通路を成す岩盤が鳴動するほどの轟きが上がった。
額に張り付く髪を払う間もなく、そしてともすれば砕けそうになる膝を叱咤して。
彼は見た。
我等のパーティーを、まさに闇の中に飲み込ませんとする、悪鬼の姿を。
それは異様な頭部の発達を遂げた、巨大な爬虫類の姿であった。
「レイファス、後衛を下げろ!」
野太い男の声が、その龍の咆哮に負けじと響き渡る。
その命令に迅速に対応した軽装の小柄な男が、すぐ近くにいる若い男の袖口を掴んでその場から引き剥がす。
そしてその場に残ったのは・・・長衣を纏っただけの、恐怖に顔を引き攣らせた若い女性だけとなった。
「アリエスカ!?」
あのままでは、無事ではすまない。
既に年配の戦士が一人、ヤツの吐き出した紫色の刺激臭に包まれて命を落としている。
あれほどに屈強だった男が、自分の喉を押さえながら、のた打ち回っていたのだ。
激しい痙攣に肉体を暴れさせ、言葉にならない何かを呟くたびに口腔から大量の濁った血液がごぼごぼと不吉な水音を立てていた。
しかし、彼の苦悶は長くは続かなかった。
あの龍は、床で悶え苦しむその声がいかにも耳障りだと言わんばかりに、鎧ごと男を踏み潰したのだった。
そして今、自分たちがいるこの場から、さらにアリエスカはあの龍に近い距離にいた。
見たところ、感情と肉体が完全に乖離してしまっている。
あまりの焦燥感に伝達径路が一時的な麻痺を起こし、その場から動けないでいるのだ。
「行くか?」
自分の隣で、指令を出した髭面のドワーフがにやりと笑った。
「なっ・・・当たり前だろ!?」
「は、とんだ若造だぜ」
ドワーフは俺の予想を裏切るかのように、手にした戦斧をくるりと回転させるとなれた手つきで背中のベルトに固定した。
それはつまり、戦闘からの離脱を意味する。
「俺はてめえと違って命が惜しいんだ。一人が死んで他が逃げ延びる・・・パーティーってな、そういうモンだろ?」
俺の肩をぽんと叩き、そしてドワーフはその矮躯をさらに縮めるようにして疾走した。
龍とは、逆の方角に。
嘘だ、これは夢だ。
ほんの一瞬、どんな些細な予兆すらない奇跡を期待するかのようにドワーフの逃げる先へと視線を向けた俺の背後で、異音がした。
ぶぉん。
続く鈍い音。
振り返ったときには、その場にはアリエスカはいなかった。
耳を劈く悲鳴と共に、壁に背中から激突するアリエスカ。
肉体的には脆弱な魔術師にとって、戦士の俺ですら戦慄をかきたてられるほどの一撃がどれほどの重みを持つものか。
俺は咄嗟に走っていた。
軽く数メートルは吹き飛んだアリエスカの下に辿り着き、懐から一握りの小さな瓶に入った薬液を手渡す。
痛覚を麻痺させ、出血を止める。
迷宮内の応急処置として、誰もが一つは持っている救急用の薬だった。
それを震える指で握り締めるアリエスカの瞳に、恐怖と困惑が綯い交ぜになった光が揺れる。
どうして、私を助けようとするの。
口が聞けるのなら、そういわんばかりに。
「飲め、早く」
震える指先は覚束無い動きで瓶の口を掻くばかりだ。
俺がアリエスカの代わりにそれを歯で引き抜き、中身を流し込もうとしたそのとき。
俺は肩から脇腹にかけて、まるで分銅を叩きつけられるような衝撃と、熱く解けた鉄をぶちまけられたような灼熱を感じた。
そして。
「私なんか、助けるからよ」
幾度、あのときの夢を見ただろうか。
あのパーティーから追い出されたのは、二週間前。
以来、俺の眠りの中では決まって奴等が現れた。
ある時は、俺が死んだ。
ある時は、アリエスカが食い殺された。
手を変え品を変え、俺を苦しめつづけるあの夢。
傷が癒え、そしてこうして再び酒場で座っていても、俺は視線を感じる。
それは元のパーティーを知るものたちの、蔑視だ。
何の得にもならない行動で、愚かにも手練れのグループを追い出された、阿呆を見る眼だ。
それでも、俺は。
あのとき、アリエスカを助けたかった。
あのとき、ドワーフと共に逃げることもできただろう。
しかしそうしていたなら、俺はやはり悪夢に苛まれていた。
アリエスカが、俺を夢の中でずっと罵り、呪い、さげすむのだろう。
そして満足に夜も寝られない俺は、いつしか迷宮の中で疲労しきった躰を魔物の餌にされるのだろう。
そんな結末なら、いっそのこと。
自嘲気味に笑い、俺は目の前にいる魔術師に手を差し出した。
この男は、俺の依頼を受けてくれた。
酒場のマスターでさえ、侮蔑に鼻を鳴らさんばかりの顔をして帳面に綴っていた、俺の依頼を。
魔術師の名は、フェズライエといった。
エルフ特有の美しい目には、俺に対する蔑みは無かった。
俺は、こいつと確かめてみる。
もし、こいつもまた、あのドワーフと同じ考えなら。
いや、そうではない何かを俺は感じていたのだろう。
共に手を取り合える、何かを。
「俺はリカルド=ドレフェス」