渡辺総生 Watanabe Fusao 1999(2004年改編)
教室に通っている生徒が、今度クラスの伴奏をするので見てくれ、と申し出ました。 音楽教室ではよくある話で、休日レッスンをしたり時間を延長して何とか弾けるように努力するものです。生徒自身も親も普段より気合いが入ってきて練習量も増え、エチュードを逸脱した楽譜であっても結構弾けてきたりします。学校で満足のゆく「仕事」が出来た時には自信もつき、仲間内でも「ピアノの弾ける人」としての地位が確立します。親にしてみれば、月謝を出し送り迎えまでしてきた意味が見出せ、「ピアノを習わせていてよかったです。」などお礼の手紙を頂く事もあります。 これは幸運なケースです。こちらの気付かないところで問題が起こっていたり、どこかで無理難題が押さえきれなくなって誰かが傷ついたり、時にはピアノを辞めてしまう直接の原因になったりもします。学校にしろアマチュアコーラスにしろ、ピアノ伴奏ほど難しさと安直さが同居している音楽活動は他に見当たりません。 「伴奏請負人の試練や悲劇」は表面には出にくく、その苦悩の原因はなかなか探り出せないことが多いのです。 人前でピアノが弾けるようになるまでには様々な困難が待ち受けています。 それを職とするピアニストや余裕のある人ならまだしも、学習途上者や弾くのが精一杯の方の場合、この「当たり前」は重くのしかかってくるのです。
などについて様々な努力をします。 多くの場合、ピアノ伴奏者の練習は孤独です。
実際の演奏家の世界では競争原理・実力主義は当然のことですが、教育現場やアマチュア音楽の場合、審査の基準が音楽性に一致するとは限らないので、一方的な都合で決まった時はただただ落ちた人間が傷つくことになります。「ピアノの先生」は何でも弾ける、と思われやすいのと同様、「ピアノの弾ける子」は何でも出来て当然、と考えられやすいようです。
私自身、ピアニストに伴奏をお願いする機会の多い立場ですが、自分の音楽を作ることに集中するあまり、ピアニストへの配慮が欠けてしまうことが幾度もあったと反省してきました。「ピアニストの意見とか都合とかを考える暇があったら、よい音楽を作りなさいよ。」と言われたことも過去にありました。それも確かにそうだと思います。 楽譜もミュージックデータも、演奏会もレッスンも、昔から比べたら非常に身近な存在になってきました。身近ということは手軽に扱えるようになったと考えてよいと思います。ですが、ピアノを弾くこと自体は元来そんなに簡単な事ではありません。ピアノ伴奏者が手軽になったということには決してなりません。 日常生活にはない多くの「音楽的経験」を積み重ねて、初めて自然に演奏する態度と能力が育まれてきます。音楽の高度性には関係なく、一定のトレーニングを通じて演奏を実現するのは当然のことです。ある程度自由自在になってから、「フォークソングのギターを模倣する」とか「オペラの伴奏をする」とか「ショパンを弾く」など、ピアノに出来ることを「それぞれ」楽しめるようになるのが、ピアノ学習者にとっての喜びだと思います。 ピアノは非常に柔軟性に富み、演奏者の考え方や技術次第でいろいろな使い方が出来ます。その音を求める人にとっては手軽であっても、実際音を出す人の努力をもっと考えてもよいのではと考えることしばしばです。ただカラオケが流れているだけでよいのなら、言われた通りの事を100回繰り返しても電気代しかかからない器械(シーケンサー等)はいろいろあります。 孤独と戦いながら練習するのが基本になっているピアノ。アンサンブルの機会が豊富な(またはそれが基本の)他の音楽とは、練習や演奏そして学習する意味も微妙に違ってきます。教える側も使う側も、柔軟ゆえに無茶な要求は避けなければいけない、無茶な習慣は正す方向に持ってゆかなければいけないと考える、一連の事件回想でした。 |