top menuへ    ホームタウンとは何か?Jリーグを語る上で最も根源的な問いの一つを考えてみよう。


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ホームタウンの 意味を考える

「Jリーグの「活動地域」とは市町村単位なのか、それとも?」Naohiko Anzaiさんhttp://www03.u-page.so-net.ne.jp/tc4/nh-anzai/より

   先日、Jリーグの理事会で、Jチームのホームタウンは、必ずしも市町村でなくともよいという決定がなされた。現在、J2にいるチームの多くは、県全体をホームタウンとしており、それを追認するかたちになった訳だ。

   そもそも、Jリーグ発足時に市町村をホームタウンとするということに、どんな理由があったのかはわからない。『Jリーグ〜プロ制度構築への軌跡』(Jリーグ法務員会著、自由国民社、1993年)によれば、Jリーグ規約の中に「Jクラブは、特定の市町村を"ホームタウン"として、地域と一体となったクラブ作りを行い、その地域でのサッカーの普及と振興に努力しなければならない」という規定があるらしい。理由までは言及していないのだが、ホームタウンを定めるという趣旨は別としても、神奈川県のように最初から複数チームが参加する県があったことから、県ではなくて市町村としたのではないだろうか?

   市町村/県の考察を進める前に、県や市町村などの区域の成り立ちについて考えてみる必要がある。現在の県や市町村は、昭和初期には、もっと細かく分かれていた。さらに遡ると、江戸時代の藩などの領地の区域が起源になるだろう。

   これらの区域を区分する県境・市境・国境は、人間のために人為的に定められたものだ。自然は常に連続していて、ここから先は静岡で、手前は愛知と規定はしない。最初に平地があり、次に山、川そしてまた平地という連続があるだけである。その連続の中には、海や山脈など、動物など生物の移動を阻む自然もあるが、自然自体に優劣があるわけではなく、どれもすべて同じ自然である。

   それでも、人間が様々な境をつくりだしたのには理由がある。自然は連続しているが、一様に同じ自然ではない。赤道に近い地域は暑く、極地に近づくにつれ寒くなる。季節風や黒潮など、地域の気候に大きな影響を与える自然の流れがあり、それを遮断する山脈や大陸もある。土地の気候は、米作、放牧、狩猟など地域の生産体系に影響を与え、地域特有のシステムを持った社会を生み出す。

   人間の社会は、どこまでも連続しているわけではない。ある程度の規模のまとまりを成し、まとまりと別のまとまりとは、必ずしも連続せずに交流することになる。やがては、領土の争いが起こるが、山脈や川、海といった自然は、そこでも地域同士を分ける障壁となる。 縄文時代に始まり、明治以前の戦乱の時代を経て、現在にいたった区分けは、そのような歴史の結果であるから、国にしても、県にしても、市町村にしても、程度の強弱はあろうが、他の地域と文化を異にしているといえる。

   チームは、地域の文化を代表するものと考えられるから、このような区分でのホームタウンの指定は妥当だと思う。逆にこのような立場から言えば、県でも、市町村でも、地域の文化を代表していればどちらでもよいのだ。そこで、どちらかを選ぶためには、もっと実際的なことを考慮する必要が出てくるだろう。

   今までのように市町村をホームタウンとするメリットとしては、次のようなことが挙げられる。まず、一つ目として、県は市町村より、様々な文化を内部に含んでおり、一つにまとめることが難しいということが挙げられる。一つのチームが複数の文化を代表すると、個々の文化との繋がりが弱くなり、盛り上がりに欠けることになる。このことは、二つ目に挙げられるマーケットの大きさとのバランスと関連して、地域密着の大きなポイントとなる。つまり、地域と密着するためには、より狭い地域をホームタウンとして選んだ方が密着しやすいが、どんなに熱狂的なファンが多くても人口が少なければ成り立たないということだ。今、J1にいるチームには、相当な人口を持つ都市をホームタウンに持っているチームが多い。このルールにしたがって、適度な人口を持つ都市にチームが誕生したわけだ。しかし、大都市神戸のスタジアムは閑古鳥が鳴いているが、小都市鹿嶋のスタジアムはいつも満員というように必ずしも常に比例するというわけではない。

   三つ目には、自治体との関係が挙げられるだろう。Jチームは、自分のスタジアムを持たず、ホームタウンの自治体が提供するスタジアムをホームスタジアムとして利用している。チームによっては、自治体から出資や融資を受けているところも多い。また、ボランティアスタッフの募集や試合PRなど、直接間接に自治体の支援を受けている。

   こうした実際的な運営面の協力以外にも、Jリーグは、今まで企業の論理に支配されてきたスポーツを、公共の文化として確立することを目標の一つに掲げており、このような公共性の強い目標を達成するためには、自治体の協力が不可欠であるともいえる。

   前述のように、県は様々な文化を抱えており、その中には特定のチームへの支援を支持しない人々もいる。市町村とて同じことだが、人口が少なく、区域が狭いので意見をまとめやすい。また、同じ理由でチームが地域のシンボルになりやすいのである。結果として、県よりも市町村の方がチームへ支援しやすいのだ。

   しかし、地方のように、単独でチームを持つほどの人口規模がなく、相対的に県の力が強い地域では、県が大都市の代わりを担うことになることもあるかもしれない。今回の決定は、地方都市にとっては、当然のことといえる。

   ここで問題となるのは、東京をホームタウンとし得るか、ということだ。面積的には狭いが、人口が多すぎる。おかしいと思うのが普通だろう。他の県を認めたから東京も、という理屈もあるだろうが、私は東京には複数のチームができていくだろうということを前提とした決定だと考えている。

   東京都の中には、オフィス街・下町・ベッドタウンなど、独自の文化様式を持った地域が存在する。しかし、私には、東京は東京という巨大な一つの都市とみなす方がふさわしいと感じる。八王子市には八王子市の、東村山市には東村山市の文化があるだろうが、私のような田舎者から見ると、東京は東京である。東京の場合、東京都をホームタウンとするチームと、町田市をホームタウンとするチームが並立してもよいのではないだろうか。

   東京は、限りない多様性の都市だと思う。移民の国ブラジルのように母国の系列を代表する場合や、あるいはエリート階級のチームなど社会階層を代表する場合、アイルランドのグラスゴーのようにカトリック/プロテスタントなど宗教を代表する場合など、一つの都市の中の多様性を代表しているチームは世界中にある。東京にも同じことがいえるのであり、下町を代表するチームや上流社会を代表するチームなど、色々あってもいいと思う。

   言い換えるなら、東京をホームタウンとするチームは、東京都民すべてを代表するチームであってはならないし、実際になれないだろう。読売巨人軍のように日本の中心地たる東京に本拠を置くこと、イコール日本を代表するチームとはならないということでもある。サッカーの場合、代表チームがその役割を正しく果たしているから、ヴェルディが東京に移っても巨人にはならない。とにかく、地域の文化を代表するということに尽きるではないだろうか。

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