81番札所・宝蔵院〜88番札所・修禅寺

←**81番札所宝蔵院**

帰一寺の近くに富貴野への登り口がある。6.3Kmの道のりで伊豆八十八ヶ所霊場めぐりでは、標高が一番高い寺である。途中にある門野の部落まではさほどではないが、そこからかなりの坂道となり、一旦平らになつた後の最後の登りはさらにきつくなる。
寺は海抜550m余りの富貴野の中央に位置し、西を向いて堂宇が配置されていた。伝えるところによると延暦19年(800)この地に分け入った空海が、高野に劣らぬ霊地として一宇を建てたとされている。その時空海が遺したと伝えられる高さ79cm、幅43cmの笈が残されているが空海は勧請開山であろう。のち僧岩仲が開基として堂宇を建立して、真言宗の道場、地蔵金剛宝蔵蜜院と称した。以来文明の頃(1469-1486)まで、伊豆第一の山岳仏教の霊地として栄えた。
その後密教は衰え、堂宇もまた大破していたが、文亀(1501-1503)の頃川津逆川村(河津町逆川)の普門院四世C安が来て、堂宇を再建すると共に曹洞宗に改宗、寺号も宝蔵院と改めた。以来、寺の衰微は繰り返されたであろうが、戦国、安土桃山、江戸時代山深い霊場として、遠近の人々は参詣のため山に登った。その参詣道が一色口、白川口、江奈口、門野口と多くあったため、紀伊の高野山になぞらえて富貴野の七口といった。
戦後は、訪れる人も途絶えて、山深い寺は次第に荒れていった。戦中、戦後の伐採により、周りの森を失った寺は風雨の影響をまともに受けるようになり、昭和24年の台風によって山門が倒壊、昭和34年(1959)8月14日の台風で本堂も半壊、復旧困難なため取り壊されて今は山門・本堂ともにその礎石を残すのみとなった。山門のあった参道に並ぶ苔むした石仏群に、そして大きなスギの下にたたずむ開山堂に往時をしのぶことができる。寺の付近の地形は、小さいながら台地状をなし、かっては富貴野と呼ばれる野原であったが、戦後一時開拓地となりそしてその後植林され、現在スギ・ヒノキの林となっている。この林を「二十一世紀の森」と名付け、多くの人が自然に親しめるよう幾つかの施設が作られている。

富貴野山は寺院の配置の関係で、松崎町側から登って西伊豆町側に下山する。登りは道路が全部舗装されているが、下りはほとんど舗装されていないが、ある区間の工事が始まり,砂利を運ぶ大型のダンプとよく会った。宝蔵院は住職不在の寺であるので、山を下った白川の部落の梅田兼男氏のお宅でご朱印をいただく。今日は、松崎港に着いたときに大沢里の宿を予約したある。「出合」で右折して15分くらいのところにある。14日目の歩行距離は約25Km。

**82番札所慈眼寺**

県道59号線を約5.5Km、約1時間下った堀坂の部落で、旧道に入り山手に行ったところに82番札所慈眼寺がある。この寺も住職不在で、ご朱印は次の東福寺でいただくことになる。
境内の鈴木家の墓地に二つの石像があるが、右の小さい方が赤穂浪士寺坂吉右衛門の墓、左の大きい方がその供養塔である。鈴木辰五郎家の先祖は代々権内しいい、この辺きっての豪農で、慈眼寺も元は権内宅地の一部であった。寺坂吉右衛門は足軽の身分であったので、討ち入りに加わらず、生き残ったのであるが、仇討ち後は諸国を行脚して、義士の冥福を祈った。伊豆に来て権内の家に世話になつてからは数年逗留して、ここを根拠地として伊豆各地を廻り歩いた。ここにいる間に、富貴野山に梵鐘を献納した。直径二尺八寸の大きさで、吉右衛門のいわれを書いてあった。この鐘にも施主権内としてあり、甲州の人の名もあった。鐘は富貴野山の裏山で鋳造したもので、その跡は現在でも推定でき、川金の洞に金滓があった。また吉右衛門は、石廊崎権現にも同じ梵鐘を奉納したといわれている。

←**83番札所東福寺**

慈眼寺から約2Km下った右側に83番札所東福寺がある。寺の奥さんに甘茶をご馳走になる。子供のころお釈迦さまの誕生を祝う祭りで、お釈迦さんの像にかけたり、飲んだことがあるが、それ以来であり、甘いから砂糖でも入っているのかと思っていたら、お茶だけの甘さであることを知る。寺で売っていたので、お土産に買ってきた。家に帰って家内に話したら、何年か前に一時プームになったことがあったと言っていた。
天福元年(1233)創立、開山雲林和尚、当寺の根本を考えると、旧仁科浜村の内字沢田ケ原と称する地に石室があり岩の堂と云った。中に諸仏の僧及び窟額に白岩山の三字を刻む。即ち弘法大師の遊行の節創開して安居する所である。その遺趾は今尚存在す。後にこの室に近寄せて堂宇を構えた。時に天福元年であった。よって之を天福除地と名付け真言を宗旨とした。
その後文明9年(1477)7月亦洪水に遭い山崩れ、水押して堂が殆ど地下に沈没した。この災において古記判物等亡失したという。又一旦衰廃したのを文明18年(1486)に至って、たまたま江州佐々木氏の末裔である山本若狭佐盛季殿が当国に居留し、この衰廃を見て悲歎し、遂に自ら発企して、更に地を現地寺川に卜し再建経営、精舎を成就した。而して其のしばしば天災に罹り、西より東に遷るの意を表して天福の天字を改め東福寺と名付けたと言う。大正年間田村利光の技になる本堂天井の漆喰による五百羅漢は不朽の名作であり、同寺の遺産である。

←**84番札所法眼寺**

東福寺を出て200m位下ったところで、右側に幅の狭い旧道がある。これを道なりで行くと仁科中、仁科小の前を通って136号線に突き当たると、その近辺に84番札所法眼寺がある。この道の途中に、私が通っているスイミングスクール・マスターズコースのコーチ・藤井茅晴嬢(27歳)のお宅がある。いつも厳しく、楽しく遊んでもらっております。
本尊は釈迦、阿弥陀、薬師の三如来で木像、行基の作である。法眼寺の由緒である元走嶋山長平寺を合併して一寺としたものである。興廃変遷多く星霜を経たので其の間或いは両院の正記を失い、或いは確証を挙げて明言をすること能わずとしている。また古老の伝門に徴して変遷の時世を推考するとして次のように述べている。
1.走嶋山長平寺は元真言宗なり、行基この地に来り自ら三像を刻みこの寺に安置す。
2.天正年間、豊臣氏が小田原北条氏征するにあたり、真言の僧徒四方に遁匿し、尓来廃荒すること有年、その際法眼寺は法眼庵と称し、安城山の麓にありて小院であったが海嘯のため遂に荒廃す
3.永享年中(1429-1441)幽厳(寛正6年3月寂、1465)遊修の際この地に来り、二院の荒廃を歎じ、大いに再興の志を振るい、村民とはかり二院を合併して長平寺の山号と法眼庵とをとって走島山法眼寺と称す。
4.もと走島山法眼寺に合併後草庵を造り三仏を遍座して法眼寺境外仏堂として法眼寺に属しこれを管理する。

←**85番札所大聖寺**

法眼寺から戸田村までは、海岸沿いにひたすら北上する。西伊豆町を過ぎると、賀茂村に一寺、土肥町に一寺、戸田村に一寺と寺と寺の間隔が長くなる。そしてアップ・ダウンの道が続く。東海岸と比べ、トンネルは新しいので、歩道のないトンネルは皆無であるので、危険度は低い。
法眼寺を出て仁科の部落の北側にある田子入口から旧道を選択し田子の部落を過ぎたところで、再び国道に出る。これは旧道があるところは旧道を歩いた方が安全だと言える。田子の場合は旧道に入った理由はもう一つある。まだ食べたことのない、名物の田子ずしを経験するためである。田子ずしは、かんぴょうと干しいたけを煮たものをすしめしの間に入れて、押しずしにしたものである。
西伊豆町から賀茂村に入り、小谷トンネルを過ぎて、すぐの信号を右折して、神社の先を右折すると85番札所大聖寺である。

当山は、はじめは真言宗にして、後醍醐天皇の頃、泰庵阿闍梨ここに住し神洞滝より不動明石像を寺域に移し、故にこの寺を不動別当と称されしという。本尊不動明王は、聖徳太子の彫刻し給うところとして、文覚上人の護持仏であった。治承3年上人故あって伊豆に配流される途中、海路遠州灘にて大暴風雨に遭い、危うく難破しようとした時、上人至心に尊像に祈念し、無事に伊豆に安着することを得たという。上人伊豆を遍歴して、各地で苦行す。八木沢村に至り、大久保平の勝景を愛し、遂に草蘆を此処に結んで、念誦怠ることなし。程なく赦にあって帰洛するに当り、留めて村民の望みに充てたという。その後三百余年を経て永正元甲子年(1504)勧請して当山にまつるところとなり、御堂に安置し奉り、土俗称して不動堂と言ったと言う。後に臨済の僧高嶽妙本禅師、当村に行化し、当山の幽邃を愛して安居し、遂に一寺を創建して、授宝山大聖寺と号した。実に天文八巳亥年三月(1539)のことである。
これより本尊は秘して開かず、毎甲子の年をもって、開扉するの制を定め、さの中間甲午の年に中開帳して遍く衆人に参礼せしめた。本尊の霊験あらたかに、村内近郷は言うに及ばず、遠近を問わず善男善女の、疾病これを祭り、水旱亦これを祈り、あらゆる祈願にこれを祭って転災帰福仰ぎ、殊に諸国の廻船の海上の無事を祈って、さそい帰信し参拝のもの少なからず、四百八十年を経て今に至っている。

この寺は、庫裏は下にあり、本堂は庫裏から石段を30段くらい登ったところにある。私が訪問した時には、住職は作務衣をきて、手にバケツを持って石段を上がろうとしていた。私も本堂へ上って行くと、本尊の前のローソクに火を点けて「こちらでお参りしてください」と言われる。住職の話しだと、昔は村と村の間の道路がなかったので、交通の手段は船が主体で、これから先の土肥、戸田へは船で巡拝したのだという。

←**86番札所安楽寺**

大聖寺を出て、信号で右折しないで真っ直ぐ安良里の部落を通って、宇久須の部落に向う。途中、長さ904mの長いトンネルがある。歩道はあってもトンネルが長いとやはり恐ろしい。今日は、どこまで行けるかわからないので、まだ宿を予約してない。天候もいまにも降ってきそうな雲行きである。歩きながら、結願寺修禅寺までの行程を考えながら歩く。土肥町八木沢にある国民宿舎ふじみ荘附近で、雨がおちてきたので、ビニール合羽をかける。安楽寺は町の中心である役場の裏手にある。お参りして急いでバス停に行き、戸田行きのバスの時間を調べると、20分後のバスがある。戸田の国民宿舎伊豆戸田荘に予約の電話を入れると、受け入れてもらえたので、バスで行くことにする。この土肥−戸田間はほとんど民家はなく、アップ・ダウンを繰り返す道で、景色も海岸の近くであるが海岸がほとんど見えない所であるので、バスを選択した。15日目の歩行距離は約32.8Km。

天文2年(1534)僧大用によって開基された曹洞宗の寺である。大用は最勝院(中伊豆町)七世笑山の高弟で、永禄2年(1559)寂。この寺の前身は土肥の山中にあった密教の寺で、行基が建立した草庵がルーツであるとも伝えられている。密教時代は医王山大泉寺と称した。境内の岩窟から温泉が湧き出していて「まぶの湯」と呼ばれている。この温泉は土肥温泉発祥の湯とされ、次のような伝説がある。
室町末期から江戸初期にかけて、伊豆の山々ではいたる所で金が掘られたが、なかでも土肥は最も多量の金が出た土地だった。慶長15年(1610)、安楽寺の裏山でも金鉱脈が発見され、幕府の採鉱役人、間部彦平が人夫を監督して採掘を始めた。時の本寺住職は二世隣仙であった。隣仙はたまたま疝気の病で苦しんでいたため、寺の薬師如来に21日の平癒祈願をかけていた。満願の夜、隣仙は夢うつつに「寺の北方の山を掘れ。そこに霊泉が湧く。これを浴すれば汝の病は治るであろう」という如来の声を聞いた。翌日、隣仙は間部彦平に訳を話し、お告げの場所を掘ってくれないかと懇請した。間部が人夫たちに7〜8坪ばかり山腹を掘らせると、岩の間から熱泉がほとばしり出た。そこで隣仙が入浴してみると、病気はたちまち快方に向い、やがて全治してしまった。その後、この湯は「鉱の湯」とか「こがねの湯」、あるいは「医王泉」と称され、万病に効く霊泉であるとして大評判になった。現在の「鉱の湯」の浴槽は広さ三畳ほど。傍らに湯かけ地蔵が安置されていて、病気の人がこれにお湯をかけて平癒祈願すれば治るとか、子宝に恵まれるとか言われている。
本尊は釈迦牟尼如来像、合祀仏には薬師如来像、それに聖徳大師作と伝えられている虚空像菩薩がある。

←**87番札所大行寺**

雨も上がり今日は朝からからりと晴れ、宿から富士山がくっきり見える。87番札所大行寺は戸田大川の北側、戸田大川河口から500mくらいのところにある。

天正4年(1576)、江戸の浄土宗大本山増上寺の直末寺院として心蓮社三誉上人を開山として開創された。現本堂は木造平屋建ての庫裏兼用で、旧沼津水野藩の名主斎藤本家を譲り受け、明治23年に模様替えして移築した本堂で、本来の建築様式は書院造りで、今なお所々にその面影を留めている。境内に保存されている「竜の鬼瓦」でも往時を偲ぶことができる。境内の東南に観音堂があり、海中出現の秘佛・聖観世音菩薩(木造・等身)をまつっている。
安政元年(1855)、伊豆の下田に来航中のロシア使節プチャーチン提督は、安政の大地震の津波により、さの座乗艦ディアナ号に、航行不能の大災害を受けた。依って代艦建造の余儀無きに至り、戸田村宝泉寺を宿舎として滞在していた。幕府は、先に草案した「日露和親条約」について改訂を要する条項について交渉のため、勘定奉行川路左衛門を全権に任じて戸田村に出向かせた。川路は、安政2年2月23日に来村し、翌日の24日より、大行寺を応接所(会議場)に当てプチャーチン提督を呼び寄せて条項改訂の交渉を行った。境内に「日魯交渉応接所・小笠原領・大行寺」の記念碑がある。

これから戸田峠(780m)まで、この遍路で最大の難所である。かなり急な登り坂が9.4Km続く。雨上りで10月末としては気温は高い。ポカリスウェットのペットボトルを二つとおにぎりを準備してスタートする。登りは苦手であり、休み休み、峠まで約4時間もかかってしまった。峠からすこし下った「だるま高原レストハウス」の屋外のベンチで富士山を眺めながら昼食のおにぎりを食べる。箱庭のような景色で自分の家があそこだと言えるような感じである。下りは快調で大芝のところから、虹の郷の方ではなく、旧道を通って北又、紙谷を経由して2時間ちょっとで修禅寺に到着する。

←**88番札所修禅寺**

いよいよ結願寺修禅寺である。10月3日に1番札所嶺末院を出発して、今日は10月26日、延べ日数24日間、実質16日間の遍路旅であった。16日目の歩行距離は約23Km。
修善寺温泉場の桂川の北側にあり、昔からお弘法さんの寺として有名である。伝によれば大同2年(807)に弘法大師が諸国巡歴の途中御来社錫になり、秘法と奇蹟により人々は帰依厚く弟子杲隣大徳この地に残り、伽藍を建て「福地山修禅万安禅寺」と名づけ、大師を開基として創建せられ、約470年間は真言宗に属していたが、時移り鎌倉時代に至り建治元年(1275)蘭渓道隆禅師(宋禅僧・鎌倉建長寺開山)が元冠の乱の密偵の嫌疑のため難を逃れて来住せられて臨済宗となり「大宋勅賜大東福地肖盧山修善寺」の勅額を賜り、その後一山一寧禅師(建長寺11世)もまた入山された。支那・日本の名僧が住職をされていたが、康安元年(1361)畠山国Cが足利基氏に叛き、修善寺城に籠もったため戦禍を蒙り、また応永9年(1407)には大火災により伽藍全焼して寺は衰頽の極に達したが、偶々伊豆韮山城主となった北條早雲が名刹再建の大願をおこし寺領を寄進し延徳元年(1489)に遠州石雲院から叔父の隆渓繁紹禅師を開山として迎え、以来曹洞宗となり今日に至っている。毎週火曜日には禅堂にて、参加費は無料の座禅会が開かれている。
徳川家康も先例に従い、30石の朱印を賜う。寺宝には古文書・古書画・古器物数多くあり。また岡本綺堂の「修善寺物語」の骨子となった源頼家の面影を彫ったと伝えられる木彫りの面も寺に伝えられている。現在の本堂は明治16年完成の総欅造り延喜式風、方丈の間は明治39年三島市旧小松宮別邸(現楽寿園)の一部の払い下げを得て建築したものである。

←**番外札所宝光山正覚院(修禅寺奥の院)と途中の田園風景**

修善寺温泉街の中心に位置する本寺・修禅寺から西へ5キロメートルほどのところに奥の院・正覚院(しょうがくいん)があります。この奥の院は修禅寺の開祖とされる弘法大師が若い時修業を積んだという場所で、修善寺町内でものどかな農村地域、湯舟地区の一番奥にあり、ここで1年の災厄を払い新年の幸福を祈る冬至の恒例行事「星まつり」が行われます。僧侶が五穀や香、油などを投じてたく護摩の煙に衣服の包みを当てると家内安全や無病息災がかなうとされ、毎年約250名が参加します。「星まつり」は真言宗に伝わる伝統行事で、奥の院は800年前までは真言宗で、本院の修禅寺とともに曹洞宗に改宗されましたが、弘法大師の偉業を伝える儀式として宗派を越えて今も受け継がれています。奥の院の岩壁には阿吽の滝と呼ばれる滝が懸かっている。滝の横には弘法大師降魔壇という修行石がある。これは大師か禅定を修する勝境を桂谷に求め、適地としてこの地を選んだが、天魔地妖が多く修行の妨げになり、住民をも煩わすので、天空に向って大般若の魔事品を書いたところ、金色に輝く六書八体の経文がはっきりと空中に現れたという。これにより魔衆はことごとく岩谷にとじこめられてしまったといわれ、その後仏法は広まり国土は治まったとつたえられている。
平成10年5月に奥の院周辺を整備し、奥の院公園「阿字苑」が完成した。園内には134種約15,000本の木々が植えられ、四季を通して自然観察が楽しめるようになつている。また、修禅寺門前の「い」をスタートして、いろは48文字の石標が奥の院まであんないしてくれ、快適で癒しのハイキングコースである。このいろは石は、明治39年東京日本橋日高屋の主人で修禅寺の信者であった浴客高橋為三郎により寄進されたものである。

←**番外修禅寺指月殿と本尊釈迦如来坐像**

この指月殿は、鎌倉時代に尼将軍と呼ばれた北条政子が、政争の犠牲となつた実子である二代将軍頼家の菩提所 として建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれている。指月とは経典を意味し、かっては鎌倉から送られてきた数千巻にも及ぶ宋版大蔵経を収める経堂でしたが、経本は散失し、わずかに「放光般若波羅密経・巻第二十三」だけが、県指定文化財として、本寺の宝物館に残っている。
本尊の釈迦如来坐像は、スギなどの寄木造りで、高さ203cm、この種の像としては伊豆最大で、鎌倉時代の作、ハスの花を持った禅宗式というめずらしい形をしているため県指定文化財となっている。
阿吽二件の仁王像は本尊よりさらに古く、藤原時代の作、かっての修禅寺境内は広大であり、当時は横瀬にあった寺門で入口を守っていたといわれ、本尊ともども非常に貴重な三体は昭和五十七年より二年の歳月をかけ、大修復がおこなわれた。
扁額の「指月殿」は、元の名僧・一山一寧の書といわれますが、これは複製で、実物は修禅寺本堂に保管されている。