top menuへ    W杯・オリンピックなど、現代の競技スポーツは見る人の存在なしではあり得ない。それでは、市民スポーツレベルでの“見るスポーツ”とは何か?見る側の立場に立って考えてみたい。


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見るスポーツ するスポーツ

「生涯スポーツというと、大抵は“するスポーツ”に限定されてしまうのですが“見るスポーツ”も、生涯スポーツの中に入れていいのではないかと思います...スポーツは身体を使った自己表現の文化だと考えています。その自己表現をするためには、それを見てもらう人が不可欠なのです。」  sugimoto さんより

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スポーツを観戦するという行為の起源は、新しいようで古い。近代スポーツのプロ制度の発達によって、観戦者の大衆化が進んだのは19世紀の後半からだが、古代オリンピックがすでにスタジアムによって行われていたように、スポーツ観戦の歴史はスポーツの歴史にほぼ等しい。 人は何故スポーツをするのか、という問いに対する答えは、 しかし、人は何故スポーツしているところを見るのか、つまり、他人がスポーツしているところを見て何故楽しいのか、という問いに対しては言及されてこなかった。 見る人/見られる人の関係には、いくつかの型があるが、まず思いつくのは、フィギュアスケートや新体操など、見られることを前提とした種目である。一方、プロ野球やJリーグなどのように種目自体は見られることを必ずしも必要としないが、見られることによって競技自体が成り立つプロスポーツのような関係もある。他にも、学校の運動会のように練習の成果を家族に披露することを目的とするような関係もある。 フィギュアスケートのような場合、絵画や彫刻と同じように、表現する側と鑑賞する側の間に“芸術”というテーマが介在する。芸術というテーマを考えるならば、それ自体が巨大なテーマになってしまうし、ここで考察を加えたい本題とは違う。 また、運動会のようなシチュエーションも見る人と見られる人の間に家族などの特定の関係があることから−すべてがそうではないにしても−、見る/見られることの意義についてスポーツの一般的な性質を考える上では、一旦、無視した方がよいのではないかと思われる。 プロスポーツのプレーヤーと観客の関係については、