手毬・つきて見よ |
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いのちの言葉「つきてみよ」 松原泰道 「ナーム」H9・9月号より 「つきてみよひふみよいむなやここのとをとをとおさめてまたはじまるを」 |
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良寛さんのもとへ、美しい才女の貞心尼から、良寛さんを師として仏道を修めたい、和歌の心を学びたい・・とまごころをこめた手紙と一首の自作の短歌が添えてありました。 良寛は快く彼女の入門を許す旨の返信と、彼女への返歌をしたためます。その返歌が冒頭の一首です。この歌はまことに凄い。深い示唆がこめられています。 「つきてみよ」は、手毬をついてみよ、仏道を就いてみよとかかります。「ひふみ」以下は一二三四五六七八九十で、「とをとおさめてまたはじまるを」十までついたら、はじめの一に戻るので、これがゴール、これで完成ということは仏道にも歌道にもありません。いつまでもくり返しついて飽きないのが仏道です。それがわかったら、私と共に修行しまなびましょう・・と。 また「つく」は、就く・つくの外に入門を意味する「門をたたく」のニュアンスを感じます。この短歌の応答で良寛と貞心尼との師弟関係が決まります。ときに、良寛七十歳、貞心尼は三十歳です。 以上がこの一首の伝統的解釈ですが、まりつきの唄に託したこの一首には、さらに深い仏教思想が含まれています。 良寛が深く敬慕していたのは道元禅師です。この一首に良寛の道元追慕の念が詠みこまれています。 道元は二十四歳で中国に渡り寧波港に着船します。たまたま中国の禅道場で典座(炊事役)をつとめる老僧が日本船に椎茸を買いに来たのに出会います。道元は率直に「あなたのような高齢者がなぜ典座のような雑用にかかわって修行を専一になさらないのですか」と聞きます。すると彼の老典座は、道元に「立派な外国のお客さんよ、惜しいことにあなたはまだ修行が何であるか、文字の何たるかもご存知ないようだ。後日私の修行している阿育王山においでなさい」と言い置いて去ります。 道元は二ヶ月後に天童山に登り修行に入りますが、この時彼の老典座が道元を訪ねてくれたのです。道元は感激して二ヶ月前の船中での「文字・修行」のテーマについて、まず、「文字とは何か」と問います。すると老僧は「一二三四五」と答えるのです。それは数を数えるのではなく、一から十まで、はじめから終りまで、身のまわりにあるものすべてが文字や学問だ、特別の文字ゃ学問などないと言い切ります。 ついで道元は「仏道修行(弁道)」について尋ねると、老僧は弁道とて、とくに仏道という道があるわけではない、その道一すじに励むならどこでも道を見つけることができる・・と。この老僧の言葉に、道元は心に得ることがありました。良寛はこのときの道元の感激を思い浮かべて、彼の返歌をしたためたのではないでしょうか。 仏道も歌道もともに特別な道ではなく、いま・ここで自分のすべきを一途にするなら、そこに仏道が開けます。 武道ゃ茶道を習うのを「稽古」といいますが稽古も修行です。茶の湯の道を開いた千利休に「稽古とは一よりならい十を知り十よりかえるもとのその一」の一首がありますが、それも、良寛の心と同じなのを知ります。 「われつけばかれ(子供達)かつ歌い、われうたえばかれこれ(まり)をつく、つき去りつき来て時の移るを知らず。行人(路を行く人)われをみて咲う、何に由りてかそれかくの如しと(なぜこんなことをするのか)。首をたれてこれに応えず。ことばもてまたいかに似(しめ)さんや。箇中の意(この私の心)を知らん要せば、元来ただこれのみ」 良寛が子供達とまりをついているのを見て、人が「なぜそんな遊びをするのか」と問うても答えようがない。ただ首をたれるだけで、言葉ではいえない。たって私の意(こころ)を示そうとするなら、ただざんまいになって「ひいふうみいよ・・・」とまりをつくだけだ。この詩と冒頭の短歌と合わせて味わって下さい。 |

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