握る。
指の細い筋肉が微かな軋みをあげながら収縮し、指先がついと上を向く。
はじめに動いたのは中指だった。
それに吊られて薬指、人差し指、小指、親指の順に徐々に曲がり、弱々しくも拳を固める。
はっと、男の双眸が開いた。
眼前に広がるのは、広漠たる曇天。
そして、極みすら見えぬ天空より舞い降りる、美しい六角結晶の華。
思い出そうとしても、記憶が無い。
これまでの生涯に渡る記憶の悉くを失ったのではない。
あのとき、自分の身に降りかかった災厄についての記憶がない。
思い出そうとしても、感じるのは分厚く漂う靄。
それでもなお両手で振り払おうとすると、激しい頭痛と嘔吐感が襲い掛かってくる。
分からない。
俺はどうなったんだろうか。
なんだって、あんな場所に一人横たえられていたんだろう。
仲間は。
共にパーティーを組んでいた仲間は、一体何処へ。
あの日の朝、俺たちは迷宮第二階層へと探索の場を移そうとしていた。
戦利品を店に持ち込んでいたとき、あの薄汚い店の奥から普段はあまり顔を見せない奥方がひょっこりと現れた。
どうやら、俺たちの持ち込んだ品の一つに目を留めたらしい。
細くしなやかな指で摘み上げたのは、泥に塗れた指輪だった。
それは装飾品としても、そして嵌められている宝石も輝きの弱い、本当に二束三文の品だと思っていた。
だけど、俺たちはまだ駆け出しだ。
少しでも金になるのなら、と拾っておいた指輪を見るや、彼女の顔色が変わった。
少し待っているように、と旦那に忠告し、それから半刻。
仲間の魔術師が嘆息を漏らすような輝きを持つ宝石を手に、彼女は戻って来た。
それが、あの指輪に嵌められていた石の本当の姿だとは、誰も予想し得なかったことだ。
そしてその石は、ただの宝石ではなかった。
朽ちることが許されず、ただ復元と呪詛の魔法によって縛られている生ける屍、俺たちが不死者と呼ぶ魔物を斃す力を戦士の剱に与える、魔法の力が込められた宝石だったのだ。
それを手に入れることができたのは、本当に幸運だった。
僧侶の祈りですらも、まだ呪われたコボルドの屍骸をかろうじて一人分、土くれに還すことが精一杯の俺たちは喜び勇んで、次の日の探索に赴いたのだ。
そこで、何が起きたんだ。
それだけが、全くといっていいほどに思い出せない。
だが、俺に生じていた変化は記憶だけではなかった。
それは、奇跡的な孤独なる帰還を果たしてから数日発った時であった。
俺は見失った仲間を見たやつがいるんじゃないかと、酒場へと足を向けようとしたときのことだった。
宿屋から一歩出れば、外は凍てつくような風が荒れ狂う。
きっちりと防寒具を着込み、獣革ブーツの紐を締め、そしてベッドサイドに置かれた直刀の束に手を伸ばしたときだった。
普段から握りなれた、手垢と汗とが染み込んだその布の感覚が伝わった瞬間、俺は無意識のうちに直刀を放り出していた。
鍛えられた鋼は床板に落ち、転がった。
たったそれだけで、俺は全身に汗で濡らしていた。
窓の外では吹雪が横殴りに吹き付けてきているというのに。
その瞬間に、俺は自分でもどうしようもないほどの、そして刹那的な感情の暴走を味わったのだ。
指先が震え、唇が腫れ上がったように感覚を無くしていく。
膝から力が抜け、俺は住み慣れた宿屋の部屋の暗がりに何かが潜んでいるかのように、必死で怯えた視線を振りまいていた。
怖い。
恐ろしい。
いやだ。
そうした負の感情が、俺の中で渦巻いている。
そして不思議なことに、そうした俺を見つめている、もう一人の俺の存在もしっかりと感じることができる。
その感情を味わった瞬間に、俺は絶望のあまりに視界が暗転するような錯覚を覚えた。
恐の情は、すなわち挫折者を意味する。
俺が受けてきた、苛酷で非人道的な忍者としての修業では、それを捨てきれないものには一切の伝授を行わなかったからだ。
俺にはそれを捨てることができた。だからこそ、連日の修業と、泥のような短くて深い眠りの日々にも耐え切ることができたのだ。
五年。
その経験と記憶は、俺の一生涯を支える基盤となるはずだった。
もう一人の俺の視点で、俺ははっきりと悟った。
俺は、自分に負けたのだ。
俺は恐怖を捨てたのではない。自分でもわからないほどに固く、慄いて震えつづけている子供のような自分を閉じ込めて来たのだ。
仲間を失い、記憶を失い。
心の均衡を失った瞬間に、その扉は開かれた。
俺はもう、忍者として戦場を駆けることはできないのだ。
それでもなお、酒場へと通ってしまうのはどうしたことか。
飲めぬ酒に酔い、吐き、また飲む。
そして俺はずっと冒険者たちの姿を見てきた。
かつての、自分の姿を。
昨日は五人いたやつらは、今日は三人に減っていた。
あんなにやかましく酒を酌み交わしていたホビットの兄弟は、昨日覇気を無くした顔で仲間を募集する登録帳面を開いていた。
ここには、死が満ちている。
そんな場所で朽ちていくのは、敗残した俺に相応しい。
だが。
俺は見たんだ。
その日、酒場の扉を開けたものの姿を。
傍目には経験の浅そうなエルフの魔術師だった。
青い瞳がいやに印象的であったが、俺は素知らぬ顔を決め込もうとしていた。
そして、目があった。
瞬間、俺は顔が燃えるように紅潮するのを感じた。
初対面であるはずのエルフに、俺は心のうちまで見透かされたような気がしたからだ。
同時に、激しく横面を張られた気分だった。
『どうして、あなたはそんなところにいるのですか』
美しい声色で、そう問い掛けられたような気がした。
顔を伏せている俺の横を魔術師は通り過ぎ、そしてカウンターに置かれた染みだらけの台帳に視線を落としている。
落とした視線の先に、腰に吊った直刀があった。
触れずとも、持ち歩いていたそれ。
ずたずたになった己の心をさらに責め苛む為だけに、ずっと懐に抱いていたそれ。
俺は自分でもどうしてそんなことをするのかわからないままに、直刀の束に手を伸ばした。
握る。
冷たい鋼の感触を、俺はしっかりと手の内で受け止めることができた。
どうしてだ。
あの魔術師が、何か術をかけたのか。
いや、そんなことはどうでもよかった。
俺は、もう一度あの迷宮に潜りたい。
掛け値なしの感情が、渦巻いているのを感じていた。
直刀のベルトを締め、酒を呷り、そして魔術師へと近づいていく。
声がかけられるまでに近づいたとき、俺は魔術師の肩越しに帳面が見えた。
その中に見える、酒場の主人の字で綴られた、屑糸のような俺の名前、グレッグ・メランド。
ずっと空欄だったその隣に、魔術師は美しい書体で綴った。
フェズライエ・シェルダーリオン、と。