のふもとに、輪の中に「心月輪 良寛書」の石碑がある。原本は鍋蓋で、分水町牧が花の解良家所蔵されている。
9 牧ヶ花・解良家
「心月輪」
解良家前の句碑
書簡多数
・心月輪
・句碑
解良家では、この他に良寛からの解良家宛書簡29通が所蔵されている。
8 良寛史料館外観

史料館内部


良寛座像

歌碑

記念碑
・良寛資料館
「歴史民俗資料館」として昭和55年に開館したが、展示の中心が良寛遺墨であることから、昭和61年に「良寛史料館」と通称を付した。良寛とその血縁者、親交者、敬慕者の作品で、年六回展示替えを行っている。
・良寛坐像
史料館の庭に、茂木弘次氏作の良寛坐像。

・歌碑
広場の自然石にはめ込まれた銅版に刻まれた良寛自筆歌碑
 飛東に与みてお久る      ひとによみておくる
和可意保遠堂都年天起末勢   わがいほをたずねてきませ
安之悲き能也末乃毛美地遠   あしびきのやまのもみじを
堂を理閑天良爾        たおりがてらに

歌は阿部定珍に贈ったものであり、私の庵を訪ねておいでなさい。山のもみじを手で折り取るついでにと、来訪を誘ったものである。
・記念碑
碑文
良寛さんは少年時代をこゝ地蔵堂に開塾されて
いた大森子陽の三峯館で約六年間儒学の勉強を
された良寛さんの信条と漢詩の素養はこの時期に
培われたものと考えられるそして三島での修行が
終り安住の地として求めた処が国上の村里であった
五合庵と乙子草庵での生活は良寛さんの人間性と
芸術を高めるのに最良の地であった 三嶋かく
建碑者 村上三島 発案者 村上和子
7 分水北小学校の校庭にある
良寛歌碑
 「己能左東耳天末理都幾都々許登裳良登阿所布波留飛者久礼春登毛与之」
 「このさとにてまりつきつゝこどもらとあそぶはるひはくれずともよし」
6 原田資料館
手鞠
鵲斎、正貞二代に渡って親交の深かった原田家は、文化財に指定されている。特に茶室は良寛在世時代のものであり、良寛遺愛の手毬は貴重なものである。
代々医師を業とし、良寛も立ち寄って、病気のおりは診察してもらっていたらしい。特に正貞は良寛に歌の添削を願ったりし、酒その他贈り物をよくしていた。
5 夕暮れの岡

「夕ぐれの岡」碑

亀孫の句碑
・「夕暮れの岡」碑
池田鵞村氏筆
良寛が托鉢の道すがらよく足を止めた場所であり、ここで次の歌を二首作っている。
「ゆふぐれの 岡にのこれる 言の葉の あとなつかしや 松風ぞ吹く」
「ゆふぐれの 岡の松の木 人ならば 昔のことは 問はましものを」
・亀孫の句碑
夕暮の岡の碑の前に亀孫の句碑がある。
「あのあたり 五合の庵や 遠からず」亀孫
同じ碑面に、竹の葉そよぐ五合庵で、読書する良寛が彫られている。
4 菅原神社の歌碑 「安末閑美能 加み能美左加遊 見和堂世者 美由起布理気利 以都閑之可有弊耳」
「天神の かみのみ坂ゆ 見わたせば み雪ふにけり 厳橿(いつかし)が上に」
3 阿部家の詩碑 闥百花発    闥(かんてい)百花発(ひゃっかひら)き
余香入此堂    余香(よこう 此の堂に入る
相対共無語    相対して共に語る無く
春夜夜将央    春夜 夜将(よるまさ)に央(なかば)ならんとす

静かな庭には数多くの花が咲きそろい、あふれる香りがこの座敷にまで漂ってくる。あなたと向かい合っているが、この趣に心奪われて語ることもできず過ごしていると、そのまま春の夜はふけてゆき、いつしか真夜中になろうとしている。
2 原田家旧宅跡の歌碑 萬幾也末尓天与面流
「許所乃者留 散計耳宇計都留 宇女能者奈 都知尓於地計里 以當川良耳之天」

まきやまにてよめる
「こぞのはる さけにうけつる うめのはな つちにおちけり いたずらにして」

去年の春、鵲斎と三人で梅の花の下で盃をくみ交したが、この鵲斎の屋敷は、今は跡形もなく、梅の花がいたずらに散っている。
1 原田家の良寛・定珍歌碑 原田要右衛門による須走間歩の完成を喜び
 この秋は八束穂足りてこころよし青人草
 手を打ちて歌ひ舞ふやつがれかくなむ

秋の田の 穂にでて今ぞ 知られける かたへに余る 君がみふえを (良寛)

あしびきの 山下うがち ゆく水の 流れはつきじ 千代も八千代も (定珍)

分水町真木山 原田家庭上 1999.6 建碑(良寛36号P137)

旧吉田町
2
願生寺
願成寺(現願生寺)の第九世和尚を訪れたときに詠んだ歌
法華堂西願成寺 寺在雲霞水石間
幽径苔深絶人跡 中庭池古魚躍焉
以下略
1 長善館
長善館「天上大風」碑
「天上大風」書
歌碑
・長善館
越後では屈指の熟である長善館を創設した鈴木文台は、その兄隆造とともに、良寛と親しく鈴木兄弟宛に八通の書簡が知られている。
鈴木文台は良寛を高く評価し顕彰した第一人者で天上大風碑には、良寛を称える言葉が刻まれている。

・「天上大風」
「天上大風」は三条市鶴田の藤崎家に保蔵されている良寛が托鉢中、一人の子供が紙を持参して字を書くよう依頼した。良寛が何に用いるかと尋ねると、凧にしたいから「天上大風」と書いてくれるように頼んだ。子供の頼みに喜んで筆を取り、そのとうりに書いた与えた。その遺墨を入手した東樹東助は、表装したく思ったので、由来書を師である鈴木文台に依頼したものである。

・歌碑
「和我也東者久駕美也眞裳東己非之久波堂門禰轉幾末勢多東利多東利耳」
「わが宿は、くがみ山もと、恋しくば、訪ねてきませ、たどりたどりに」