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   スポーツは商業主義化を通じて何を失うのか?本当に失うものはあるのか?あまり整理されていないこの問題に、価値とは何かという切り口から取り組んでみたい。



スポーツ選手と商業主義の 正しい付き合い方


   行過ぎた商業主義がスポーツの本質を損なっていると言われて久しい。にも関わらず、その傾向は拡大しつつあり、数億円程度の金の動きでは誰も驚かず、サッカー選手の移籍金をはじめとして十億円単位の金が動くことは珍しくなく、2002年W杯の放映権は数百億円という国家予算並みの金が動くことになった。そういう環境の中で、スポーツは何を得て、何を失っているのだろうか。

   スポーツの本質と商業主義の摩擦を冷静に考えることのできる例として、ASローマに所属している中田選手を挙げることができる。彼は、巨額の年俸を受け取り、コンディションが悪いわけでもなく、チームや監督の信頼も厚いのにも関わらず、ベンチや観客席での観戦の日々が続いている。レギュラーメンバーがケガをしたときの交替要員として、あるいは、カップ戦用のターンオーバー要員として、さらには、レギュラーメンバーの座を脅かし彼等のモチベーションを高めるための存在としてチームに在籍している。

   しかも、彼の価値はそれだけではない。極めて模範的な振る舞いでチームイメージを向上させる広告塔として、そして、これが最も大事なことかもしれないが、希少な日本人選手としてジャパンマネーを呼びこむための道具として存在している。このような奇妙な存在は、今までのスポーツの歴史の中でも極めて特殊な例だろう。彼は純粋に敗者ではない。でも、勝者とも言えない。彼は、一体、何なのだろうか。 ;

   一旦、中田選手から話題を変えよう。トッププレイヤーが、あるクラブの会長から「今後、10年間、他のどのクラブよりも高いサラリーを出そう。ただし、君のポジションはベンチか観客席で礼儀正しく振る舞い、愛想よくインタビューに応じることだ」と言われたとしたら、そのプレイヤーはオファーを受けるだろうか。試合に出ないことによる商品価値の低下や、さらに高いサラリー獲得の可能性は考えないにしても、その申し出を受ける選手は多くないと思う。

   多くのプロスポーツ選手は、自分が受けるサラリーが、自分の価値を表していると考えている。広い意味ではそうだろう。しかし、これだけ商業主義の領域が拡大すると、純粋に選手としての本質的な価値、つまり、試合に出てチームの勝利にどれだけ貢献できるか、ということだけでサラリーの水準が決まることは少ないと思われる。特に高額の選手には、それが言えるだろう。

   しかも、代理人のアドバイスを受けながら、複数のチームを競らせて年俸を上げるということも日常茶飯事である。確かに、不当な低い値づけは避けられようが、本質的な価値と比べて不当に高い値段となる可能性も高い。このような状況になる可能性が高いのは、生活のために少しでも高いサラリーが欲しいというレベルの選手ではなく、そのままでも十分に高いレベルにある選手であることに留意したい。クラブ同士を競わせることによる年俸の吊り上げは、極めて、市場主義的なやり方であり、広告とかスポンサーとは関係なく、選手自身の振る舞いに商業主義が浸透していることを証明している。

   プロスポーツ選手のサラリーは、純粋に選手としての本質的な価値を表していない。オリンピックでの活躍が目立つアマチュア選手の中には、マラソンの有森選手をはじめとして「これだけ頑張ったんだから、もっと報酬を受け取ってもいいはずだ」という選手が増えている。その主張は正しいと思うし共感できる。しかし、その結果として受け取った額が選手としての適正な評価、あるいは自らが勝ち取った戦績や記録に対する評価だとは思わない方がよい。あくまでも、商業的な意味での価値、つまり、彼女が持つイメージが商品の販売にどれだけ貢献するかという価値を表しているのである。それは、必ずしも、選手としての本質的な価値と比例するわけではない。

   中田選手に話を戻そう。彼は、本質的な価値を十分に内包しながらも、それをスポーツの中で表現せず、そうでありながら誰もが彼の価値を認めている。このまま、ローマが優勝したとしよう。監督やクラブの会長、そして、多くの人々は彼は十分に優勝に貢献したと満足するだろう。そのとき、彼はどう思うだろうか。やはり、彼自身も「自分はチームの優勝に貢献したと思うし、この優勝カップを自分の勲章として誇りに思う」と思うのだろうか。あまりうまくない選手が有名高校へ入ってベンチにさえ入れなくても全国で優勝すれば自分のことのように喜ぶというのとは訳が違う(余談になるが、私自身はそういう選手だった。それはそれで価値があったし、もう一度、時間を巻き戻したとしても同じ道を選ぶだろう)。

   彼が真に喜べるかどうかについて、深く考える必要はない。答えは‘否’である。トッププレイヤーが自分が試合に出れるレベルやコンディションにあるにも関わらず、観客席での観戦に甘んじていてチームが優勝したとしても、しかも、そのチームに特別な憧憬があったわけでもないとすれば、心から喜べるはずがない。いつまでも今のままで良しとするならば、彼はプロスポーツ選手としては極めて模範的であるのかもしれないが、スポーツ選手とは言えないかもしれない。

   以上の考察からわかるように、スポンサーをはじめとする企業群の商業主義的横暴だけが悪いわけではない。スポーツの側が自分の価値を計る手段として、スポーツが本来的に包含しているものさしではなく、商業主義の文脈の中にあるものさし、つまり、市場価値を使ってしまうとき、スポーツの本質は決定的に傷められる。少なくとも、スポーツ選手は、その二つのものさしを使い分ける見識を持つべきだろう。おそらく、クラブのスタッフや大会の運営者にも同じ事が言える。

   最後に商業主義で、失ったものの一つを挙げて、終わりにしたいと思う(得たものは、言うまでもなく金である)。サッカー選手は、サッカーをプレーするからサッカー選手である。より優れたサッカー選手とは、素晴らしい技術やスピード、パワー、精神力、リーダーシップなどの能力を試合で発揮して、チームの勝利へ貢献し、または、敗れたとしても自分の力を出し切ったという確信を持ち後悔しない選手である。失ったものとは、その当たり前の価値観である。


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