あの男に出会ったのは、瘴気が渦を巻く地下宮墓だった。
群がってくる不死の呪詛に蝕まれた屍鬼どもを部下が殲滅したと同時に、あの玄室のドアを開けた冒険者に、俺の目は釘付けになった。
地下迷宮に冒険者の輩が足を踏み入れているということは、以前から伝え聞いていたことだし、事実俺も何度も目にした事もあった。
その都度、明らかに魔物との戦闘に、更に言うならば限定された空間という環境における戦闘に慣れていないことに苛立ちを覚えていたのだったが。
玄室の扉を開いた戦士と忍者の背後に立つ魔術師を見て、俺は全身の血が沸騰するような錯覚を覚えた。
しかし頭の何処かで、自棄に冷静な声が何かを主張しているようだったが。
フェズライエ。
その名を、俺は思い出していた。
今でこそ魔術師の好むゆったりとした長衣を纏ってはいたが、そんなものでは俺の目は誤魔化せない。
ふとした動きに現れる身のこなし。
気配と感覚の配置。
そしてなにより、その躰をうねるように包んでいる筋肉の束。
その生涯の大半を古い文献の解読に費やす魔術師であるならば、決して持つ事のない、長い時間をかけて鍛えられた柔軟な筋肉。
それが、お前の躰を取り巻いていることを、俺は見逃さなかった。
しかし、そんなことはどうでもいい。
俺が一番衝撃を受けたのは、お前が俺のことを、そして自分の過去を忘れ去っていると言う事だった。
目を見れば分かる。
お前は嘘をついているのではない。
しかし、それが一層俺の感情を掻き乱した。
忘れた、だと。
そんなたわ言が許されると思っているのか。
フェズライエ―――かつての友。
そして、仇敵。
迷宮を構成する岩盤層自体に恒久的な付加魔力がこめられているせいで、足を踏み入れるたびに、扉を開け放つたびに変幻自在にその姿を変える第七階層を抜け、その下の階層に到達した瞬間、俺は空気の変調を感じ取った。
階段の先が、かなりの空間を持つ広間であったことも関係していたのかもしれない。
しかしそこで俺が掴んだものは、それまでの地下迷宮とは明らかに違う空気だった。
そしてそれは、同じく部下にも影響した。
頭の中に直接響くような、低い男の声。
それが魅了咒であることを察知し、俺は精神の周囲に意志の壁を張り巡らす。
精神に影響を及ぼす薬物や呪紋に対して、ある程度の万能の抵抗力を持つことが求められる忍者にはそうした術がある。
一瞬で、俺はその咒を施した術師がかなりの手練れであることを見抜いていた。
それとともに、部下の忍者の躰から力が抜ける。
術にやられたか。
「何をしている」
低い声で一喝し、俺は自分の内で高めた気迫を物質的な純度まで高め、一気に取り巻く部下へと放散した。
それにより、当身にも似た衝撃が部下を襲い、部下は意識を取り戻す。
筈、であった。
びくりと身を竦ませた部下どもは、その瞬間に俺を中心とした円周陣形を展開した。
総勢で三十名を越える忍者どもが、一斉に俺に対して牙を剥いたのだ。
その陣形の一部が崩れ、そして知った顔が姿を現した。
「お前たち・・・何をしているのか、分かっているのか」
護帝神将(クイーン・ガード)たる俺に向かって、その拳と刃を向けるか。
意のままに四肢を支える筋肉に、俺は血流を集中させた。
熱い感覚が全身を包み、そしてずしりと心地よい重みが神経と骨に伝達される。
それは指先にまで達し、そして躰の隅々に行き渡る賦活の気力が神経を鋭敏に研ぎ澄ます。
まず俺に向かって来たのは、部下の中でも比較的修業の足りぬ連中であった。
そうした者はやはり精神に生み出された影響も強い。
他の手練れが俺の放つ殺気を感じ取る中、その意志のみで操られたか。
頭上、左右から二人、正面から一人、斜め左後方から一人。
完全に同じ速度で一気に間合いを詰めてくる。
『・・・遅い』
俺は軽くステップを踏んで後ろに飛ぶと、直刀を抜き放った直後の者の腕を右手で取り、左の肘を容赦なく態勢を崩した顔面に叩き込む。
それだけで頚骨が破砕される感触があった。
ぐにゃりと力を失うそれから手を離し、素早く奪い取った直刀を返し、正面に投擲。
疾走速度にも増す勢いで正面から投じられたそれを、躱し切れるはずも無く、柄が喉に押し当てられるほどに一気に首を貫かれ、斃れる。
残るは二人か。
当初の予定では、元にいた位置において寸分の隙も無い四方向からの一斉斬撃を叩き込もうというつもりだったか。
それは俺の教えた戦術だ。
師から学んだ技をそのまま師に返しているようでは、甘い。
右足で床を軽くとんと蹴り、一息で俺は二人と同じ高度にまで上昇する。
恐らく、こいつらの動体視力では視認が精一杯な速度で二人を屠られているように見えているはずだ。
手甲の下で握り込んだ拳を閃かせて首筋に打撃を入れる。ぶちぶちと筋肉繊維と動脈が千切れた感覚によって即死を確認し、その反動をもって蹴撃を反対側にいる者の左胸の一点を狙って繰り出す。
折れた肋骨が短刀のように心臓を貫き、肺を破り、背面から突出する。
音も無く着地した俺を、再び間隔を詰めた部下が包囲をしようとしたときだった。
背後で、第三者の気配がする。
知らぬ者ではない。
「フェズライエ・・・」
俺は思わず、その者の名を口にしていた。
その姿は、かつて地下宮墓で出会ったときと変わらぬ、魔術師の風体のままであったが。
目の色が、その輝きが変わっていた。
これほどの短時間で、人は戦闘技術を飛躍的に向上させることは不可能だ。
たとえ天賦の才覚を保持していても、短期間で血を吐くほどに実戦を繰り返してみても、駆け出しが歴戦と肩を並べることは無い。
だが、お前はそれを成し遂げた。
それはすなわち、お前が戦闘技術の面において完全なる素人ではなかったことをも意味していた。
お前は腕を上げたんじゃない。
思い出しただけだ。
魔を練り言霊を紡ぎ、あたかも音を並べて意味を成さしめんが如くに事象発現を生じさせる魔術と同時に、その躰をもって戦う体術と剱術をも、その肉のうちより甦ったのだ。
まだ完全とはいえないが、確実にお前はもとの自分を取り戻している。
護帝神将としての、お前の姿を。
それは俺にとって、二つのことを同時に意味していた。
一つはかつての友にまみえた事による、喜び。
一つは陛下をその手にかけた反逆者と邂逅した事による、苦痛。
なぜ、どうしてという自問はそれこそ天空にて輝く星の数ほども繰り返した。
それでもなお、お前が陛下を裏切ったことによる答えは見出せぬ。
ならば、お前に問うしかあるまい。
しかし。
見れば、フェズライエの一行もまた、いつしか忍者の致死の輪の中に取り込まれているではないか。
その他、連れている三人の冒険者は明らかに狼狽の色を浮かべている。
戦士に、忍者に、僧侶。
護衛としては悪くない。だが、腕が足りん。
「フェズライエ」
「・・・クルガン」
記憶の中のままの声で、仇(とも)が俺の名を呼んだ。
背を向けたまま、俺はついと左腕を動かした。
薄い鉄鋼による手甲で、長衣越しにフェズライエの背に触れる。
「フェズライエ・・・後ろは引き受ける」
憎しみは、信じることよりも容易い。
だからこそ、数多の絆が偽りの憎悪によって汚され失われるのを俺は見てきた。
ならば、信じようではないか。
かつての友を。
真相は何時でも聞きだせる。
刹那前までは身を焦がすほどに燃え盛っていた憎しみが、今では嘘のようになりを潜めている。
滅多に心を開かぬ俺を惹きつけた友よ。
今一度、背を預けさせてはくれまいか。
そして思い出して欲しい。
かつて数え切れぬ戦場をそうして潜り抜けてきた記憶を。
それまで、俺はお前を信じるとしよう。
ぐっと握り締めた五指を包む、皮手袋がきゅっと鳴った。