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書物の未来
 「ブックカメラ、あるいは書物と自然」展
                              鈴木正美


 学生時代を過ごした大学の図書館は老朽化して薄暗く、書庫はまる
で潜水艦の中のようだった。はしごのような急な階段を上がり、狭い書
棚の間をさまよっては初めて見る本に胸をときめかせた。中でももっとも
よく覚えているのは、フレーブニコフとクルチョーヌィフ合作の『地獄の戯
れ』(一九一三年、第二版)を手に取った時のことだ。茶色に変色したこ
の本は、いまにもポロポロと崩れ落ちそうなほどに傷んでいた。恐る恐
るページを開くと、オリガ・ローザノワのドローイングが目に飛び込ん
だ。革命前の正字法、しかも手書きの文字で書かれた詩は、ロシア語
を学び始めたばかりの僕にはまるで分からず、それでもローザノワの文
字と絵の意匠に何か言い知れぬ恐れのようなものを感じ、ただ驚き見
入るばかりだった。同じころ見つけたマヤコフスキーの『これについて』
(一九二三)も、やはり詩の内容よりもロトチェンコのフォトモンタージュ
による一一枚の挿し絵に魅せられてしまい、何度も手に取った本だ。

ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちが、ポスターやテキスタイル、
工芸品、室内装飾などさまざまなデザインの実験を試みたことは周知
の通りだが、中でも詩人たちとの共同作業であるブック・デザインには
魅力的なものが多い。たとえばジェラルド・ヤネチェックの先駆的な本
『ロシア文学の表情(Look)。一九〇〇 - 一九三〇年のアヴァンギャ
ルドの視覚実験』(一九八四)はアンドレイ・ベールイの言語実験から
クルチョーヌィフ、カメンスキーら未来派の視覚実験、ズダネーヴィチや
テレンチェフのタイポグラフィー等、この時代の詩が言葉のデザインを実
践していたことを理解させてくれる。

  アヴァンギャルド以降の書物芸術を概観する展覧会が今春ペテルブ
ルグで開催された。フォンタンカのアフマートワ博物館で開催された「ブ
ックカメラ、あるいは書物と自然」展は、スターリン時代から現代までに
作られた美術作品としての書物を八〇点余り展示した。「ブックカメラ」
は「本の暗室」とでも訳すのだろうか。また「自然」と訳したが、これはロ
シア語では「スチヒーヤ」、つまり自然を構成する土、水、火、空気の四
大のことである。その題名の通り、同展に展示された書物=芸術作品
は、自然の中の書物、自然の構成要素のひとつとしての書物、あるい
は四大のすべてになりうる書物というコンセプトのもと、さまざまな実験
が試みられている。

  まずスターリン時代に作られた豪華なアルバムは興味深いものだ。
『英雄叙事詩。チェリュスキン隊の北極探検と非業の最期』『白海・バ
ルト海運河』『一九三〇年の労農赤軍指導者図鑑──戦争芸術書』
『モスクワ再建マスタープラン』などは、どれも当時の印刷・製本技術の
水準の高さを示す、美術的に価値の高いものである。展覧会の中心人
物ミハイル・カラシクの言うように、「これらはいずれも芸術家スターリン
のつくり出したものである。彼は舞台監督であり、映画監督であり、批
評家、文学者だった」。スターリンが映画狂だったことは有名な話だ
が、豪華本をつくることにも力を入れていたことは今回の展覧会で初め
て知った。中でも特に面白いのは『ソーセージと薫製』(一九三六)だろ
うか。食料品工業人民代表部の製作した部数四千のこの本は、二七
〇ページにわたって世界各国のソーセージと薫製の美麗な図版を満載
したものである。こうした「役立たずの書物」が国家的事業として出版さ
れたのは、芸術家スターリンの度量の広さを物語っているかのようだ。

  さらに現代の芸術家による作品は書物の概念を根底から問うような
ものである。箱や缶詰に入った本、酒ビンを二つに開くとビン形の詩集
が入っている本、ドアのノブがついた『開かれた本』、四隅がボルトで固
定された頑丈な本、水道の蛇口のついた『水の書』、ヘビの絵が長々
と描かれた詩を経本のようにじゃばらに折った本といったユーモアのあ
る作品がある一方で、作者の手垢にまみれた本、古い本をたくさん詰
め込んだ古い本棚そのものを提示したものなど、作者の記憶にまつわ
る作品もある。腐敗しかけて文字もほとんど読めないボロボロの紙束で
できた作品、カゴに本の束を入れるとシュレッダーのように分解してし
まう象の鼻のようなオブジェや本に映写機やレコーダーを組み合わせ
たオブジェなど奇妙なものもある。僕がいちばん気に入っているのが、
川沿いの廃虚ををまるごとオブジェにしたイワン・チェチョート(一九五四
―)の作品だ。川の水とそれに関わる風景そのものを一冊の書物として
読む作品で、ここでパフォーマンスが行われたそうだが、実際にどんな
ものだったのか、この目で見たいものだ。

手作りの意匠をこらしたこれらの作品は手に触れることのできない、観
るだけの美術作品なので、実際の書物としての機能からはずれてい
て、「読者」としてはとても不満なのだが、作者や美術批評家による論
文とエッセイを一〇編収め、図版を多数収録した展覧会カタログは、
「書物=芸術」の現在と未来を考察する上でたいへん充実した内容
で、「読者」を満足させてくれる。先ほどのチェチョートも「書物と自然。
書字狂の試みと物語」という不思議な論文とも物語ともいえない作品を
寄せている。土、水、空気、火、人間の五つの章からなるこの作品は、
古今東西の書物にまつわる文章の引用からできていて、彼の芸術作
品を読み解く鍵となるものである。

このカタログの序文で先ほどのカラシクは言う。「芸術の伝統的形態あ
るいはその変形の最期を予感しつつ、絵画、劇場、グラフィックとしての
書物は二〇世紀に死んでいなければならなかったのかもしれない。
しかしその死のプロセスには終わりがない。本とその生産的物質的表
現は、普遍的で永遠な形態として、人間の物理的感覚と合致し、調和
している。本に代わってよりコンパクトで、機動的なコミュニケーションの
手段がやってくる時、二〇世紀末は書物の病い、あるいは内省や未来
への恐怖の時代となる。言葉の表意文字の等価物としての書物から
視覚芸術としての書物まで、あらゆる興味、あらゆる理解、あらゆる形
態、あらゆるテクノロジーをごちゃ混ぜにして、今日書物は巨大ではっ
きりとした形のない空間として受け入れられている。この自己崩壊と自
己再生の機構は大海に似ている。そして書物の感覚的、理性的存在
は自然の四大と似ている。創造の自然、破壊の自然、物理的かつ精
神的消費の自然。芸術創造そのものの自然は、書物の自然なのだ」。
自然そのものが書物なのであれば、我々自身も書物ということになる。
人がこれらあらゆる書物をひも解く読者であり続ける限り、書物の未来
に果てはない。



発表・掲載誌: 「ユリイカ」1997年10月号 356-357頁


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