部屋に入るなり、濃密な臭気が自分を取り囲むのを感じた。
 微細な粒子となった紅の粒が、まとった絹の聖衣に染みを作るのではないか、という錯覚すら起こさせるほどに、その臭気は強烈なものだった。
 拭っても洗っても、なおも取れぬそれ。
 血の匂いと、死の気配。
 その中心で、破れた鎖帷子を身につけた男が、こちらに弱々しい笑みを向けたとき。

 彼女は、自分が何をすべきなのかを、はっきりと悟った。

 

 

Disease in the memory

 

 彼女が生まれ育った村は、比較的温和な気候の丘陵地帯であった。
 大きな窪地のようになったそこは、二つの河が交差する場所のために水はけもよく、土も肥えていた。
 父親は他の男たちと同じように土地を耕していたが、その地方の領主はさほど税を厳しくしなかった為に余裕はあった。
 母親の作るスープは美味しかった。
 幼い時間を幸福に過ごしていた彼女は、その日の出来事を今でも忘れることはできない。
 それは、とある昼下がり。
 母親に布の切れ端で縫ってもらった手製の人形で遊んでいた彼女は、周囲の空気がざわめいているのを感じて顔を上げた。
 村の入り口から入ってきたのは、商人の一行だった。
 さして娯楽の多くないその生活では、訪問者はその存在が危険でない限りは手厚い歓迎を受ける。
 彼女と目があったのは、気の良さそうな小太りの女だった。
 村人が村長を呼びに言っている間も、そして商人の長らしき男が出てくる間も、その一行は至って穏やかだった。
 駆け寄ってくる子供たちの相手をしたのは、その女だった。
 馬の引く荷台から、いろいろな品や果物を出してはそれらを見せたり、与えたりしていた。
 彼女の手の上には、見た事も無い真っ赤な果実が乗せられていた。
 顔を近づけただけで、甘い香りのするそれに彼女はむしゃぶりついた。
 歯で噛んだだけで溢れてくる果汁は、本当に美味しかった。
 しかし、彼女は見た。
 周囲で歓声を上げる子供たちに囲まれながら、女が不安げな顔で一台だけ、きっちりと幌をされた荷台を見やる、その横顔を。

 

 異変は、その夜。
 興奮した若い男が彼女の家のドアを乱暴に叩いた。
 あの商人の一行を、すぐに追い出さなければならない。だから力を貸してくれ。
 彼らは熱っぽくそう主張した。
 驚いたことに、彼らは既に村長の許可を貰っていると言う。
 騒がしい物音に目を覚ました彼女は、ドアの隙間から父親と若い衆とのやり取りをじっと聞いていた。
『あいつら、隠してやがったんだ』
 息せき切った若者は、吐き捨てるように忌々しく呟いた。
『荷台に、伝染病の男を乗せてやがったんだ』

 

 だが、時は遅すぎた。
 商人の一行は夜のうちに村を叩き出されたが、そのときには既に体力の無い老人をはじめとして、躰の変調を訴える者が現れていた。
 病魔の牙は、容赦なくその村を引き裂いた。
 潜伏期間は殆ど無く、呼気により胞子が撒き散らされることによる空気感染。
 一介の村に、それを防ぐ手段はなかった。
 病はまず高熱から始まった。すぐに食事を受け付けなくなり、激しい嘔吐と下痢による脱水症状で多くのものが命を落とした。
 だが病の本当に恐ろしいのは、それからだった。
 屍骸は黒く変色し、それ自体が病巣となる。
 冷たくなった肉親を、まだ肌の温もりが覚めやらぬうちに焼かねば、触れただけで肌に水泡ができ、醜く腐り果てるのだ。
 村長はすぐに遣いの者を領主の館へと送り届けた。
 それとは別に、ここから一番近い都にいる治療術師を呼ぶべく、なけなしの銀貨を詰めた袋を別の若者に持たせ、村で一番の駿馬を与えて放った。
 二人が村を後にしてから、一週間。
 どちらからも、何の返答も無いままに時間だけが過ぎ、死がゆっくりと村を飲み込んでいった。
 彼女の両親も、そして彼女も例外ではない。
 まず父親が倒れ、そしてその死と同時に母親も病に伏せった。
 あなただけでも、早く逃げなさい。ここにいてはいずれ死んでしまう。お母さんも、もう。
 何度言い聞かせられても、彼女は一時も母親の下を離れようとはしなかった。
 衰弱していく母親の姿は、今でも夢の中に現れる。
 ある朝、彼女は酷く躰が火照っていることに気づいた。
 全身の関節が激しく痛み、頭が割れるように疼く。
 寝台の上にいる母親にそっと触れると、その頬は既に冷たい。
 それが、彼女が母親を感じた最後だった。

 

 気がつけば、見知らぬ女の腕の中にいた。
 使いの出発から半月。
 治療術師は確かに村へと来た。
 生き残っていたのは、わずかに子供が三名のみ。
 遣いの若者は道半ばにして病に倒れ、知らせが大きく遅れたのだ。
 彼女はその治療術師の下で、癒しの術と薬、病の知識を学んだ。
 それはまた、不甲斐なく両親を死なせてしまったことへの、子供ながらに感じた己の非力さであったのかも知れぬ。

 ごふっと分厚い胸板が痙攣し、口から濁った血が吹き出る。
 その飛沫が聖衣を汚すことも構わず、彼女は布で男の汗を拭い、そして乾いたその唇に薬を流し込んだ。
 喉仏が動き、それを嚥下した事を確かめる。
 既に鎧は脱がせ、薬を塗った布を巻いてある。
 今の水薬を飲めば、体内で毒を分解してくれるはず。
 だがそれだけではいけない。
 男は酷く体力を消耗している。薬のみならず、そこには術が必要だ。
 じんわりと生命力を奪う熱を帯びた胸に手を当て、彼女は聖句を胸の中で念ずる。
 助かるか、助からないか。
 いや、助けてみせる。
 不安を無理矢理に確信へと変えたそのとき、彼女の細い手首を男の指が掴んだ。
 はっとして目を開いたその前には、横たわった父親が見えた。

 今度は、助けてあげるからね。

 彼女の指は胸板の上で小さな円を描く。
 永遠と命の灯火を象徴する魔法円だ。
 その中心に指先を当てたまま、彼女は繰り返し聖句を唱えた。
 指先から生まれる優しい温もりは、ゆっくりと男の全身を包んでいった。

 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。
 だが、目を閉じたままの男の顔に朱が差し、規則正しい呼吸をはじめたときになって、やっと彼女は溜息をついた。
 癒しの術は、男の命を救ったのだ。
 張り詰めていた肩の力を抜いたとき、そこに手が乗せられるのを感じて彼女は振り向いた。
 励ましてくれたのは、酒場で出会ったばかりのエルフの魔術師の青年。
 部屋の入り口では、魔物の襲撃を恐れて見張りをしている戦士と忍者の姿があったが、男の容態が持ち直した事を知ると、二人もまた笑顔を向けてくれた。

「お疲れ様でした、サラ」

 その言葉が何故か母親の声に聞こえ、サラは頬を伝う涙を拭いもせず、ただ頷いた。

 

 

 

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