獣革を重ねたブーツの中で、爪先はとうにその感覚を失っていた。
踏み締めては沈み、そしてまた一歩を踏み出しては沈む。
白い大地は見るものの心を洗い清め、そして全てを無に帰すと詩人は語る。
しかしそれは、暖かな暖炉の火の中で爆ぜる薪の音を聞く者の感覚であると、男は感じた。
名はフィズライエ。
防寒という名の、そしてその用途を全く果たす事無く既に襤褸切れのようになったフードから覗く耳は鋭角的だ。
エルフ――精霊の寵愛を受けたとされる、神々の時代と共に生きるその種族の者は、たとえ男であっても美しい相貌を持つと聞く。
この男もまた、確かにその美神の血を引いていると思われた。
しかし長旅の疲れと、そして天地を覆い尽くす極寒の苛酷さは、フィズライエから優雅な美しさを奪い去るには充分であった。
吐く息は、形の良い唇から放たれると同時に白い霧となり、凍てつく空気の中で消えていく。
呼気に含まれる水分は外気に触れるや否や微細な氷となり、それらもまた地に降り立つ分厚い雪の層へと還元していくようであった。
冷え切った空気は、本来ならば有している水蒸気の悉くを恐るべき冷気によって氷とされ、乾ききっていた。
吸い込む息はフィズライエの喉を傷つけ、ひりついた口中にはたえず血の味が滲んできている。
既に空腹も疲労感も失っている。
まだ感覚として残留しているのは、己の肉体がこれほどまでに重いものであったのかという驚きであった。
踝まで埋もれる雪から足を抜き、そしてまた歩を進める。
その感覚が次第に緩慢なものになってきたとき、フィズライエは落とした視界の先に黒いものを見た。
煤となった燃え滓。
それによって、フィズライエは己の旅路がようやく終末を迎えた事を知ったのだった。
麗しの都、ドゥーハン。
流麗な王城、<ヴェノアの宝石>の異名を持つ白亜の宮殿を中心としたキュクロプス構造を有するその聖都は、一夜にして地図より姿を消した。
その原因がなんであったのか。
一説によれば、天空より飛来した巨大な岩石によるものであると、魔術師は語る。
そんな岩石がどうして、遥か頭上を飛空していたのか。
まさか、子供の寝物語に出てくる天空の王国が実在するのか、との問いに魔術師は口を閉ざした。
しかし彼は言葉を続けた。
一つの村を悉く覆い尽くすほどの岩塊は、我々が信じられぬほどの速度をもってドゥーハンに落下したのだと。
岩は燃え盛る溶岩の塊となり、そして麗幻たる都は灰燼と帰した。
星の数ほどの人間が塵と化し、大地を穿つ力は土煙を巻き上げ、地上を覆い尽くすほどにまでとなった。
天空を占拠したそれは暖かき陽光を遮り、そして彼の地は生けるもの無き亡霊の都と呼ばれた。
だが、フィズライエは知っている。
生き地獄とまで呼ばれるその地において、今なお生を繋いでいる者らがいることを。
かじかんだ指先で煤けた破片を拾い上げると、罅割れた指の先についた雪が見る間に解けていく。
黒い汚れを残すそれを放り、フィズライエは顔を上げた。
動くものといえば、灰褐色の空間を縦横に舞う氷の華だけの世界の向こうに、無数の黒い影が見えた。
たゆたう氷の霧のせいで細部まで見ることはできなかったが、それが人の手による建造物であることはかろうじて分かった。
聖都ドゥーハン。
見る影もなく変わり果てたその地を見下ろすフィズライエの瞳は、底無しの虚空のようであった。