くるまえれじい

くるまえれじ〜
昭和40年にそれは来た。白いブルーバード(410の中古)自家 用車!夢のようでした。
ひるがえって、1997年に開催された香港〜北京ラリー取材記 で、「はじめて見るラリーカーに、中国人青年はテクノロジーに 対する羨望のまなざしを向けていた。」と同じ目を7歳の僕も していたにちがいない。しかしその車は、冬はラジエターの水 が凍ってしまい、夏は渋滞でオーバーヒート、セルモーターの 不調か、押しがけを何度やらされたことか・・・。意外に押しが けもたのしんでやってたかもしれない。車とは故障するものだ と思っていたから悪いイメージは残らなかった。
間もなくそんな手間から開放される事になった。昭和44年に 新車ブルーバード510を購入したからだ(もちろん父が)。その ときもらった映画招待券「栄光への5000km」(石原裕次郎主 演)は、ブルーバードがサファリラリーで優勝した記念で作ら れた映画であったと記憶しています。
小さな頃から、将来必ず免許を取得して家の車を早く運転で きるようになりたい(実現した時には、こすってもいい練習用と なっていた)。とは思っていましたが、自動車関係の仕事をし ようなどとはとは、これっぽっちも思いませんでした。ただ映画 の記憶は不屈の挑戦者という印象が残っただけで、当時映画 を観る事自体が楽しかったのだと記憶しています。
510は故障しらずではあった。七夕豪雨水没事件で完全に水 没したにもかかわらず、父は、直して13年乗り続けた。それら の子供時代の体験で、将来は、自動車関係の仕事をしようと 考えるよになりました。同時にその後の人生に大きな影響が 当然刻まれた事はまちがい無いとは思っていたのだが・・・。 しかしその後のオイルショックで写真関係に針路変更。さらに 免許を取る頃には世界一のホンダのオートバイに感動。あの 伝説のすみや守男?氏の訃報から自分のバイクライフが始 まり、バイクに夢中になってしまった。この頃は、富士スピード ウェイにもオートバイの練習走行につれていってもらったりし ていた。
そして普通車免許取得。友人の兄さんのS800Mに試乗した のをきっかけに、再び車に興味を持つ。シビック1200RSが愛 車となる。この車は、実はヨーロッパ仕様のシビックだったと か。開発からヨーロッパを実際に行って作りあげただけあって 当時何か感じるものがあった。ヨーロッパで盛んだった、ヒル クライムに出場していた写真がカーグラフィック誌に載ったり、 日本ツーリングカーでの無敵サニーにまじり、常にトップクラ スの入賞をしていたりと、スポーツ性は高く、操作とパワーの バランスがバイクに近く、思いどうりに走らす事が出来た。ま た青春時代と重なって、思い出も多く忘れられないものとなり ました。(ホンダさんありがとうございました)その後の車はそ れ以上の物が見つからず、欲求不満を750バイクで補ったり、 途中プジョー206GTI〜ミニ購入に動いたりしました。(ローバ ーさん約束破棄してごめんなさい)いくら高価であっても、どう してもファミリーカータイプ(クラウンロイヤル系を頂点とする) には、乗る気がしない。
結局…今乗っているトヨタ車は、忘れられないシビックの延長 ではなく、馬力は規制値いっぱいあっても、安全で居心地の いいおとなしいスポーツサルーン。車のあるべきひとつの方 向性としての進化だろうか、そういう事では満足はしていま す。
思うに、シビックは、ドアをはじめとするウイークポイントはたく さんあった。(半ドアになりやすい/ペダル類が、タイヤハウ スの張り出しで軽のように内側にオフセット/ブレーキディス クが他のシビックと同径で、ノンアシストだから力が要る/クラ ッチシフトの手ごたえがやわ)でも、そのウイークポイントがこ の車らしさをだすというのか、ウイークポイントが、この車をひ きたてるというのか…。ブレーキのノンアシストに関しては、ヒ ールアンドトーのしやすさは、この車の特権のようなもので、 バイクと同じ、つきのいいCVキャブとの相性はこのうえないも のだった。
クラシックバイクのエンジンスタート時(クラシックカーも同様) の儀式のようなめんどくささを、バイクや車を知っている、ひと つの楽しみのようなもの、とみるかどうかの違いなんだんね。 たぶん。徳大寺先生のいう、単なる移動手段じゃなく、安全運 転で目的地までの往復を楽しむ。特に今の時代、腹立てなが らの運転ではあじけないもんね。



LPレコードよ永遠に
デジタルといえば、記憶に新しいほんの少し前に起こった出 来事を思い出します。「針をおとす・・・」とは音楽を聴くの比喩 的表現ですが、今でも通用するのでしょうか。
1980年代前半、一世紀にわたろうとするアナログオーディオ の世界に新しいテクノロジーが台頭・・・(LPレコード1948年 からは三十数年)いわゆるレコードからCDメディアへの移行 によるデジタル化である。
当時フォークブームも去り、音楽が好きな友人S君は、エレキ ギターに転向してプログレッシブロックや新しいジャンルのフ ュージョンなどをコピーするためなのかレコードを収集し始め ていた。またセパレートステレオがはやりで、仲間内でもたま に話題になったり、若者特有のいいたい放題の、独自のオー ディオ論をぶつけ合ってもいた。
S君はオーディオマニアに知り合いがいて、オーディオ機器は 意外性のある選択をし、傍で見ている私にも後々それが正し い選択だったと思う事が多く、私もそれに習う感じであった。
S君はすでにCDを聞いていたのだろうか、仲間内で一番の 音楽通としての自負があったのか、意地を張っていた私をな だめるつもりだったのか(当時の専門誌ではCDの評価は良く なかった。)・・・仲間内でCDが話題になったとき、たしか秀才 K君がデジタル録音機ダットで録音したテープとCDの違いな ど、デジタルの解説をしていた時だと思う。
ダットとCDの違いが僕には良くわからないが、本の内容をそ のまま言っている感じだったので意地をはる・・・友人S君は 言った!「共にデジタルだから機械的な音なんだよな・・・」そ れでダットとCDの話題は結論。・・・
ガビーン!?私は何も言わなかったが、レコードを買いつづける 事に決めた。なんと21世紀になる寸前まで、アナログ・オーデ ィオが”でん”と部屋に居座りつづけたのだ。
もっとも針を落とす事は余り無く、カセットにダビングして聴くこ とが多かったのだが(これもS君の影響でもある)。
時は流れ、すきな音楽をレンタルでCDからダビングするため にCDラジカセを1993年に購入、CDも買うようになって増え始 めたため、CDプレイヤーを買う(1997年になってやっと購 入)。・・・僕自身のデジタル化は、よく調べようとしなかった事 も手伝って、大幅に遅れてしまった。
最近になっても、プレス・アナログレコードの良さをアピールす る記事があると、食い入るように読む事が多い。今もなお引き ずっているのかもしれない。
その後の友人たちはというと、たまに歌謡曲をカラオケで歌う 普通のおじさんで、羊の皮をかぶってしまったようだ。ともあれ Music CDは多くの評論家の心配をよそに、あっけないほど 早くアナログレコードを過去に追いやってしまったのだ。 (1982年にCDが世に出てから、1988年CDはアナログレコー ドの売上を上回る。)
レコードを買いつづけると決めた私は、まもなくNEC98を購入 する。ソフトの値段も高く会社の画像処理関係とあまりにも性 能差があるので7年後に手放す。なぜかコンピューター嫌いに もなっていた。
1980年後半頃から考えていたケミカル・カラー写真自家処理 が、1995年頃にはデジタルで(MAC)できる可能性が見えて きたものの、デジタルと同じ出費であればケミカルでやりたい と思ったが、処理時間がかかるし、高価でもあり、二の足を踏 んでしまう。
そんな愚痴を友人にいったと思うが、自分のオリジナルをコダ ックのPhoto CD化することを勧められ、ネガも含めPhoto  CD化したりはしていた。出力は富士フィルムのピクトログラ フィーなどを置いてあるショップでと考えていた。
そんな時、画像処理はまったく意識せず、パソコンと再び付き 合う事になった。ノートパソコンを使いこなしている方達に影 響され、本屋のパソコンコーナーに立つ事が増えた。1997年 にWindowsブームに遅くれつつも乗っかり、ワープロと表計算 を覚えるつもりでDOS/Vノート(NECLaVie)を購入した。そ れはアナログ的な落ち着く我が部屋のコタツの上に置かれ た。NECの信頼性と中山美穂に1票投じる感じだった。
それをきっかけに火がついたように、自作機を作る。
勢いとはおそろしく、あっという間に、メインマシンの他に4〜 5台分のディスクトップの部品が使われないままになってい る。ソフトの関係からMACに替えることなくカラー暗室(明 室?)も実現してしまった。
オーディオはCDラジカセ中心になってしまったものの、自分 で録音した無線での会話などの声と好きな音楽を重ね合わ せたCDをCDRで作ったり、編集してカーステレオで楽しんだ りするまでになってしまった。
当初落ち着かなかったパソコンライフも今では、部屋にはオー ディオの代わりにパソコンが居座り、生活の重要部分を占 め、たった5年程で身も心もパソコンアレルギィーがうそのよう に無くなり(パソコン自作は効果大か)、一気にデジタル化し てしまったのである。5年が10年以上の歳月を経過した感覚 である。
しかし、いまでもレコードに針を落としてます・・・。





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