あの頃は確か・・・

 

 

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昭和45年(1970年)に大阪で万国博覧会がありました。当時私は小学校4年生で、クラス中が「○○館」「△△パビリオン」など、小学館付録のカードを集めたり切抜きを持ち寄って盛り上がっていました。ガス・パビリオンで見たクレイジーキャッツのナンセンス映画と、アメリカ館で見た「月の石」が印象的でした。(←家の庭にある石と同じだなぁ、という印象。)テーマソングは「コーンニチワ〜、コーンニチワ〜、世界の〜国から〜」子供心に「アジアの小国日本が世界に向かって胸をはれるんだ!」と思っていました。

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大阪万博の直前の2年間くらいは「アポロ」ブームでした。家中で夜遅くまでテレビにかじりついて見てました。アメリカの巨大ロケット「サターン」が月まで人間を運び、ついには降り立ってしまったんですから、本当に夢の実現の連続でしたよね。当時の熱狂振りは大変なもので、僕らが大人になる頃は「大気圏往復ツアー」ぐらいは出来るはずなんて本気で考えていました。

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以前「外食」はすなわち贅沢でした。たとえそれが近所のラーメン屋さんであっても、わざわざお金を出して人様に食事を作ってもらうことは、を楽しむ手段の一つでした。「今日は外へ食事に行こう!」これは私たち子供(当時)にとって、大変な家族サービスでした。ファミリーレストランなんて全くない時代でしたから、「レストラン(つまり洋食屋)」「中華料理(つまりラーメン屋)」「すし屋(これは今とさして変わらない)」から選ぶのが庶民の選択肢だったように思います。「すし屋」は”回転”の普及で格差がついたせいでしょうか、昔の方が身近に感じていたように思います。

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小さい頃のお風呂はで焚いていました。焚き付けに新聞紙やワラを使いましたが、安定した火力は出せなかったのでけっこう大変でした。そのうち「オガライト」という、オガクズ炭の粉と混ぜて練り固めてレンコン状の穴(通気用)があいた物が登場し、薪に比べて軽いし着火は速いと感心したものでした。浴槽は木で出来ていて、底の方には焚き釜に触れないように枠が沈めてありました。風の強い日は煙突から火の粉が飛びやすいので、風呂を我慢した日もありました。

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お醤油買って来て」と言われると、私(小2くらい?)はビンを抱えてお店に行きました。店の奥に醤油ダルがあって、ビンに移しての量り売りが普通でした。一度ビンを落として割ってしまった事もありました。コンクリート舗装の道に醤油が広がり、匂いが立ち上ってくると同時にがあふれてきました。お店の前だったのでおばさんがすっとんで来て「新しいのをあげるからね。」といってラムネまでくれたのを覚えています。お店では、今で言う手動石油ポンプをよく使って移していました。あれは今でこそ石油専用ですが、元々は醤油注ぎ用だったんですね。

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給食のメニューで印象に残っている物は?う〜んそうですねぇ、やはりカレーとかソフト麺の類でしょうね。いや、大切な物がありました。鯨:くじらです。当時は牛肉なんて極上品のイメージの塊でしたし、マトン(羊の肉)が赤身で食感が似ているせいでしょうか、牛の代用肉のような感覚で庶民には食べられていたような気がします。あのころのマトンはかなり臭くてお世辞にも美味しくなかったけど、は味わいがあって好きでしたね。給食でも、少し固かったけど油で揚げてナッツをまぶし、濃厚なタレをからめた「ノルウェー風」というやつが月に一回は出ていました。

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お菓子はいつの時代も子供の宝物!「一粒で300メートル」「一粒で二度おいしい」のキャラメル、「大きい事はいい事だー!」「痛快丸かじり」のチョコ、「あ〜の子どこの子かっこいぃじゃない」のパイなどが主流でした。でもこれらは遠足の時などだけで、普段は近所の駄菓子屋で、原料不明の妙に色鮮やかな怪しいお菓子(ハッカ紙とか練りアメのたぐい)を結構食べてました。

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自動販売機は小学校高学年になって初めて見ました。この中にお金が入ってるんじゃ危ないなぁ〜、とか余計な心配をしたものです。コーラのビン売りで、冷蔵庫仕立てのガラス扉を開けてお金を入れるとビンが抜き取れるという物でしたが、抜き方が中途半端だと取れなくなってしまいました。500mlビンを一気飲みするのが流行ってましたが、もわからないしもったいないので私は敬遠してました。程なくポッ○コーヒーなどの器械がポツポツと現れました。缶入り飲料自体が珍しい頃でしたので、今のようにお茶が売られるなんて想像も出来ませんでした。

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テレビを見てると、時々画面の隅に「カラー放送」という字幕が出ました。私の家は確か4〜5年生まで白黒テレビでしたから、その文字が何を意味するのか分かりませんでした。ある日友達の家でテレビ(ここはカラーテレビだった)を見ていたら、いきなり画面に色が着いて「うわっ!映画館みたいだ!」と驚いた事がありました。最近では逆に「この放送は白黒です」と字幕が出る様になりましたね。ちなみに、水の入った巨大レンズみたいな物をブラウン管の前に取り付けて画面拡大を図ったり、色付き透明板をつけて「気分だけ総天然色」という不思議なテレビ関連グッズもありました。

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昔の正義の味方(古い表現?)の主題歌は義務・命令調が多かったような気がします。「〜するんだ!」とか「ゆけ〜ゆけ〜!○○」とか「戦え!○○」とか・・・。こちらは助けてもらう立場なのに、ずいぶんあつかましいなぁと思った事もありました。「僕らの〜」「我らの〜」など公共サービスのような表現も多かったですね。正義共通の敵が何であるか分かりやすい時代だったという事でしょう。

 

 

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近頃の世の中の変貌振りは時代のせいなのか、自分が年を食ったからなのか定かではありませんが、忙しい時でも書き込みの出来る一種の回顧録で更新ペースを崩さないように心がけようと思いました。

私は昭和35年、つまり60年安保の年の生まれ。時代は高度成長期です。みんな働く意味と目標を持って驀進している時代でした。しかし生活のあちこちに戦前から続く日本の姿(若い人にはおとぎ話に聞こえるくらい今とは違う事)がいくつも残っていました。そんな事を思い出しながら書き連ね、日本の未来をどう捉えたらよいかを考える材料にしたいと思います。

(ああ、きっと何年か経つとこれも昔話になるんだろうなぁ・・・と思いつつの 1999/10月)