エディプスなき後のロシア美術

       ─ソビエト・アヴァンギャルドの源流
                                         鈴木正美


破壊と再創造

  世界の現代美術を従来の発達史観である「美術史」という枠付けにおいて記述することは困難である。近代までの美術の場合、そのほとんどが社会・制度の中に厳密に組み込まれおり、そこから遊離することがあってもある種の「流派」という名のもとに美術史家たちによって「美術史」という新たな制度の中で再編され、美術作品はすでに権威づけられた既製品として市場の原理の中にのみこまれていく。商品が不足すれば、これまで二流の、あるいは民衆の芸術と言われてきたものを「再評価」し、新たに商品化することで、「美術史」のカタログに追加していくのである。

  現代美術を歴史として記述することに多くの批評家や美術史家は甚大な労力を傾けながらも、その多くが近代までの美術史のような一貫した流れとして現代美術史を記述することの不可能性を語っている。現代美術を進化や発達の歴史として記述することは不可能であり、それはカタログや事典形式でしか記述できない。個別の美術家、個別の傾向・流派(イズム)の誕生と死、交換と交錯のダイナミズムの記録としてのみ記述可能なのである。

  では今世紀のロシア美術を「美術史」という概念のもとに再編成し、記述することは可能なのだろうか。おそらく、おおざっぱな見取り図として今世紀のロシア美術をいくつかの時代に分けて考えることはできるだろう。それは現代ロシア文化史の時代区分と重なる。1:世紀末のリアリズム(移動派)、  2:銀の時代(象徴派、ロシア・アヴァンギャルド)、 3:スターリン時代の全体主義芸術、4:「雪どけ」の社会主義リアリズムと1960年代非公式芸術、  5:「停滞」の時代の公式芸術と非公式芸術、6:ペレストロイカ期のソビエト・アヴァンギャルド、7:ソ連邦崩壊から現在まで、という七つの時代区分である。美術や文学における様式史の視点を適用すれば、この七つの時代区分は古典主義とバロックが交互に波のように交替する流れの中にとらえられる。ひとつの時代は前代を否定し、その対極へと変化するというプロセスが何度も繰り返される。(1)  また前代の否定は極端な物理的破壊をともなうが、同時に対極への変化は前代までの様式をすべてのみつくし、引用と折衷主義の新たな様式を再創造していく。そして多くの場合、祖父の時代の様式の再評価という行為をともなうのである。

  たとえば、1: 世紀末のリアリズムはモダニズムの美術運動によって否定され、2:: ロシア・アヴァンギャルドに至ってはすべてを汽船から海中に投げ捨てようとするが、同時に看板絵やルボークなどの民衆芸術を再評価する。(2)   3: 社会主義リアリズムは移動派のリアリズムを賞揚しながらも、その宗教性をスターリン崇拝へと組み替える。構成主義において芸術家は生産者として働くべきものであったが、社会主義リアリズムはこれに政治的操作を加え、芸術家は人間の魂の技師とみなされ、国家に奉仕するだけの存在になる。4: 次にフルシチョフの「雪どけ」の時代になるとスターリン崇拝の全体主義芸術は否定され、後期印象派の表現が社会主義リアリズムに積極的に取りれられるようになる。(3)  さらに、欧米の美術の流入と人工衛星スプートニクの成功が宇宙時代にふさわしいユートピア像を多くの芸術家に志向させた。  5: ブレジネフ、アンドロポフの「停滞」の時代になると、こうしたユートピアは形骸化されたものとなり、国家、国民すべての「幸福へのアジテーション」(4)  である社会主義リアリズムからささやかな日常の幸福や欧米の空気を漂わせる「非公式芸術」へと人々の関心は移っていった。当の社会主義リアリズムの公式画家たちも日常生活に潜む悲しみや世代間の軋轢といったテーマを公に描きはじめた。  6: そしてペレストロイカの時代になると社会主義リアリズムは否定され、ロシア・アヴァンギャルドが再評価される。ソッツ・アートやコンセプチュアリズムなどの「ソビエト・アヴァンギャルド」が世界的に注目の的となり、1988年にモスクワで開催されたサザビーのオークション以降、ロシア美術は新たに市場の原理に組み込まれていくことになる。  7: 現在に至っては社会主義リアリズムの再評価がはじまり、全体主義芸術の研究が盛んになり、美術館でソビエト時代の芸術の展示をする場合、公式芸術である社会主義リアリズムの流れと非公式芸術の諸流派が同時に展示されるようになっている。(5)  いま現在の美術を美術史のなかに組み込む作業はまだこれからのことである。

  こうしたロシア現代美術のすべてを記述するにはあまりにも紙幅が限られている。全体主義芸術に関する研究はゴロムシュトーク(6) やグロイス(7) の著作を参照していただくことにして、本稿では1956年から1970年までの「雪どけ」時代の非公式芸術のさまざまな動きについて述べることになる。


社会主義リアリズムの機能

  1950年代のソ連において唯一公認の芸術様式であった社会主義リアリズムとはどのようなものであったのか。周知の通り、社会主義リアリズムの定義が明確にされたのは1934年のソヴィエト作家同盟第1回大会においてであった。「ソビエト文学および文芸批評の基本的方法である社会主義リアリズムとは、芸術家が現実をその革命的発展において正しく、歴史的・具体的に描き出すことを要求する。その際、芸術家による現実描写の真実性、歴史的具体性は、社会主義の精神によって勤労大衆を改造し教育するという思想的任務と結びついておらねばならない」。芸術家、科学者、技術者を統合、組織した少数精鋭の芸術家=政治家が国を統治することを夢見たサン=シモン主義の理想を受け継ぐロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちは、レーニンの電化政策に支えられて芸術による革命を実践しようとしたが、このジダーノフの演説により、その実践の場をなくしてしまう。構成主義においては科学技術的構造体の生産に芸術家が参画したのだが、これに政治的操作が加わり、芸術家が人間の魂の技師とみなされるのが社会主義リアリズムであった。構成主義芸術家たちがプロレタリア労働と技術的発展、そして生産性向上に主体的に貢献しようとしたのに対し、社会主義リアリズムの芸術家は、国家が予め下命した方法に従って労働者を改造するためにその技術を用いるプロパガンダ的人間なのである。かくして労働者を教育しながら、その作品の中で歴史的現実をも反映しなければならない芸術家は、自身が国家にふさわしいものに改造されていくことになる。

  サン=シモン主義的美学であったはずのマルクス主義美学は、意識が社会的存在によって決定され、芸術の中に反映されるという反映論にいつのまにかすり替えられ、サン=シモン主義的美学を欠いた構成主義の理想がソ連版マルクス=レーニン主義美学となった。こうして社会主義リアリズムは「現実の知覚を表現する芸術的形象における歴史的現実の反映」という反映理論を基礎としたために、再現性を重視しないあらゆる抽象絵画は排除されることになった。それはどのようなものであれ、「形式主義」として批判された。さらに、党の政策に合わない政治的テーマは慎重に排除された。宗教的テーマも禁物であり、健康な肉体を賛美する以外にエロティックな裸体が描かれることもなくなった。
  社会主義リアリズムの絵画でもっとも多く描かれたのがレーニン像である。アレクサンドル・ゲラーシモフの「演壇上のレーニン」(1930)は社会主義リアリズムの先駈けとなった作品である。赤旗ととともに演壇上にあり、赤旗の指す社会主義の未来を約束するかのように力強いポーズをとるレーニン像は、ソ連人にとってのイコンである。さらに手をあげるレーニン像は多い。ここでレーニンは迷える民衆の導き手、神の子イエスとして描かれているのである。レーニンの手を差し伸べるようにしたポーズは、イコンにおいて聖者や天使のとるポーズと酷似している。古くからなじんだロシア正教のイコンの代償としてレーニン像は民衆の宗教願望を充足させる装置となったのである。

  このようにイコンとして機能したのはレーニン像ばかりではない。この他にも聖母子像は民衆の宗教意識を支える重要なイコンとして、さまざまなヴァリエーションで展開された。社会主義リアリズム以前ではペトロフ=ボトキンの「1918年のペトログラード」(1920)がよく知られており、ソ連時代では、アレクサンドル・デイネカの「母」(1932)、ミハイル・ザビツキイの「パルチザンのマドンナ」(1967)等が有名である。

  レーニン像と対照的に、スターリン像は手を挙げず直立不動で、しかも彼一人を描いた作品がほとんどである。スターリンは神の子イエスであるレーニンの死んだ後、超人として描かれていることをマルガリータ・トゥピーツィンは指摘している。(8) この世を神なき悪の世界と認識し、自らの意志と力でこの世を善の世界へ改造しようとするグノーシス主義を実践する超人スターリンの姿は常に堂々としていなければならない。たとえばアレクサンドル・ゲラーシモフの「クレムリンのスターリンとヴォローシノフ」(1938)は、実際ヴォローシノフの方が背が高かったにも関わらず、その構図によってスターリンの方が大きく見えるように描かれている。また、ロトチェンコのフォトモンタージュの手法を国家宣伝の芸術に移植し、成功を収めたのがグスタフ・クルツィスである。彼の「わが国の社会主義の勝利は保証された」(1932)では、大きなスターリンの肖像がその超人ぶりを誇示している。これも神の代理としての超人のイコン像である。

 ソビエト時代のデザインはポスターが主流のメディアだった。タブローとしての社会主義リアリズム絵画(芸術)が美術館という聖域においてイコン(聖像)として機能していたのと同様に、ポスターはイコンの複製画として街頭にあふれたのだ。「社会主義的民主主義の勝利」を示すポスターの数々は万民を平等の世界へ導くイコンとして機能していたのであり、政治に参加したいという民衆の欲望を解消するための装置だったのである。

  さらに民衆のための願望充足装置は美術館の中のタブローや街頭のポスターばかりではなく、さまざまな公共施設にも設けられた。たとえばスターリン建築を代表するモスクワ大学の校舎やレーニン図書館等は学問の場に社会主義の理想と未来を実体化したものである。また地下鉄には多くの美術作品が飾られ、市民の日常生活に溶け込んでいた。都市住民のさまざまな幸福幻想を充足させるものとして地下鉄のパネル絵、モザイク、モニュメントが機能していたことをミハイル・ルイクリンの「テロルの身体」は指摘している。(9) 地下鉄の芸術家の中でももっとも有名なのがアレクサンドル・デイネカだろう。彼の制作したモザイク画は数多く、健康な肉体、運動する若者たち、工場や建設現場で働く労働者たち、集団農場で働く農民たち、祖国のために戦う兵士たちなどを描いたモザイクがあちこちの地下鉄に飾られている。このように地下鉄の装飾は都市住民の健康への願い、祖国愛、労働への意志を支えていた。さらに麦や樹木をモチーフとしたモニュメントやパネル絵は、農村から都市へ流れ込んだプロレタリアートたちの農業幻想を支えていたのだ。

 

フルシチョフの芸術観

  「雪どけ」の時代になっても社会主義リアリズムの趨勢が衰えることはなかった。後述する「ロバの尻尾」事件の翌年(1963年3月8日)、フルシチョフはクレムリンで2時間半にわたって演説した。この演説「高い思想的および芸術水準はソビエト文学および芸術の偉大な力である」は当時作家ニコライ・チーホノフが言ったように「歴史的事件」であった。この演説の全文の英訳を同年すぐにイギリスの「エンカウンター」誌が「フルシチョフ・オン・カルチュアー」と題して発表し、世界的にセンセーションを巻き起こした。さらに日本でもこの重訳が早くも9月に新書版の単行本『ロバの尻尾論争以後』として出版された。

  この演説には当時の芸術に関する公式的見解のすべてが含まれているので、以下にそのもっとも重要な箇所を引用する。「わが国民は戦闘的、革命的芸術を必要としている。ソビエトの文学と芸術は、偉大にして英雄的な共産主義建設の時代を明るく芸術的な表現で再現し、われわれの生活における新しい共産主義的諸関係の確立と勝利を正しく描き出すよう要請されている。芸術家は肯定的な事物を発見し、われわれの現実の本質を成しているこの肯定的な事物に喜びを感じ、これを支持しなければならぬ。だが同時に否定的な面、および生活のなかの新しいものの発見をさまたげるすべてのものを見のがすべきではない。

  どんなもの、どんな立派なものでも、暗い面をもっている。最も美しい人間ですら欠点をもっている。大切なことは、生活の部面にどのように接し、どんな角度からこれを評価するかということだ。よくいわれるように、探せば見つかるものである。先入観をもたずに、人民の建設的事業に積極的に参加する人は、生活における良いものも悪いものも客観的に眺め、これらの面を正しく理解し、評価し、進んだもの、重要なもの、社会的進歩にとって決定的なものの確立を精力的に支持するのである。」(10)

  この内容はこれまでの「肯定的主人公」を描く社会主義リアリズムの骨子と変わらないが、ひとつだけ変化しているのは、「否定的な面、および生活のなかの新しいものの発見をさまたげるすべてのものを見のがすべきではない」とはっきり言明している点にある。しかし、それはあくまでも克服されるべきものであって、停滞した現実として描くことは許されない。フルシチョフは続けて次のように述べている。「だがわれわれの現実を傍観者の立場から眺める者にとっては、生活の真の姿を眺め、これを再現することはできない。不幸にして一部の芸術家は便所の匂いだけで現実を判断し、人々をわざと見苦しく描写し、人々を無気力、絶望、そして倦怠の気持ちに追いやるにすぎぬ暗い色彩をベタベタと画面にぬりたくるのである。彼らは自分の先入観と歪んだ主観に従って現実を描写し、自分で考えだした貧弱な型で物を見るのである。」(11)

  意識が社会的存在によって決定され、芸術の中に反映されるという反映論の立場から言えば、すでに完成された理想社会に住むソビエトの住人が暗い現実など描きようがなく、また「自分で考えだした貧弱な型で物を見る」芸術家など存在しないはずであった。しかし、この演説から分かるのは、現実に先行する形で未来を、あるいはありうべき現実をハイパーリアルに描く社会主義リアリズムではなく、現実を主観的に観察し、現実をリアルに描こうとする芸術家たちが少なからず存在し、国家権力がそうした一部の人間の存在を明らかに恐れているということであった。では、こうした芸儒家たちはいったいどのような活動をしていたのだろうか。

 

「雪どけ」時代の非公式美術

  スターリンの死(1953)とそれに続くフルシチョフのスターリン批判(1956)がもたらした「雪どけ」の時代になると、社会主義リアリズムしか存在しなかったソビエト美術の世界に欧米のモダニズムや同時代の現代美術が一気に流れ込む。

   1955年11月、プーシキン美術館で「14?20世紀フランス美術」展が開催され、それまで美術館の収蔵庫に封印されていた印象主義の絵画が公開された。事実上の印象主義の様式の解禁であり、これからこの様式は公式芸術に積極的に取り込まれていくことになる。1956年10月にはモスクワでピカソ展が開催され、翌年にはレニングラードにも巡回した。1957年夏には世界の若手画家たちの作品を集めた「第6回青年と学生の国際フェスティバル」が開催された。この時ソコルニキ公園に設置された三つのパビリオンに52ヶ国から出品された作品は4500点を超えた。同じ場所で1959年に開催された「アメリカ絵画展」ではロスコ、ジャクソン・ポロック、アシール・ゴーキー、デ・クーニング、ロバート・ラウシェンバーグらの作品も展示された。こうして「雪どけ」の時代に、シュールレアリスムを含めて、初期のポップ・アートやアクション・ペインティングさえもソ連人は見ることができたのである。西欧文化の流入は美術ばかりでなく、ジャズ音楽やハリウッド映画など雑多なものが一度にソ連にもたらされた。社会主義リアリズムとは違う、こうした異質な文化、美術に触れた芸術家たちは、抹殺された父祖たちの遺産であるアヴァンギャルド芸術をも掘り起こしつつ、自分たちにとってリアリティのある新しい美術を模索していった。モダニズムという言葉はこの時代に再発見されたのだが、体系的な知識を得ることは難しく、「モダン」とはあいまいにヨーロッパ文化を表現するものだった。

  1950年代後半から60年代初頭、レニングラードではマレーヴィチの教え子だったウラジーミル・ステルリゴフ(1905-1985)とその妻でフィロ?ノフの生徒でもあったタチヤーナ・グレコワ(1900-1985)の二人がゲルツェン教育大学で若い学生たちを集め、抽象主義芸術に関して教えることができた。またアレクサンドル・アレフィエフ(1931-1978)を中心にしたアレフィエフ・グループではセザンヌからキュビズムに至るモダニズム絵画を研究した。アレフィエフは警官の暴力や路上の喧嘩などの日常のスキャンダラスな事件を表現主義風のタッチで描いた。モスクワではエドゥアルド・シテインベルク(1937-)、ウラジーミル・ヴァイスベルク(1924-1985)らの「グループ八」が抽象表現の実験をはじめた。シテインベルクは父祖の復活を目指して、マレーヴィチのスプレマティズムを再構築することになる。彫刻家のワジム・シドゥール(1924-1986)とエルンスト・ネイズヴェストゥヌイ(1925-)は表現主義的な手法で作品をつくりはじめた。またこの時代の実験的作品でもっとも重要な人物がエリ・ヴェリューチン(1925-)である。大学でグラフィック・デザインを教えていたヴェリューチンは1959年にタガンカ通りに私的スタジオを開設し、後に非公式芸術を代表するウラジーミル・ヤンキレフスキイ(1938-)、ヴィクトル・ピヴォヴァーロフ(1937-)、ネイズヴェストゥヌイらを育てることになる。もうひとつ重要なのは「運動」グループである。レフ・ヌスベルク(1937-)、フランシスコ・インファンテ(1943-)らによって1962年に結成されたこのグループはモホリ=ナギからはじまるキネティック・アートを継承し、光と色彩と動きによる芸術で科学技術時代にふさわしい形態をつくることを目指した。

  この「雪どけ」時代以降の現代美術をボリス・グロイスは「エディプス・コンプレックスなき生活」の美術と表現している。(12) 全体主義芸術においてスターリンは、ナポレオンと同じようなポーズで超人として描かれた。しかし、スターリン批判は偉大なる父であり超人のスターリンを地面に引きずり倒し、さらにレーニン廟からスターリンの遺体を撤去する(1961)ことで父親殺しを完遂する。父に代わるものを「雪どけ」時代の芸術家たちは新たなユートピアに求めるようになるのである。それは全ヨーロッパ的な文化の中に新たなロシア文化を構築することであり、宇宙時代にふさわしい科学技術の芸術化というユートピアだった。ただそれはあまりにも現実味を欠いたあいまいなイメージでしかなく、実験的な抽象表現が模索されただけで、完成品はあまり多くはない。

 

「ロバの尻尾」事件

  この時代のクライマックともいうべき出来事が1962年12月マネージで開催された「モスクワ美術の30年」展である。この展覧会に出品されたのは社会主義リアリズムの作品が主だったが、1930-40年代に密かに描かれた社会主義リアリズム以外の絵画、先ほどの非公式芸術家(ヴェリューチン、ヤンキレフスキイ、ネイズヴェストゥヌィ等)の作品も展示された。この展覧会を観たフルシチョフはヴェリューチンらの抽象絵画に対してあからさまな不快感を示し、「私たちはロバの尻尾で描いた絵に一コペイカも払わないだろう」(9)と酷評したのである。

  「ロバの尻尾」事件で特に槍玉にあがったのは彫刻家のネイズヴェストヌイだった。事件の翌年3月の演説でフルシチョフはこう述べている。「さきほどわれわれがエルンスト・ネイズヴェストヌイの吐気を催うすような愚作をみて、たしかに才能もありソビエトの高い教育をうけたこの人が、何でこのようなひどい代物で人民に報いたのか、と腹をたてたものである。幸いこの種の画家はわが国には数多くない。しかし残念ながらこのような画家は、ネイズヴェストヌイ一人ではないのである。他にも抽象画家の作品が二、三ある。われわれは今後ともかような作品を容赦なく、公然と排撃するつもりである。(中略)一部の人は恐らく、フルシチョフは芸術における写真を、写実主義を要求しているというであろう。否、同志諸君、そんなことはない!  われわれが求めているのは、めざましい芸術的努力であり、現実の世界の多彩な姿を忠実に反映することである。そういう芸術のみが、人々に喜びと楽しみあたえるのである。汚いヘタな絵、ロバがその尾でかいたような下らぬ絵を、芸術作品でござると得々としているような輩は、その芸術的才能を失ってしまう。他人はそんな「革新派」をハネつけるほど強いことは疑うべくもない。そして、革新派の中でもまだその正気を失っていない人々は、立ちどまって考え直し、人民に奉仕する道を選ぶであろうし、喜びにみち、人民を楽しく働かせる絵画をつくりだすだろう。」(14)

  この有名な「ロバの尻尾」事件以降、前衛絵画は公式的には認められなくなってしまう。しかし、すでに開けられてしまったパンドラの箱は二度と閉じることはできず、前衛芸術を探求する画家たちの活動が止むことはなかった。むしろ地下に潜った芸術家たちは漠然とした宇宙時代のユートピアを志向することをやめ、現実そのものと向き合い、閉塞した社会状況の中で自ら行っている表現行為とは何か、なぜ芸術はあるのかという問いをさらに突き詰めていき、その思考過程を作品に表現するようになっていく。

 

「停滞」の時代の非公式芸術

  シニャフスキイは「社会主義リアリズムとはなにか」で次のように述べている。「スターリンの死後、われわれは破壊と再評価の時代に入った。それは緩慢で、不徹底で、見通しがたたないが、過去から未来へと流れる惰性の力はきわめて強大である。こんにちの子らには、人類を励し次なる歴史周期へと向かわせうるような新たな神を創造することはまずできまい。そのためにはおそらく火刑台にさらに薪を足さねばならず、新たな「個人崇拝」、新たな地上の矯正労働が必要であろう。そして多くの世紀を経てはじめて、世界の上に、今日未だ誰もその名を知らない目的が立ち現れるであろう。」(15)  この「目的」がどのようなものであれ、権力者たちは土台穴や火刑台に代わるものを作らねばならなかった。その要求に応えることが社会主義リアリズムの公式芸術家たちに求められた。

  巨大な建築物やモニュメントが多く建てられたのは、スターリン時代よりもむしろブレジネフの「停滞」の時代だった。それゆえ「雪どけ」の時代の対極である祖父の時代、スターリン時代への回帰の時代であったと言うこともできるだろう。形式主義として批判され、一時期埋もれていたアレクサンドル・デイネカ(1899-1969)やパーヴェル・コリン(1892-1972)、アルカージイ・プラストフ(1895-1972)といったスターリン時代に活躍した画家たちの作品がソビエト美術史の中で再評価、再編されるようになる。そして美術館の中で名品として展示されることで、拡大再生産され続けるソビエト・イデオロギーは人々の視覚に現実以上に現実化された幸福のヴィジョンを与えたのだ。こうした点でもっとも効果的だったのが、映画を見るとき、その冒頭に必ず映し出されるヴェーラ・ムーヒナ(1889-1953)の「労働者とコルホーズの女」(1936)の像だった。

  ところで、フルシチョフ、ブレジネフ時代に芸術家たちの間で口伝えに広まったおとぎ話がある。それはプーシキンの有名なおとぎ話「金の魚」をもとにしたものだ。ある画家が海で一匹の魚を釣り上げた。この魚が言うのには「おまえに三つの願いをかなえてやろう。どんな願いだ?」画家は答える「海辺に別荘が欲しい」。「よろしい。次の願いは?」「別荘に一緒にいく女が欲しい」「よろしい。三つめの願いは?」「芸術家同盟のメンバーになりたい」「よろしい。おまえにはもうなんの才能もない」。

 この話は非公式芸術家たちの立場を端的にものがたっている。「ロバの尻尾」事件以降のソ連時代、公式の展覧会場はすべて文化省とソ連芸術家アカデミーの管轄下にあり、また公式の美術教育は芸術家同盟のメンバーが支配していた。社会主義リアリズムという公式の芸術に迎合できない画家たちは、そのほとんどがイラストレーター、装飾芸術家、舞台芸術家など、表向きはファイン・アートに携わらない「二流」の公式の画家としての仕事につきながら、余暇の時間を使って自由な表現の作品を密かにつくっていた。こうした作品はアンダーグラウンドで一般に公開されていた。展示場は主に自分のアトリエやアパートの一室で、毎週休日に公開したり、一日だけのゲリラ的展示も多かった。

  非公式芸術は時に弾圧され、KGBに監視され、逮捕、投獄、シベリア送りといったことも稀ではなかった。しかし、多くの非公式芸術家が「金の魚」をあてにせず、いわば「内的自由」や純粋な芸術衝動のためだけに表現し続け、彼らの作品を多くの人々が支持していた。公式と非公式、日常と非日常という二重の文化構造の中で、1960-80年代のソ連人は芸術を享受していくことになる。

  こうした二重の文化構造を物語るのがソ連のゴッホあるいはマチスと呼ばれるアナトーリイ・ズヴェーレフ(1931-1986)のエピソードだろう。公園のフェンスのペンキ塗りの仕事で生活していた彼は、特別な美術教育はほとんど受けていない。スポーツ新聞の写真をモデルにデッサンし、ゴッホやルーベンス、ロシアのヴルーベリやセローフの絵を見て表現を学んだという。彼がもっとも触発されたのは、1957年の「第6回青年と学生の国際フェスティバル」で出会った様々な非具象表現の絵画だった。鮮烈なタッチで表現主義風のポートレートを描くズヴェーレフの絵はあまり高価ではなく、よく売れた。大酒家の彼に酒を一杯おごると、その場ですぐに絵を描いてくれた。誰もが彼を現代の聖痴愚(ユロージヴイ)とみなしていた。気軽に楽しめる彼の絵は人気が高く、政府高官にもファンが多かったという。1958年にはフランスで初の個展を開き、百点余を展示してもいるほどで、つまり、なかば公認の「非公式」画家だったと言えるだろう。(16)

    非公式芸術を支援するパトロン、コレクターも存在した。彼らは自分のアパートの一室で展覧会を開いたり、サロンを形成し、芸術家たちと西側の外交官や特派員との間をつなぐパイプともなった。こうした場所で多くの人々が、ロシア・アヴァンギャルドの作品や非公式芸術家たちの作品を目にしたばかりか、アメリカ大使館やカナダ大使館では欧米の美術書、美術雑誌を見て同時代の美術動向を把握することもできたのである。非公式芸術家たちの作品のコレクターとして有名なのは、アレクサンドル・グレーゼル、ジョージ(ゲオルギー)・コスタキス、ノートン・ドッジの三人である。彼らのコレクションの展覧会は近年欧米で頻繁に開催されてきた。例えばメリーランド大学の経済学博士ノートン・ドッジがフルシチョフ、ブレジネフ時代にソ連各地を回って密かに収集した非公式絵画は約九千点にのぼり、この腫のコレクションとしては最大級のものである。ドッジは1955年に初めてソ連を訪れて以来、ペレストロイカが始まるまで三百万ドルの私費を投じて約六百人のソ連の画家たちから作品を収集している。(17)

    こうして1960年代から70年代の非公式芸術は純粋抽象、ソッツ・アート、コンセプチュアリズム、フォト・リアリズム(ハイパーリアリズム)、キネティズム(キネティック・アート)、抽象表現主義などの多様な様式の作品を生み出していった。こうした作品群の中でも特に1960年代の非公式芸術を代表するのがヴェリューチン・グループと「運動」グループ、そしてリアノゾヴォ派である。

 

ヴェリューチン・グループと「運動」グループ

  エリ・ヴェリューチンはモスクワのテキスタイル大学でグラフィック・デザインを教える若い教授だった。プライベートに非公式な抽象表現主義の画を描いていた彼が1954年に開設した私的な美術スタジオには若い学生たちが集まり、さまざまな画の実験を行った。彼らはヴェリュチンツィと呼ばれた。このスタジオはやがて1959年にタガンカ通りに自由芸術スタジオとして発展し、ソビエト最初の半ば公式的な非公式芸術スタジオとなった。ヴェリューチンは右翼でも左翼でもない「無翼リアリズム」を標榜し、人類の歴史の中で培われてきた様々な表現の研究とこれらの芸術の目的を統一した新たな芸術表現の探求を目標とした。このスタジオではどのようなカリキュラムが組まれていたのか今のところ不明だが、ヴェリューチン自身の作品はリズム感のある抽象表現を主としており、また彼の生徒たちの作品を見る限りでは、ひとつの方法に固執しないきわめて自由な実験が行われていたと推測される。

  レフ・ヌスベルク、フランシスコ・インファンテ、ヴャチェスラフ・シチェルバコフ(1941-)、ヴィクトル・ステパーノフ(1943-)らによって1962年に結成された「運動」グループは明らかにロシア・アヴァンギャルドの遺産、構成主義を引き継ごうとするするものであった。ヌスベルクの標榜する「キネティズム」はキネティック・アートを継承、発展させようとする試みであった。彼らの作品からは明らかに、モスクワで何度か開催された欧米の技術博覧会で見ることのできた工業デザインの影響とスプートニクの成功に象徴される宇宙時代(科学技術の発達)のユートピアへの盲目的な志向が見られる。60年代のソ連ではエフレーモフのSF小説に見られるように、楽観的な宇宙志向、科学万能主義が多くの芸術家たちの意識を支えていたのである。

  ステパーノフの唱えたキネティズムの綱領によると、芸術、科学、技術のすべてがダイナミックな相互作用のために結合され、それによって技術からの芸術の疎外、さらに「人間の人間からの」疎外が克服されるのである。この疎外の概念を除けば、「運動」グループのキネティズムは構成主義の理念とまったく同じものであった言えるだろう。ただ彼らの目標とした表現は、現実のソビエト社会には適用できない、形だけのユートピアであり、大量生産される工業デザインとして機能することなく、机上の夢に終始することになる。ただ、インファンテだけは異化効果を重視したその創作方法を独自に発展させ、自然の中に異様なオブジェを置いて、それを写真に収めて不思議な空間を演出するという作品を作り続けている。遊び心にあふれた異様な空間は今も色褪せず、現在も注目されている芸術家である。

 

リアノゾヴォ派

  リアノゾヴォはモスクワ郊外にあるサビョロフスカヤ鉄道の駅名である。1950年代終わりから60年代、この辺り一帯はバラックばかりのみすぼらしい町だった。そこに住む貧乏な芸術家たちが、詩人であり画家であったエヴゲーニイ・クロピヴニツキイ(1893-1979)を師とする一つのグループを形成していた。なかでもクロピヴニツキイの娘ワレンチーナ・クロピヴニツカヤ(1924-)とその夫オスカル・ラビン(1928-)は共に画家で、毎週日曜日に自宅を開放し、自分たちの作品の展覧会を開いていた。1963年にクロピヴニツキイが芸術家同盟を追放されてから、絵画グループとしてのリアノゾヴォが形成された。メンバーは彼の妻オリガ、娘のワレンチーナ、孫のカテリーナ、サーシャ、娘婿ラビンである。これに詩人であり画家のレフ・クロピヴニツキイ(1922?1994)、画家ボリス・スヴェシニコフ(1927?)が加わった。詩人ではゲンリフ・サプギール(1928-)、イーゴリ・ホーリン(1920-)、フセヴォロド・ネクラーソフ(1934-)、ヤン・サトゥノフスキイ(1913-1982)がいた。またリアノゾヴォの住人ではないが、ウラジーミル・ネムーヒン(1925-)、リディア・マステルコヴァ(1927-)、ニコライ・ヴェチトモフ(1923-)といった画家たちも協力者だった。リアノゾヴォは綱領もなく、なんらかの流派を意識した人々の集まりではなかった。ただそこにあるのは「自由に表現する」という共通した意識だけだった。しかし今日では、リアノゾヴォはポスト・アヴァンギャルドのひとつの傾向を代表する集まりとして位置づけられている。実際エヴゲーニイ・クロピヴニツキイはロシア・アヴァンギャルドの芸術革命の中で青春を過ごしており、この時代の精神を後進たちに伝えることができた。「銀の時代」の遺産は確実に彼ら「銅の時代」の芸術家たちに引き継がれていったのである。

  オスカル・ラビンの絵は日本でも何度か紹介されたことがある。彼の絵はリアノゾヴォのバラック風景をグロテスクなフォルムでありながら、詩情あふれる表現で描いている。オクジャワやヴィソツキーの歌が画面から聞こえてくるような彼の絵は、ソ連時代は公式的にはほとんど見ることができなかったが、1992年にはようやくロシアでも画集が出て、ワレンチーナ・クロピヴニツカヤとの展覧会が翌年にペテルブルグで開催されるなど、今日の評価は非常に高い。

   詩でもバラックに住む住人たちのグロテスクな現実が多く描かれた。ゲンリフ・サプギールの作品から一例だけ引用しよう。1958?62年に書かれた『声』詩編は「グロテスク」の副題を持つ。さまざまな「声」が勝手に語り合う現実を鮮やかに切り取り、時代や社会の切断面を提示する。それは実際グロテスクな現実をあらわにする。「イカロス」という詩は彫刻家ネイズヴェストヌイをモデルに書かれている。(18) 「彫刻家が/イカロスを作った/モデルは去った/こうつぶやきながら 「やっつけ仕事だ/私には筋肉がある/エンジンの部品なんかじゃない」/友人がやってきて/言った 「月並だ」/女たちだけが驚いた/これは何──天才的だわ/「なんて力」/「ほら、あのもの」/「古代ギリシャの/伝統よ」/「セクシュアルな熱情…」/「変速装置からできた/子供が欲しい!」/(中略)/女性の観客たちは号泣した/芸術のすばらしい/教育的効果/芸術家はお辞儀をした//広場には胸像が立てられた──/自画像/ワゴントラック/電話/自動機械」。

 

オレグ・ツェルコフ

   リアノゾヴォの人々と親交の深かったコレクターのアレクサンドル・グレーゼルは彼らの展覧会を度々組織した。彼の組織した「ロシア非公式絵画展」は、1978年に東京でも開催され、グレーゼル本人も来日している。この時の様子はかなり報道されたが、中でも「芸術新潮」誌(1979年11月号)は「ソヴィエト反体制の画家」という特集を組み、彼の小論を掲載した。それは60年代の非公式芸術の特徴を明確に語っている。

   「現代ロシア芸術は、幻想的な、シュールレアリズム的なソヴィエトの現実から生まれた、純粋にロシア的なるものなのである。そして、個々の画家、作家、作曲家は社会主義と名づけられた全体的な体制のもたらす重圧の中で、勇敢にも自由に創造するという軛を背負っているのである。だから、検閲の下にあるロシア美術家に西側の著名な作家との類似点を見出そうとするのは無駄なことなのだ。現代ロシアの表現主義、シュールレアリズム、シンボリズム、その他の流れは、すべて西側の芸術から来ているものではない。これらは全く完全にロシアの土壌から出発し、ソヴィエトの生活そのものからインスピレーションを受けているのである。つまり、ソヴィエトにおける現実を、生活を知り、理解して初めて、そこから生まれたロシア現代芸術を真に理解し、評価することが可能なのである。」

  「第6回青年と学生の国際フェスティバル」(1957)を経験したことが芸術に関わるきっかけとなったグレーゼルは、欧米の同時代の芸術がソビエトの非公式画家たちに多くの影響を与えた事実を知っていたはずである。しかし、上記のように「ソヴィエトの生活そのもの」を意識し、そこから新たな芸術が生まれていったことも事実であり、それだからこそソビエト時代特有の芸術作品が多く生み出されたのだ。画家のオレグ・ツェルコフ(1934-)を例に見てみよう。彼は正式には舞台美術家だったが、大学時代に詩人ブロツキイをはじめとして様々な詩人、芸術家たちと交流し、当初は立体派風の抽象画を描いていたが、やがて1960年代になるとシュールな味わいの自画像を描くようになり、それはすぐに奇妙な顔ばかりの作品へと発展していった。1978年にはフランスに亡命し、現在はパリのサン=マルに住んでいる。フランスではたいへん高名な画家で、主にニューヨークやパリで個展が度々開催されており、ペレストロイカ後は本国ロシアでも解禁となった。ブロツキイも「オレグ・ツェルコフは戦後期のもっとも注目すべきロシア人画家である」と」賛辞を惜しまなかった。

   ツェルコフが創作の出発にあたって、立体派の芸術様式の影響を強く受けたが、それはやがて創作上のヒントに過ぎなかったことが分かる。1960年代に入ってからの彼の作品は様式の模倣を超えて、あきらかに独自な世界を築いている。とにかくどの作品も奇妙な顔、顔、顔ばかりである。つるりとした皮膚、のっぺりとした顔は奇妙に歪み、目の位置はちぐはぐで、硬直した死体のように口は薄気味悪く歯をむきだしている。あるいはイースター島のモアイのように無表情にじっとこちらを見つめていたり、やはり無機質な肉体を誇示するかのように様々なポーズをとる。時には花や果物なども背景に描かれるが、それもまたヌラヌラとした光沢を放っていて、これも生彩のないイミテーションのようだ。独特の色彩と大胆なデフォルメ、気持ち悪いくらいグロテスクなこれらの作品の顔たちは一度見たら絶対に忘れることはできない。

    こうしたツェルコフの作品やズヴェーレフ、ラビンらの作品など、1960年代の芸術家たち創作活動は、あいまいな外部からの情報収集とそれを契機に目の前にある現実を捉え直し、自らの生のリアリティ、美のありようを探求する経過を対象化することにあったと言えるだろう。

 

1970年代のソビエト・アヴァンギャルドへ

   「雪どけ」時代のソビエト美術はユートピアの志向と挫折の歴史として記述されるだろう。それは実は社会主義リアリズムが実現したハイパーリアリズム、すべての美的要素をソビエト社会に都合のいいように取り込む折衷主義の統合の上に成り立っていた。このことは1970年代以降に登場するソッツ・アートとコンセプチュアリズムの芸術を見るときに、より明らかになるのだが、本稿はその前史に止まっている。ソビエト文化がポストモダンであったという議論はまた別の話である。

   ユートピア志向の挫折以降、芸術家たちは「いま目の前にある現実そのもの」の観察へと向かうことになる。文化とは芸術家の頭の中で考え出されるイデエにあるのではく、完全な外部、自分を取り巻く周囲の世界そのものなのだということに気づいた時から、ソビエト・アヴァンギャルド芸術はさらに発展していく。ソビエト社会とは何か、そこに生きる人々は何か、さらにその中で芸術とは何かといった問いがそのまま表現行為、作品へと転化していった時、そこに出現したのはこれまでの西洋美術史にない、きわめて独自な表現世界となっていくのである。
 

(1) ロシア文学の様式史については次の本を参照のこと。川端香男里著『ロシア文学史』岩波全書、1986年。14-17ページ。
(2) 看板絵やルボークなどの民衆絵画とアヴァンギャルドとの関係については次の本に詳しい。A.Povelikhina, Y.Kovtun. Russian Painted Shop Signs and Avant-garde Artists. Aurora Art Publishaers. Leningrad. 1991.
(3) 社会主義リアリズムがその初期の段階から印象主義の手法を取りいれており、多くの画家に利用されている事実を次の本は示している。Vern Grosvenor Swanson. Hidden Treasures: Russian and Soviet Impressionism 1930-1970s. Fleischer Museum. 1994.
(4) これまでに多くの社会主義リアリズム展が開催されているが、その規模や内容においてもっともすぐれている展覧会は1994年の「幸福へのアジテーション──スターリン時代のソビエト芸術」展で、カタログも充実している。Agitatsiya za schast’e: Sovetskoe iskusstvo stalinskoi epokhi./ Gosudarstvennyi Russkij Muzei Sankt-Peterburg : Upravlenie kul’tury goroda Kassel’, dokumenta Arkhiv. Interarteks ; Bremen : Edition Temmen. 1994.
(5) こうした展示については次のレポートがある。鴻英良「モスクワ・アート事情──ポスト・ソヴィエト・アートの展開」「美術手帖」1997年2月。138-143ページ。
(6) Igor Golomshtok. Total’tarnoe iskusstvo. M.:Galart,1994.
(7) Boris Grois. Utopija i obmen. M:.Izd. Znak. 1993.
(8) Tupitsyn M. Superman imagery in Soviet photography and photomontage. Nietzsche and Soviet Culture: Ally and Adversary. Ed.By Bernice Glatzer Rosenthal. Cambridge University Press.1994.pp.287-310.
(9) ミハイル・ルイクリン「テロルの身体」鈴木正美訳、「現代思想」1997年4月号、146-162ページ。
(10) 英・エンカウンター誌編『ロバの尻尾論争以降』直井武夫訳、自由社、1963.26-27ページ。
(11) 前掲書、27ページ。
(12) Boris Groys. The Russian Artist of the Eighties or a Life Without an Oedipus Complex. Contemporary Russian Artists. Museo d’Arte Contempolanea Luigi Pecci Prato. 1990. 83- 90 p.
(13) Paul Sjeklocha and Igor Mead. Unofficial Art in the Soviet Union. University of California Press. 1967. 94 p.
(14) 『ロバの尻尾論争以降』前掲書、27、39ページ。
(15) 「社会主義リアリズムとはなにか」青山太郎訳。『シニャフスキー・エッセイ集』1970年、勁草書房。175ページ。
(16) Anatolij Zverev : Zhivopis', grafika. M.: P.S.. 1991. 9-13 p.
(17) ドッジの収集の遍歴についてはエッセイストのJ・マクビーが『ロシア美術の解放』で詳述している。John McPhee. The Ransm of Russian Art. Farrar Straus Giroux. 1994.
(18) Sapgir G. Vstrechi s Ernstom Neizvestnym. Strelets. 1997, ??(79), p.264-268.

*主要参考文献

  Renee Baigell and Matthew Baigel. Soviet Dissident Artists; Interviews after Perestroika. Rutgers University Press. 1995.
  Erofeef A. Non-Official Art ; Soviet Artists of the 1960s. Craftsman House. 1995.
  Grezer A. Sovremennoe russkoe iskusstvo. Tret'ja volna. 1993.
  Koleichuk V. Kinetizm. M.: Galart. 1994.
  Cullerne Bown Matthew. Contemporary Russian Art. Phaidon. 1989.
Alla Rosenfeld and Norton T. Dodge, eds., Nonconformist Art; The Soviet experience 1956-1986. Thames and Hadson. 1995.
  Tupitsuna V. “Drugoe” iskusstva. Ad Marginem. 1997.
  Tupitsuna V. Kommunal'nyi (post)modernizm. Ad Marginem. 1998.
  Tupitsyin M. Margins of Soviet Art ; Soviet Realism to the Present. Giancarlo Politi Editore. 1989.
Tupitsuna M. Kriticheskoe opticheskoe : stat'ji o sovremennom russkom iskusstve. Ad Marginem. 1997.
『ソビエト現代美術──雪どけからペレストロイカまで』展カタログ 世田谷美術館1991.


「稚内北星学園大学紀要」 第13号  1999年6月  25-39頁


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