日本人の好みと スポーツのマクドナルド化
これから何回かに分けて、「日本人の好みとスポーツのマクドナルド化」というテーマでエッセイを連載する。今年の春に翻訳されたジョージ・リッツァの「マクドナルド化する社会」を読まれた方は分かると思うが、スポーツのマクドナルド化とは、スポーツ選手がマクドナルドばかり食べるようになったとか、マクドナルドがスポンサーとしてスポーツ界を仕切っているとか、そういうことではない。マクドナルド化とは、「ファストフード・レストランの諸原理がアメリカ社会のみならず世界の国々の、ますます多く部門で優勢を占めるようになる過程」(前掲書、p18)のことである。マクドナルドが、徹底したマニュアル化や、巨大な"M" の文字に代表されるイメージ戦略、どこでも同じものを食べれる安心感、そして最も重要な要素である速さ(調理時間だけでなく、食事をする時間を含めて)の追求を通じて、人々の価値観すら変えてしまうということである。この説明では、余計に分からなくなったという指摘はもっともなので、もう少し、マクドナルド化については、解説しなければならない。
マクドナルド・モデルの持つ魅力の中心には、4つの次元がある。一つ目は、「効率性、いいかえればある点から別の点に移動するための最適な方法」(p30)を与えることである。店長や従業員が効率的に作業するのはもちろんのこと、消費者は、空腹を効率的に(要するに手早く)満たし、さらに、車から降りることなくドライブスルーで商品を手に入れ、走りながら食べることができる。消費者が、効率的に空腹を満たすということは、店にとっては、客の回転率があがるということである。面倒なフォークやナイフも要らず、ゴミは客が捨ててくれる。マクドナルドのキッチンは工場のようだが、客も工場のラインの上を流れ作業で処理されている。
 二つ目は、計算可能性である。「マクドナルド化する社会では、ものごとを数えられること、計算できること、定量化できることが重視される。」(p106)のだ。このことは、特に、質より量の傾向をもたらす。"ダブル何とか"という誘惑によって、人々は「消費者は小額で大きな食べ物を得ているのだと思いこまされる」(p108)。また、計算可能性は、効率性追求のためにも重要な役割を果たす。すべてを数に置きかえることによって(特に時間)、効率性の判断はたやすくなる。
三つ目は、予測可能性である。それは「マクドナルドが提供する商品とサービスがいつでも、どこでも同一であるという保証である」(p33)。常に同じサイズ、同じ味、同じ焼き具合のハンバーガーをアメリカでも、日本でも、モスクワでも食べることができる。ハンバーガーと同じように、マニュアル化された定員の応対も同じである。消費者にとって、これほど安心できることはない。そこでは、すべての客が平等に扱われる。可愛い女の子の客が、販売員にナンパされる可能性さえない。
最後に四つ目は、「制御、とりわけ人間技能の人間によらない技術体系への置き換え」(p34)である。マクドナルドの調理の過程は、完全にマニュアル化されている。調理するアルバイト学生は、まるで機械のように定められた動作を、定められた時間で行うよう徹底されている。それでも、人間である以上間違いがあるので、間違いがないようできる限りの作業を機械に置き換えようとする努力がなされている。客でさえも、行列すべきライン、長く居座れないための座り心地の悪い椅子などによって制御されている。
以上が、マクドナルド・モデルの持つ魅力である。マクドナルド化は、非常に合理的システムである。この合理的システムは、効率性の名の下に人間らしい行為―例えば食事―を単なる面倒ごとに替え手早く終えることをよしとさせ、すべてを数字に置き換え、意外性のない食事を提供し、常に同じ反応を相互に期待させ、人間を機械のように扱う。それに魅入られた人々は、「多くの選択肢で心を乱されたりしない世界が気に入っているので、合理化しつづけるこの世界よりももっとよい世界があるなど思いもしない」(p282)ようになっている。
マクドナルド化する社会の中で、人間の美しさや強さを競い、身体活動の爽快感や達成感を楽しむスポーツでさえも、人間を非人間化するマクドナルド化の影響を受けている。この傾向は、プロスポーツにおいて顕著である。プロスポーツにおけるマクドナルド化は、チームの所有者たるクラブ(球団あるいは企業)から、主体者である選手、そして観客のあるゆる方向から進められている。今回は、日本のプロ野球とJリーグを主に取り上げ、考察していくことにする。
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