第2回 今だから語る1994年5月1日と、レースの本質について。(2001年3月14日)
今回はちょっとまじめに^^;;



僕がF1を見るようになったのが1991年からだから、もう10年間もF1を見つづけてることになる。
きっかけは、R。(僕の兄ね)に勧められて見た90年のF1総集編。セナ、プロスト、ピケ、マンセルといったキラ星の如きスター達 が、それぞれの個性的なキャラクターでもって様々なドラマを演出していた。今をときめくシューマッハもハッキネンもまだいない。 そんな時代だった。

当時のスターは世間一般にも、やっぱりセナだった。セナあってのF1で、F1あってのセナ。CMにはセナの姿が毎日のように流され、 F1中継も当然のようにセナとマクラーレン・ホンダが話題の中心だった。

誤解を恐れずに言えば、僕はセナが嫌いだった。大嫌いだった。傲慢な態度、90年鈴鹿でのプロストとの接触のような、手段を選ばない レース哲学。セナ中心のフジTVの中継も相まって、セナのことをどうしても好きになれなかった。ただ、セナの速さ、強さは認めていた。というか、 認めざるを得なかった。予選終了間際に、誰も抜けないようなスーパーラップを叩き出し、これでもかと言うほど速さを見せつけて、“セナは ポケットにラスト1秒を隠し持っている”などと言われるほど、憎たらしいほど速かった。

1994年は、おそらくセナ一色のシーズンになるだろうと思われていた。それまでの2年間は、マクラーレンの戦闘力が極端に低下し、 チャンピオンシップの候補になることすら出来ない、セナにとっては屈辱的なシーズンを送っていたが、この年、当時常勝チームだったウイリアムズに移籍し 全GPセナに持っていかれるのではないかとさえ言われていた。しかし、開幕戦スピン、第2戦スタート直後クラッシュと、らしくないレース が続いていた。そんな中迎えた第3戦サンマリノGPは、セナにとって正念場となるGPだった。

この年は、何かがおかしかった。シーズンオフにはベネトンのJJ・レートが首の骨を折るほどの大クラッシュ。開幕戦ではアーバインやフェルスタッペンら 4台による多重クラッシュ。アレジもテスト中のクラッシュにより何戦か欠場しており、例年と比べ事故の多いシーズンだった。 そして、サンマリノGPが開幕するや、バリチェロがフリー走行で鼻骨を折る大事故。そして、土曜日の予選では最悪の事態が発生した。 ルーキーのローランド・ラッツェンバーガーが大クラッシュし、死亡。12年間続いたF1の安全神話は脆くも崩れ去り、不穏な空気の中 5月1日決勝日を迎える。

ラッツェンバーガーの事故死のニュースは、フジTVの予選中継の時に知った。日本のF3000等でも活躍していたドライバーで、僕も 日本国内のレースは疎かったが、名前は聞いたことのあるドライバーだったのでショックだった。嫌な予感がした。F1で人が死ぬなんてことは 思っていなかったから。決勝日をこれほど不安な気持ちで迎えたことは無かった。そして、その悪い予感は的中することとなる。

この日のF1中継は、もう僕にとって忘れたくても忘れられない、吐き気がするほど最悪なものとなった。いつもとは違う展開で 放送が始まる。セナの事故の映像がまず流れ、次に三宅アナ、今宮さん、川井ちゃんが3人で立っている場面に切り替わった。 セナの容態を述べる3人。何度も流されるセナの事故の場面。コース脇に横たえられ治療を受けるセナ。セナのものと思われる 、エスケープ・ゾーンに広がったおびただしい量の赤い血。飛び立つ救急ヘリ。そして暫定的に、録画されていたレースの中継 が流されはじめた。どうやらシューマッハがトップを走っているらしい。でもレースの内容なんて全然頭に入ってこなかった。 放心状態の僕に追い打ちをかけるようなニューステロップ。
“F1ドライバーのアイルトン・セナ選手は、収容先の病院で死亡しました。”
死なないと思っていた。ラッツェンバーガーの事故死のあった翌日だったけど、セナは、セナだけは絶対死なないと盲目的に信じていた。 その後中継はセナの追悼番組に切り替わり、解説陣は皆涙していた。僕も呆然としながらその“追悼番組”を見ていた。

それからというもの、F1は矢継ぎ早に安全対策を強いられた。マシンはコクピットにプロテクターがつけられ、ウイングのサイズは縮小。 タイヤは溝付きのものとなった。サーキットにもメスが入り、エスケープゾーンは拡大され、ほとんどの 高速コーナーが改修され、シケインとなった。結果、マシンは不安定になりオーバーテイクが困難になった。サーキットは、ストレートが短く 中低速コースが増え、ピット戦略によるレースと化し、エキサイティングとは程遠いレースが続いている。

レースは危険である。時速300キロで走る限り、事故を完全に無くすことは不可能である。だからFIAが安全対策としてこれらの 政策を打ち出すことは理解できる。ただ、その一方で、レースの本質がある。レースの魅力というのは、やっぱりコース上で抜きつ抜かれつ のバトルがあるからだ。だからこそ延べ何百億人という人々が、TVなりサーキットに出かけるなりでレースを見るのである。F1の安全性とレースの本質 とのいたちごっこは難しい問題だけど、FIAにはやっぱりもう一度考えて欲しい。これだけ多くの人がレースを楽しみにしてるんだから。



用語解説

90年鈴鹿・・・セナ78ポイント、プロスト69ポイントで迎えた日本GP。プロストにとっては ここと、最終戦オーストラリアGPを2連勝しないとタイトルを獲得できないという状況。ポールポジションはセナだったが、スタートで プロストが先行。直後の1コーナーでインをついたセナと、アウトから被せたプロストが接触。両者リタイヤでセナのワールドチャンピオンが 決定した。
それまでの2年間・・・91年、セナは自身3度目のワールドタイトルを獲得したが、92年からはウイリアムズが 急速に台頭。92年はマンセルが開幕5連勝で大勢が決し、93年には宿敵プロストにタイトルを奪われた。









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