どこを逃げて来たのか分からない。
 どれだけ走ってきたのか覚えていない。
 ただ、激しい頭痛と吐き気、そして力の入らない足が痺れて動かなくなってもなお、走ることを強いられた。
 今にして思えば、大した距離ではなかったのだろう。
 体力の無い私ですら、限界ではあったにせよ、ついていけたのだから。
 襟首をつかまれ、そして洞窟の奥へと投げ出されたのを皮切りに、私は意識を失った。

 

Nothing Together

 

 唇に当たる水の感触に、私は薄く目を開いた。
 どれだけの時間、気を失っていたのだろうか。
 それは眠りなどと言う安らかなる時間ではなかった。
 意識こそ無いものの、躰の芯を見えぬ魔物の呪詛に蝕まれるような、どのように足掻いたとて決して逃れることのできない、肉の内側でくすぶる疼きに耐えていた時間であったのだから。
「飲め」
 ぶっきらぼうに仲間の戦士が命じ、そして皮袋が傾けられた。
 生温い水ではあったが、私の躰は水分を欲していた。
 貪るように飲もうとした瞬間、喉に激痛が走り、私は戦士の手から皮袋を弾き飛ばすほどの勢いで噎せた。
「飲めんか」
「ああ、だめだ」
 何度も身を折るほどに咳き込んだ私は、涙の浮いた瞳で戦士の後姿を縋るように見つめる。
 その向こうには、漆黒の甲冑を纏った屈強な男がいた。
 リーダーのガレイスだ。
 飲めないか、という声も彼のものだった。
 その意味することが分からず、私はごつごつした岩場に横たわったままの姿勢で呼吸を整える。

 山道で私たちのパーティーを襲ったのは、三匹のワイヴァーンだった。
 知能も低く、呼吸器系よりガスを噴出させる能力も持たない、いわば龍とは名ばかりの魔物であるはずだった。
 事実、私たちは過去に幾度もワイヴァーンと剱を交え、そしてさほどの被害すら出さずに勝利を収めてきていたのだから。
 しかし、地の利は奴等に味方した。
 私たちが遭遇したのは、遺跡や迷宮、洞窟などの閉鎖的な空間における戦闘であったのだ。
 そこでは、いかに制空権を奪われようとも空間自体が狭い為に、その飛行能力を充分に生かすことができない。
 だが細い道しかない、山道であれば形勢は逆になる。
 こちらの足場は制限され、戦闘どころか移動すらもままならない状況にありながら、ワイヴァーンは何者にも阻まれることの無い上空を自在に動き回れるのだ。
 奇襲を受けた事もあり、私は充分な魔力を集中させることができなかった。
 隣で狼狽している僧侶もまた、それなりの強度のある結界を呼び起こすことすらままならない。
 結果、私たちは逃走することとなった。
 私は背中と左肩に裂傷を負った。
 あっという間に回り込まれ、鉤爪によって長衣を引き裂かれたのだ。
 ワイヴァーンの体液は付着した程度では何の問題も無いが、体内に入ると粘膜に猛烈な炎症を引き起こす毒になる。
 私の状態はまさにそれであった。
 喉と口の中が腫れ上がり、激痛を発している。食べ物は愚か水すらも受け付けない。
 そして高熱は容赦なく、体力を奪っていく。
 放っておけば、恐らく数日と保たぬであろう。
 ワイヴァーンの奇襲において、攻撃を受けた者はリーダーを入れて四人。
 そのうち、前衛となる三人は素早く緊急携帯の解毒剤によって治療している為に、今ではその痕跡すらない。
 しかし僧侶は解毒の術を使えなかった。
 習得していないのではない。祈りによって喚起できる魔力の限界までを、彼は癒しの術に費やしてしまったからだ。

 掠れたように、男たちが話しているのが聞こえる。
 残った水薬は僅かに一つ。それとて解毒の作用があるものではなく、気休め程度の効果でしかない。
 その瓶をこじ開けると、ガレイスは大股で岩壁に凭れる僧侶に近づき、そして喉の中に流し込んだ。
 一部始終を目の当たりにしていた私は、目の前が暗くなるのを感じる。
 それは毒の所為だけではあるまい。
 残った生存の道は、私に与えられることは無かったのだ。
「ガレイス・・・どうして」
 圧迫される喉の激痛を堪え、私は尋ねた。
 問い掛けずにはいられなかったのだ。
「アルメジアは癒しの知識がある。魔術を使い果たしたお前よりは、価値があるというものだ」
 分かっていた。
 魔力を失った魔術師が、パーティーにとってどれほどの人材であるかを。
 脆弱な肉体はそれだけで重荷となる。行軍にも戦闘にも支障をきたし、結果パーティー全体を危機に晒すことすらある。
「行こう。蜥蜴どもが探し当てる前に逃げないといかん」
 気配がざわつき始める。
 こいつらは、本気で私をここにおいて行く心算でいる。
 そう、安易な奇跡などは期待していない。
 しかし、それにしても、あまりに冷酷ではないか。
 いや、その覚悟は出来ていたはずではなかったのか。
 だからこそ、実力の長けたこのパーティーに志願したのではなかったか。
 それの結末が、このザマとは。
 不覚にも涙が零れて来る。
 それの半分ほどは、不甲斐なく果てる運命にある自分へと向けられたものであったが。
 そのとき、ふと自分の顔のすぐ横に何かが落ちてくる物音がした。
 手探りでそれを掴むと、小さな布袋だった。
「本当なら、湯に混ぜて煎じれば解毒の薬になる葉だ。それだけなら劇薬だが・・・賭けてみるくらいの価値はあると思うがな」
 先ほど、水を飲ませてくれた戦士が残した置き土産。
 それを握り締めながら、私はパーティーが洞窟を後にするのを見送っていた。

 

 私は、生き残った。
 あの戦士が残してくれた葉は、間違いなく毒を分解するだけの力があったものの、それの副作用としてそれまでをも越える激烈な反応を呼び起こした。
 恐らく、強い幻覚作用があったのだろう。
 私は三日三晩の間、あの洞窟でのた打ち回っていた。
 自分で掻き毟ったのか、それとも岩肌に打ちつけたものか。
 全身を無数の傷で覆われながらも、次に目を覚ましたときには、あの炎症は嘘のように引いていた。
 そこからなんとか下山した私は、もう一度冒険者としての生業を続けようとした。
 如何に熟達した魔術師とはいえ、単独活動は考えられない。
 しかし、魔術師の魔術を第五位階まで習得した私の仲間となる者は現れなかった。
 経験が足りないのではない。
 私を見放したはずのガレイスの名は、冒険者の中では悪い噂とともに知れ渡っていた。
 あのガレイスとパーティーを組んだ魔術師。
 そんな視線が、何処の町でも見受けられた。
 私が差し伸べた手は、何者も握り返すことはなかった。

 上等よ。
 そのとき、私は薄笑いを浮かべていたのだろう。
 一人でだって、冒険は続けられる。
 しかしそれには、魔術師という技術だけを学んでいたのではいけない。
 魔術は時に万能とさえ思えるだけの力をもつが、それは常に何者かに護られていてこそだ。
 私の身は、自分で護る。
 そう決断した私は、その日を境に魔術師の道に別れを告げた。

 

 

 

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