ミハイル・カラシク
リトグラフ
2006年3月21日追記
МИХАИЛ
КАРАСИК
ЛИТОГРАФИИ
1.テーマ≪中央アジア≫
今回、日本に向けてお送りしたリトグラフの多くは1980年代末に
制作したものです。それらすべては中央アジアでの印象が強く反映
しています。1986年からリトグラフの制作を始めて、80年代末の頃
にはリトグラフ技法は、私にとって最も重要な、そして殆ど唯一の
技法になっていました。
80年代中期の5年間、毎年夏にウズベキスタン、次にタジキスタン
旅行に出かけていました。ソビエト時代には連邦内の国々にしか
旅行することはできませんでした。アジアは当時のソビエト芸術家
にとって重要な旅行先、テーマとなっていました。ソビエト芸術家の
一部の人々は1930年代、スターリンの弾圧により中央アジアに
追いやられました。又、1941年から1945年にかけての戦争と疎開
により中央アジアにやって来た芸術家たちにとってもアジアは
特に重要な創作のテーマとなりました。
1980年代でさえも中央アジア、特に小さな村々での生活は
都会での生活とは全く違うものでした。又、東方的、アジア的な
中央アジアの町々はレニングラードやモスクワ、タリンなどとは
似ても似つかないものでした。古い文化と慣習が混じりあった
ソビエト的生活からみると、中央アジアは全く普通でない、
不思議な、エキゾチックな、そして時に野蛮なものでした。
そして、旅行で訪れたパミール高原の古い町々、辺境の集落は
私にとって特別愛すべきものでした。そこではとても素朴で
お客好きな人々の生活がありました。
*画像をクリックすると拡大画像が出ます。
≪チャイハナにて≫
私はチャイハナをテーマとしたリトグラフを幾つか制作しています。
チャイハナとは中央アジアの喫茶店のことです。中央アジアの
古い町々ではカフェ、レストランなどありません。人々はチャイハナ
に立ち寄ってお茶を飲み、話しをします。チャイハナではいつも
男性だけがいました。チャイハナでは時間が止まっていました。
私にはそれが賢者たちの集まりに思えました。男性たちは多くは
話しません。私はタジキスタンの言葉はわかりませんが最も簡単な
事柄の話しについて想像位はできました。
≪チャイハナにて≫
こちらも≪チャイハナにて≫という題名です。
≪先生あるいは回教僧≫
ターバン姿の老人たちが日中、暑い中、坐っています。
中央の老人が何か話しをしています。
≪討論あるいは会話≫
2.テーマ≪聖書≫
私は何年もの間、聖書を何回も読んで宗教の歴史に興味を
持ちました。宗教はソビエト時代、正式な許可された芸術のテーマ
ではなく、哲学的観点から宗教を取り上げること位がやっとでした。
私は聖書にまつわるテーマに夢中でした。
初めての聖書にまつわるテーマは中央アジア旅行の印象を下地に
制作しました。旅先ではスケッチやメモはあまりせず、レニングラードに
帰って来てから制作に取り掛かりました。
≪シュラムのおとめ ≫
シリーズ≪ソロモンの歌≫からのものです。
これらは雅歌がテーマとなっています。
1988年に白黒の画集アルバムを初めて発表して、91年にはカラーで
大版のアルバムを、そして98年には第3版を発表しました。
≪出エジプト≫
同じような情景を私は中央アジアの山間の集落で目にしました。
≪集落の結婚式≫
アジアの結婚式、それは観慣れない儀式でした。
集落の人間にとって最も重要な3つの出来事、
それは結婚、息子の誕生(割礼)、死です。
とても大勢の人がいました。
私にとっては様々な所から何百もの人がやってくることが
一番不思議に思えました。
≪ダビデとウリヤ≫ ≪二人≫
アーティスト・ブック≪ダビデとウリヤ≫からのものです。
聖書がテーマとなっています。
ダビデ王の家臣ウリヤが自発的犠牲を行い、
王への献身を示します。
しかしウリヤは妻と引き離される為に戦死させられました。
これは聖書の中で最も悲劇的テーマのひとつです。
エルミタージュ美術館にはレンブラントが描いた
素晴らしい≪ダビデとウリヤ≫の絵があります。
もちろん、このレンブラントの絵に影響を受けたのは
言うまでもありません。
≪源泉≫
≪胴体≫
≪チェドラ≫
アーティスト・ブック≪アラビアン・エロス≫からのものです。
この本にはテキストは無く、女性の姿をモチーフとした
リトグラフの連作です。
この本も中央アジア旅行の印象の元に制作したものです。
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