かわら版

牛サーロインの楽しみ方

 《部位》 牛サーロイン                                                      《特徴》 牛の背中、「リブロース」から「ランプ」に続く間の部位で、形が良く、肉のきめが細かくて柔らかいのが特徴。ロイン3点(リブロイン・サーロイン・テンダーロイン)のうち、サーの称号を冠する最高の肉質を持つ部位です。適度に脂肪の入った霧降り和牛はさらに美味。サーロインステーキはステーキの代名詞のように言われており、最適の部位となっています。レア・ミディアム・ウエルダンなど、どんな焼き加減にも対応できる優れた肉質を持っています。                                                      <調理のコツ>                                                          形、柔らかさ、香り、風味のどれも抜群なので、肉そのものの美味しさを味わう料理に最適です。ビーフステーキが代表例。1人前200グラムほどが必要ですが、同じ重量でも、厚みのある方が肉汁が逃げにくく、より一層美味しくいただけるので、1センチ以上の厚切りにしましょう。1枚を厚切りにして、それを焼いてから何人かに分けるのが、美味しく召し上がるコツです。  平成14年6月号掲載

 

肉料理が上手になる秘訣

@「加熱の方法(煮る、焼くなど)と相性の良い肉質の部位を使うこと」 これが美味しい肉料理を作る秘訣です。ここが違うと料理の腕前は良くても、肉は美味しくなりません。例えば上等な「ヒレ」を料理しても、煮込んでしまったら汁気がなくなり「ヒレ」の持つやわらかな特性を損ねてしまいます。

A「部位の名称は肉質区別のものさし」焼くとかたくならないか、煮込むとどうなるか、など調理してみないと分からない肉を生肉のうちに見定めるためのものさしが部位の名称なのです。半身から肉質の同じ部分を塊として切り取ったものが部分肉です。だから部位が違うと、やわらかさなどは当然違ってくるのです。

B「部位別の調理法を覚える」部位の名称とその形、調理方法を知っていれば、肉料理の腕前は必ず上達します。そのために部位別の形状と調理法を体得しましょう。まず、使ってみたい部位を少なくとも500グラム以上ブロックで購入して、何の料理に使うのか、どう切るのかを店員さんに相談して、自宅でカットしてみましょう。肉の形、きめ、筋や脂肪の付き方、汁気の多少などが、スライス、こま切れよりも、より鮮明に分かるはずです。

次回より部位別の特徴を生かした利用法をお話します。  平成14年5月号掲載

日本の食文化=和牛=文化財

  「日本の食文化とは?」と問われたら考えてしまうかもしれませんが、外国人に問えば、すぐにこう答えるでしょう。「すし、すきやき、てんぷら」と。つまり、この三本柱が日本の食文化の中心であると思われます。この三本柱のうちの、一本、つまり「すき焼き=和牛」が現在倒れかかっています。狂牛病のためです。早く対策をたてないと日本の食文化が傾いてしまいます。和牛は、煮ても、焼いても、生でも、揚げても、炒めても、蒸しても、すべての調理方法で美味しいという味覚の王様です。この和牛肉が現在、乳牛肉の巻き添えを喰っています。前回、国産牛の中に、和牛と乳牛があることをお伝えしました。農家の人たちが努力と苦労を重ねて大切に育て上げる技術は、世界に誇る日本の和牛を創り上げるのです。乳牛は毎日三十リットルも牛乳を搾るために、カルシウムを与える場合があると言いますが、和牛に肉骨粉を与えると肉色がすぐ変色して黒ずむため、飼料にするはずがないのです。  日本の食文化=和牛。即ち和牛=文化財と考えて、政府も早く対応してくれればと思います。      平成14年2月号掲載   

 

国産牛=和牛なの?

 国産牛は主にホルスタイン、和牛、混血牛(F−1)があります。ホルスタインは牛乳を搾るための牛で白と黒の大きな斑点が特徴です。一方、和牛は古くから日本に生息する黒毛または茶褐色の牛で、肉食用に飼育されます。そして混血牛はホルスタインと和牛の混血の牛です。

新聞やニュース、雑誌などで狂牛病について取り上げられていますが、

今回、9月(千葉)・11月(北海道)、(群馬)で発生した3件の狂牛病の牛は、全てホルスタイン種(乳牛)であり、和牛(肉牛)ではありません。   平成14年1月号掲載

常磐町はかつて「大ショッピングゾーン」だった

 前回は『やき豚』誕生までのエピソードをお話しましたが、実際『やき豚』は当時 の人々に受け入れられていたのでしょうか。  現在の店鋪がある常磐町二丁目は、江戸時代から「下魚町」と言われていました。 常磐町一丁目は旧名「下石町」で、上石町・下石町は米屋の多い町でした。その隣の 下魚町。ここは俗名「用町」と呼ばれ、魚・野菜、その他何でもそろう、一回行けば 「用が足りる町」でした。  町内にある宝台院の境内は広く、ここは、サーカス・相撲が巡業する多目的広場で、 近くの七間町には劇場が多くあって、人宿町・梅屋町は旧東海道・府中の宿場町でし た。江戸末期から昭和初期にかけて宿泊・娯楽施設を抱えた「大ショッピングゾーン」 これが、下魚町(現・常磐町二丁目玄南通り沿い・江川町通り沿い)です。  ここで静岡初の「デリカテッセン?」やき豚は大ブレイク。サーカスや相撲の帰り には宝台院境内から当店まで行列ができたそうですから、昔も今も、遊んだ後の主婦 の悩みのタネは「夕食のおかず」ということに変わりはないようです。           平成13年12月号掲載

大石の『炭火やき豚』誕生

 前々回、肉の保存ができないし、鍋中心の肉文化であったため、「夏期に肉屋は営 業しなかった」という話をしました。前回「横浜でラーメンの上のチャーシューと出 会った」という話をしました。そこで、今回はその続きです。  肉屋である以上、夏も肉を売りたい。冷蔵庫が氷を入れて冷やすだけの時代に、夏 に生肉を売ることは無理である。ラーメンのチャーシューをご飯のおかずにできない ものかと考えていた初代善作が行き着く先は一つ、「やき豚」の製造であった。  まずは豚肉を拍子木ぐらいの大きさにカットして醤油ベースの「タレ」に漬け込む。 そして釜の中に吊るして炭火でじっくりと焼き上げる。醤油と炭火の香りは日本人の 鼻をくすぐる独特の香りである。この製造工程に至るまでは、大変な苦労があったと いう。豚肉の大きさ、タレの製造、釜の発注、炭火の火力と焼き上げ時間など、すべ てに苦労話が残っている。そして、ここに中華のチャーシュー(焼き豚と書くが、工 程上は煮豚)ではなく、日本の「やき豚」ができ上がったのである。  時に大正十年、大石精肉店『伝家の宝刀・炭火やき豚』の誕生である。  平成13年11月号掲載

七間町から横浜、そして常磐町へ

 前回、「お肉屋さんは冬期のみで、夏期は氷屋さんであった」という話をしました が、大正五年まで当店の初代大石善作は、新通りにあった静岡で最初の精肉店(現在 は営業していない)で修業をし、大番頭まで上がり、大正六年、七間町(現在の七ぶ らシネマ通り)に独立、開店した。店は大変繁盛したそうである。やがて横浜の軍需 工場へと「出稼ぎ」に行くことになるのだが、この「出稼ぎ」が現在の大石精肉店の 伝家の宝刀「やき豚」誕生のきっかけとなるのであるから、「災い転じて福」である。 人生はどこで何が起こるか分からないものである。  横浜と言えば中華街。この中華街でラーメンのチャーシューと出合った善作は、ラー メンのチャーシューをおかずにご飯を食べるのが好きだったという。そしてラーメン のトッピングではなくチャーシューをご飯のおかずとして何とかならないものかと考 えていた。  翌年、静岡に残してきた家族が下魚町(現在の常磐町)に空き店鋪が出たという知 らせを送ってきた。これを借りて大正八年十月、大石精肉店は現在の場所で商売を始 めたのである。   平成13年10月号掲載

お肉屋さん今昔物語「肉屋と氷屋」

 当店は大正六年創業ですが、当時のお肉屋さんは秋冬だけの半年商売だったといい ます。つまり半年しか肉を売らなかったわけです。どうしてなのか、それは電気で動 く冷蔵室がなかったからです。当初は店頭に牛や豚の枝肉の半丸(背中を中心に左右 に二つに割ったもの)を吊るしておき、お客様の要望に応じて切り売りをしていまし た(魚屋さんがアンコウの吊るし切りをするように)。つまり夏場では、商品がすぐ 腐ってしまうため、冬期だけの商売だったということです。それに現在のように焼き 肉、ステーキ、揚げ物、しゃぶしゃぶなど肉の食べ方が豊富ではなく、「牛鍋」など、 鍋の材料が中心であったため消費も冬期に集中していたからです。  それでは夏場は何をしていたのでしょうか。当時の一般家庭の冷蔵庫は、現在の一 人用の二ドア冷蔵庫ぐらいの大きさで、上の扉の中に氷の塊を入れて下りてくる冷気 で下の扉の中のものを冷やしていました。この氷の塊を一般家庭よりも大きな冷蔵庫 の中に仕入れてきて切り売りをしていたそうです。肉屋に必要な大きな冷蔵庫を利用 して、夏は氷屋、冬は肉屋という半年交替で仕事を変えていたのです。  しかし、肉屋だけで食べていけるようになるには、そんなに時間はかかりませんで した。それは、「やき豚」の誕生にあります。     平成13年9月号掲載

「お盆」と「茄子の牛」と「福神漬」

 今回は「牛肉」ではなく、季節がら「茄子の牛」のお話をしましょう。旧暦七月十 四日、十五日を中心に先祖の霊を迎えて法要する行事を「盂蘭盆」と言います。十三 日は「迎え盆」と言って祭具や供え物を飾り、宵には迎え火を焚き霊を家に迎え入れ ます。この時の供え物の中に茄子や胡瓜に麻がらで四本の足を付け牛や馬に見立てて 盆棚に飾る風習が古くから伝わっています。茄子の牛や胡瓜の馬を供えるのは、足の 速い馬に乗って少しでも早く戻って来てください、帰りは足の遅い牛に乗ってゆっく り名残りを惜しみつつ帰ってくださいという深い意味があるということですが、現代 では、F1カーとトラクターのミニカーをお供えするようなものでしょう。十六日に はこの供え物を精霊舟に乗せて川や海に流したそうですが、明治の初めにこの精霊舟 に積んだ茄子と胡瓜をかき集めて「福神漬」と称し大儲けをした罰当たりがいたそう です。お盆の暑い頃にはカレーが食べたくなります。そしてカレーには「福神漬」。 「お盆」と「カレー」と「福神漬」の関係に「茄子の牛」が絡んでいるのはまちがい なさそうです。  平成13年8月号掲載

「すきやき風景」の大切さ

 すきやきの語源には、いろいろの説がありますが、農耕用の鋤の刃先がすり減り、 火にかけてナマクラになっても惜しくないものを用いて獣肉を焼いて食したことから、 鋤焼きの名が生まれたらしい。この「すきやき」も今では日本を代表する料理の一つ になりました。  狭い日本でありながら、関東と関西では焼き始めの手順が少々異なります。関東で は熱した鍋に牛脂をひき、ネギ、牛肉、割り下の順で入れます。関西では、牛脂をひ き、牛肉、砂糖、醤油の順で入れます。どちらも牛肉の持ち味を生かす最良の食べ方 だと、食文化の伝統を頑固に守っているところがおもしろいです。  鋤焼の香が頭髪の根に残る  山口誓子 。 古来、日本人の食事作法では、食事中に談笑するなど極めて不躾なものとされてき ましたが、すきやきが家庭の夕膳に進出するに及んで、一家団欒、話が弾む和やかな 食事に一変しました。しかしまだ戦争の傷跡が癒えず、日本中が貧しかった頃の家庭 での「すきやき風景」は、待ち構えた子どもたちが牛肉を入れる先から一斉に箸を出 し、あっという間に一片残らず平らげる。それを見守る両親は、肉が食べたくとも、 じっと我慢し残った汁と野菜と喜ぶ子どもの顔で十分に満足したのだった。この頃に は、親子の断絶などというものは存在しなかったでしょう。現代こそ、この「すきやき風景」を大切に残したいものです。  平成13年7月号掲載

 

美味・滋養・強壮がうたい文句の牛鍋の味。

 「煮ても焼いても食えぬ」という諺がありますが、和牛の社会は昔から今に至るまで、多くの人たちが資質の改善に努め、「煮ても焼いても世界一の旨さ」の和牛肉を 誕生させたのです。  和牛の古典的な料理として「牛鍋」があります。牛鍋という言葉の響きには明治大正の匂いが漂っていて、文豪森鴎外も「牛鍋」という題の短編を発表しています。そ の描写には旨そうに牛鍋をつつきながら酒を飲む男の情景が目に浮かぶほどです。 さて、この時の肉質と味を推察すれば、肉質は今よりもやや硬めで、脂質よりも飼 料の関係上黄色でもっとも獣臭さが残っていたように思われますが、味は当時の多くの人々に満足のいくものであっただろうと思われます。  明治八年に東京で七十軒もの牛鍋屋が誕生して以来、「美味・滋養・強壮」がうたい文句の牛鍋は、ちょっと贅沢な鍋物として家庭にも受け入れられたようです。それ は当時、こんな川柳が流行ったからです。   「牛肉が 効いたか女房 変な声」   粋人。 浅草(吉原)に牛鍋屋が多くあり、すべてが繁昌した理由は、「美味」はもちろんのこと、当時の人々のニーズが「滋養」と「強壮」にあったものと思われます。           平成13年6月号掲載

 

文明開化とともに
近代日本の食肉文化が始まる。

牛肉の食文化の始まりについて考えてみましょう。徳川の時代が終わり、元号も明治と改まり、文明開化の幕が切って落とされました。それまでは仏教の影響や牛馬殺生の禁制で庶民には牛肉など縁遠い存在でした。福沢諭吉をはじめとする進歩派の食肉普及論などが力となってぼつぼつ、東京、横浜などでも牛鍋屋が人の噂にのぼり始めるようになりました。 このころ、新橋から横浜まで蒸気機関車が走り、横浜でわが国初のガス燈が灯り近代化へむけて世の中が走り出しました。 明治4年(1871)12月、宮中にて食肉禁止令が解除され、日本料理の他に、西洋料理も採用され、食膳に牛肉が供されることになりました。翌、明治5年1月24日、明治天皇自ら命じて牛肉を召し上がりました。これを新聞が大きく報じ、ここに近代日本の食肉文化が始まりを告げたのです。  平成13年5月号掲載

 

お問い合わせ: (株)大石精肉店
  静岡市常磐町2−7−8
  054(252)1725

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