top menuへ    スタジアムは何のためにあるのか?経済的側面だけから見るなら費用/効果のバランスを取ることは不可能なのではないだろうか?巨大スタジアムの価値は、どこに見出せばよいのか考えてみたい。


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スタジアムの 価値を考える

「私のお願いするテ−マは「スタジアム」です。ご存知のように我が大分県もスタジアム建設の真っ最中です。多くの反対意見が新聞紙上で議論されました〜スタジアムとは我々日本人にとって一体何なのだろうと考えるようになってきました。」  Tohru.Mさんより

   今、2002年W杯に向けて、10の都市/地域が4万人以上収容という巨大なスタジアムの準備を進めている。既存施設の改修で済まそうとしているところもあるが、多くは数百億円という巨額を投じて新設しようとしている。その金額の大部分を占めるのが自治体の負担金、つまり税金である。しかし、そのような巨額の税金を投じて“元”が取れるのだろうか?

   もし、金額に見合うだけの利用があるということが条件ならば、それが達成されることはないだろう。一口にスタジアムと言っても、その利用度を計るとするならば、いくつかの要素に分ける必要がある。一つ目は、天然芝のグラウンドという要素。二つ目は、選手のためのロッカールーム・シャワー室や、競技役員用の会議室、あるいは記者室等、大会又は試合運営上必要な施設という要素。三つ目は、興行に必要な観客席という要素。四つ目は、スタジアムへのアクセスのための道路や鉄道などのインフラである。

   一つ目の天然芝のグラウンドについては、それが十分に足りている地域は日本国中どこを探しても見当たらない。しかも、天然芝を良質な状態に保つためには、その利用を週3回以下程度に押さえなければならない。したがって、よほど使用料が高くない限り利用率は100%に近くなり、芝のグラウンドが一つや二つできたからといって、供給が需要を上回ることは有り得ない。ただし、使用料だけで天然芝の維持費を捻出するのは難しいだろうが。

   二つ目の施設については、工夫次第で利用率を上げることは可能だろう。会議室は単独で貸し出すこともできるだろうし、シャワー室等は陸上競技場やテニスコート等を併設することで有効利用するこもできる。私が個人的に提案したいのは、巨大な観客席の下に屋内フットサルコートを併設することだ。そうすれば、天候に関わらずフットサルを楽しむことができ、シャワー室等の利用率が高まる。また、W杯やJリーグのときには、控え選手のウォーミングアップや試合後の選手のクールダウンの場所として使えるし、最悪でも、ボランティアスタッフやアルバイトらの控え室にはなる(ビッグゲームではこのような人たちの控える場所が不足しがちなのだ)。

   問題となるのは、三つ目の観客席と四つ目のインフラだ。しかも、これらの部分には、特に金がかかるのだ。中でも観客席は、観客席以外のことに使えないのが頭の痛いところである。

   将来、J1又はJ2のチームを持とうとしている地域には、2万人程度のスタンドを持ったスタジアムは必要だ。2万人も入らないということを前提にしている地域には、Jを目指す資格はない。しかし、4万人となると話は別だ。欧州や南米のビッグクラブでも、4万人収容のスタンドを常に満員にしているクラブはごくわずかなのだから。横浜や長居はともかく、地方のスタジアムでは、W杯以外にスタンドが満員になったことがないところが出てきても何ら不思議ではない。2回しか使わないスタンドに巨額の税金をつぎ込むなんてとんでもない!という声が出てくるのは必至である。

   インフラについても同様だ。スタジアムを都市の中心部につくるのなら、都市内部の交通網の整備につながり、ハードとしてのまちづくりへの貢献も大きい。しかし、多くの地域では、中心部に用地を確保することができず、未開発の土地が多く残っている郊外に建設することになるだろう。4万人を一気に扱うことを前提としたインフラは、W杯以外に満員になることがないのだとしたら過剰投資といえる。

   以上、経済効果や経済効率といった視点からの分析を加えたが、はっきり言って分が悪い。「W杯を我が町で開催することが夢」という理由だけでは、ふと我に返った時、自らが抱えた借金の額の大きさに卒倒してしまいそうだ。もう少し、深いしっかりとした考えをもって臨まなくてはならない。

   W杯を日本で開催する最大の目的は、サッカーを核にした地域スポーツ文化の確立に資することにあると考えている。スタジアム建設に対する投資も、30年、50年という長いスパンにおいて、地域のスポーツ文化が確立していくための初期投資なのである。

   企業に例えてみればよい。どんなに立派な工場も、長い時間を経て陳腐化していく。その時々で元が取れたとしても施設は減価償却していき、やがてはゼロになる。利益(=競技する喜び・観る喜び)は投資家(=利用者)に還元され、何も残らないように見える。しかし、企業は“会社”というシステムが残る。つまり、工場やビルは朽ちても、また、新たに利益を生み出すシステムは残るということだ。

   スタジアムも同様である。スタジアムを“物”として捉えれば、投資した額に見合う利益を生み出さない“物”に投資する意味はない。しかし、スタジアムが地域にスポーツ文化というシステムを残すのだとしたら話は別だ。

   地域の住民は、W杯開催を通じて様々な体験をすることになるだろう。ある人は、世界の名選手のプレーを見て、スポーツの奥の深さを知るかもしれない。ある人は、名選手らがプレーした同じピッチの上でプレーする機会を得て、芝のグラウンドでプレーすることの素晴らしさを体感するかもしれない。また、ある人はボランティアを通じて、スポーツは一部の人たちのためだけにあるのではなく、スポーツを必要とするすべての人のためにあるのだと気付くかもしれない。このような経験を通じて、より多くの人々が、よりよい環境の下で継続的にスポーツを楽しむことのできる環境とそれを支える文化の大切さに目覚めることが何よりの効果なのではないだろうか?

   最後になるが、W杯開催の元をとるためには、施設の有効利用にエネルギーを消耗するよりも、大会に関わったボランティアスタッフや関係者の組織化を重視しなければならない。そして、30年後、50年後につながる地域の組織づくり・システムづくりに努めるべきだと考える。

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