資料 事例集

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《事例@》堀田哲爾氏

 堀田哲爾氏がサッカーをやり始めたのは中学校一年生の時である。小学校では野球をやっていてかなりうまいほうだった。しかし、昭和22年、六年生の時に出場したその試合で、サッカーに転向するきっかけとなる事件が起きた。堀田氏がバッターボックスに立った時、ランナー一塁、二塁だった。その時の三塁コーチだった予科練帰りの先生は堀田氏にバンドを命じた。堀田氏は最初はバントをするつもりだったが、スローボールであまりにも打ちごろなボールがきたのでそれを打ち、それが三塁打になり二点入った。すると三塁にいたコーチは「馬鹿野郎、何故指示通りにバントしないんだ」と言い、堀田氏をベンチに下げてしまった。堀田氏はキャッチャーをやっていたのだが、替わったキャッチャーはぽろぽろ落球し、そのおかげで試合に負けてしまった。堀田氏は今でも自分の責任ではないと思っているが、同窓会ではその先生に今だに「あん時負けたのは、堀田、おまえのおかげだ」と言われ、その都度「先生のおかげでいまサッカーやってますから」と答え、何故かその野球部同窓会の会長までやっている。
 その後進学した城内中学では一年生の時にサッカー部の入部テストに合格し、県大会で優勝した。その後静岡高校へ進学した後もサッカーを続け県で優勝した。その時の堀田氏のあだ名は「ケズラー」だった。その名は"けずる"というサッカー用語からとったものだが、"けずる"というのは相手の足をけずる、つまり相手の足をタックルで傷めつけることであり、「ケズラー」はハードタックル専門で相手の特にうまい選手を怪我で退場させるのが得意という意味である。当時の審判は今ほどちゃんとしていなかったので、反則しても退場させられることもなく、実際に何人かを負傷退場させたこともあった。  静岡高校時代のチームメイトには、オリンピック代表の大村選手を始め、ちゃんと教えてくれる先輩もいたのだが、後に目標とするような指導者はいなかった。その当時の静高のサッカーは根性論的なところがあって、ゴロのボールをヘディングするような練習もあった。堀田氏は「こんなサッカーはありっこねえ」と思いながらサッカーをやっていた。
 高校生の時、堀田氏は卒業したら静岡大学の教員課程を受験して先生になりたいと思っていた。しかし親はどうしても東京医科歯科大学へ行かせたかった。堀田氏も親の気持ちを逆撫でしたくないという気持ちが強く、医科歯科大学と滑り止めで静岡大学を受験し両方合格した。しかし合格した後で、医科歯科大学に入学するには七万円必要だということが分かった。当時の七万円はかなりの大金で、お金を用意できずに静岡大学へ進学した。父親は死ぬ間際までそのことを気にして「七万円そろえなくて悪かったね」と謝ったそうだが、本人は先生になっていて良かったと思っていた。
 静岡大学を卒業し、教員として江尻小学校へ赴任した当時はドッジボールが全盛だった。そして根拠は分からないが、ドッジボールで使うボールは蹴ってはいけないという校則があった。しかしそんなものは関係ないと、堀田氏は校庭でボール(ただしドッジボールに似てはいるが実際はサッカーボール)を蹴っていた。すると堀田氏は児童会に呼び出され「先生は?月?日と?月?日にボールを蹴りましたね」と問い詰められ、すると「今も蹴ってたよ」と答えた。生徒たちには「いけないと思います」と言われ、学級会で問題にされた。堀田氏によれば「いつも六年生と遊んでいて、三年生が仲間に入れてもらえないもんだからやきもちを妬いたんじゃないか」ということだった。しかしまもなく、仲のよかった六年生からボールを蹴ってはいけないという校則が間違っているという疑問が問い掛けられ、それがいつしか「僕もボールを蹴りたい」という表現に変わり、六年生が議長である児童会の進行は意外な方向に移った。当時の鈴木和夫校長は「堀田先生はボールを蹴ってやるサッカーの大先生です。国体では県を代表して出る選手ですから、皆さんも教えてもらったらどうですか」と言い、堀田氏は生徒に正式にサッカーを教えることになった。そしてその年、昭和三十一年九月一日に交通事故で亡くなられた生徒の親御さんからの特別寄付でサッカーゴールをつくり、日本初のサッカー少年団の母体となるサッカーチームが結成された。
 始まったばかりのサッカーチームはまだ子供会の延長のようなものだった。学校のこどもたちは朝早くからボールを持って堀田氏の来るのを待ち、サッカーを教わるというより一緒に遊んだ。当時の生徒のサッカーに対する知識はほとんど皆無に近く、堀田氏がボールを真上に蹴り上げるとみんなキャーとかワーとか大騒ぎになり、その頃打ち上げられた人工衛星スプートニクにあやかって、「先生、人工衛星やって」とせがむ程だった。
 当時はまだ少年団も無く、会費もとらないまさに草サッカーといえそうなチームだった。一応、ユニフォームをつくったのだが、そのユニフォームというのが堀田氏が買ってきた普通のシャツを堀田氏自身が染めたものだった。背番号も羅紗の生地を切って糊で貼った。そのため雨の中でプレーすると染めた色や背番号が落ちてしまったそうだ。その上、親には「先生は雨の中でもやらせるんですか!」と文句を言われたが、どんな時にも子供たちは味方だった。堀田氏によれば「俺があんまり子供と仲がいいもんで、親が嫉妬したんじゃないかな」ということだ。
 堀田氏によれば、子供たちはサッカーが楽しそうだからサッカーを始め、そしてサッカーが楽しいからサッカーを続ける。サッカーが好きで好きでたまらないという子供たちが集まったら、後はそれぞれの才能を磨けるかどうかは本人の心がけしだいで、好きにやらせたほうがいい。その時に自分の力を発揮するための技術、特に基礎技術を面白くしかも効果的に教えるのが良い指導者の条件だそうである。しかし、基礎技術の訓練は退屈なものになりがちで、かつ指導者自身にも正確な技術の理解が必要だ。そこで子供たちがサッカーを楽しみ、その才能を伸ばしてやるために遠回りだけれども指導者づくりのコーチングスクールをつくったそうだ。
 昭和四十二年に第一回サッカーコーチングスクールが始められた。毎週月曜日の午後七時から九時まで、年間約五十回の授業があった。内容は技術的なことはもとより、サッカーの歴史からスポーツ医学、栄養学など幅広いもので、プレスマンいわゆる報道陣への対応までカリキュラムに含まれていた。
 自主参加ではあるがその規則は厳しく、遅刻も認められず五十回の授業のうち二回休めばクビという決まりだった。初年度には四十二人の合格者があり、そのうち十五人は指導者として何らかの全国タイトルをとったそうだ。その初年度受講者のうち、一回もさぼらなかった人が四十一人、一回だけ親の葬式で出れなかった人が一人、二回休んだ人が一人だけいた。その二回の理由も福島に行っていたのが一回と奥さんの病気のために来れなかったのが一回だった。堀田氏は彼を落第にしたのだが、その時に他の受講生は「厳しい!是非やってくれ」と頼んだのだが堀田氏は卒業証書を渡さなかった。しかし、落とされた先生も現在では静岡市の高校のサッカー部の指導者として優秀な成績を修め、「あんときにもし合格してたら今の自分はなかった」と堀田氏に話している。
 次に堀田氏がつくったのは清水FCは清水市の小学校の選抜チームとして始められた。始めは庵原、入江、江尻、飯田小などから優秀な選手を集めた。最初から高度なプレーと勝利をめざしたチームとして始められた訳である。清水FCには、今まで各小学校でエースだった子供たちばかりが集まる。子供たちはそれぞれの小学校で一番上手だった。しかしそこで世の中には自分より優れた選手が何人もいるのだということを知らされることになる。そしてよりレベルの高い集団で自分を磨くのだ。
 その理念は堀田氏の教育理念によるものが大きい。特に日本では、教育の場で人間は全て同じだから公平だ、だから同じ扱いをするのが公平なんだという考え方が強い。しかし、堀田氏はそれは間違った公平観を持った鏡だと述べている。人間はもともと一人一人違うもので、違うけれどもお互いに認め合うんだというところに本当の公平があり、子供たちそれぞれの才能を伸ばすことのできる指導者が公平な指導者なのである。そして子供たちは清水FCでサッカーの才能を最大限に伸ばしていくのだ。
 しかし、清水FCはサッカーだけが優れた偏屈な子供たちをつくりあげているわけでもない。清水FCでは子供たちの人間性の育成、特にリーダーシップといわれる部分の育成に大きく貢献している。
 清水FCでは先生だけでなく、上級生も指導者になる。上級生は下級生の面倒を観て、サッカーを教える。その上、ある時には上級生はより高度な技術を持ったライバルになり、またある時には身近なヒーローなのである。綾部女史によれば、第一回の少年サッカー大会に監督として出場したとき、すでに優勝候補だった清水FCの子供たちは記者にたびたびインタビューをうけた。その時「サッカープレーヤーでは誰のことが好きか?」という質問を受けた少年がいた。記者たちはクライフやベッケンバウアー、釜本のような当時のスーパースターの名前が返ってくると予想していた。しかし、その少年のこたえは「遠藤友則」だった。そこで記者は「どこのクラブの選手?」と聞き返した。記者が知らないのも当然だった。子供は「東高のおにいちゃん」と答えたのだ。
 清水FC出身の選手は清水東高、清水商業などの高校サッカーの強豪高に進学する。それらの高校は全国大会に出て活躍したり、代表チームに入れば国体などで勝ち進みテレビにでたり新聞、雑誌に載ったりする。いつもサッカーを教えてくれるお兄さんたちが全国で大活躍し自分たちのヒーローになるのだ。  加えて清水FCの子供たちは同じ清水FCの下級生の面倒をみるだけではない。集められた子供たちはほとんどが各小学校の主将クラスの子供たちだ。子供たちは週に何回かの練習と試合でより高度な技術を覚え、それを自分の所属する小学校の少年団に伝えるのだ。全国各地に遠征したり、時には外国に遠征することもある清水FCのこどもたちは様々な人々に出会い、見識を高め自身の小学校でリーダーシップを発揮している。 学校の機会均等主義では、本当の公平、教育ができないと考える堀田氏は、小学生レベルの清水FCを組織した。しかし、小学生、中学生でそれが終わってしまっては何にもならない、清水にプロサッカーチームをつくりたいと考え、とうとう実行してしまった。日本にプロサッカーリーグができたのも、他の県内候補を押し退けて社会人の実績のない清水にプロをつくったのは堀田氏によるところが大きい。堀田氏自身は、一身上の都合で公務から退くことになったが、チームはプレJリーグといえるナビスコカップ'92で準優勝という好成績を残している。

 

《事例A》小花公夫氏

 

 小花氏は親が静岡サッカーの重要な立役者だった。小花氏自身もそれでサッカーを始めることになる。小花氏によれば「親父みたいにサッカーを好きで好きでしょうがないって人は子供にもやらせたくてしょがないんだな」ということである。
 中学生の時はやらせてもらえなかったが、清水東高に進学してからサッカーを始めた。しかし、進学した当時はサッカーに対して興味があった訳ではなかった。入学式の時に三年の先輩にいきなり「おーい、小花っているか?」と言われ「はいっ」と答えると先生が呼んでるから来い、明日から練習があるからな」と何が何だかよくわからないまま始めることになった。清水東高で三年間プレーし、その後は小花氏によれば静岡大学にサッカーをやりにいった。そこで体育の先生になり清水の小学校に赴任した。
 最初に赴任したのは飯田小学校だった。小花氏は静岡市中田小学校の望月敬次氏がサッカーチームをつくったと聞き、自分の小学校でもやろうということで子供たちを集めた。始めはまず「さあ、やるか」と自分の組の子供たちから、次に自分の学年の子供たちというようにチームをつくった。最初に集まった子供たちはサッカーをまったく知らず、ボールの蹴り方、ポジションなど初歩から手とり足とり教えた。ポジションを教えると当時野球ばかりやっていた子供たちは教えた場所からまったく動ずに、野球のように指示されたポジションにずっと立っているだけだった。そこでサッカーは自由に動くから楽しいんだということを教え、やり始めれば当然面白いから子供たちも夢中でやり始めるようになった。
 ある程度チームとしてのかたちが整うと中田小学校と試合をすることになった。当時は学校同士の試合は公式にはできなかったので、先生が子供を遊びに連れていくというかたちで行なわれた。父兄も先生と遊びにいくなら行ってらっしゃいという具合でほとんどほったらかしの状態だった。当時の中田小学校は、他の小学校と同じくグラウンドは狭くゴールの網すらもなかったが、小花氏と望月氏は「どうせ、両方とも下手くそなんだからいいや」と試合を始めた。中田小の方は父兄も観に来ていて、お菓子などを差し入れしてくれた。そして技術的にはたいへん未熟なものだったがいい試合ができた。
 当時の飯田小の周辺はたいへん田舎で、田んぼばかりだったので何キロか先の庵原小学校を見ることができた。そこで「庵原まで試合に行くぞ、ついてこい」と庵原まで走っていき、夕方になると走って帰った。小花氏は子供たちの先生であり、友達であり、リーダーでもあった。
 飯田小に四年ほどいた後、不二見小を経て高部小に赴任した。不二見でも高部でもまだサッカー部はなく小花氏がサッカーを始めた。高部では校内放送で「サッカーをやりたい子は音楽室に来なさい」と呼び掛けたくさんの生徒が集まった。その中に女の子が七人来ていて、「どうしたの?」と聞くと「先生、サッカーやりたい子は来なさいって言ったじゃない。女の子は駄目なの?」と答えた。別に女の子が駄目だという訳じゃないのでどうしようかと考えていると、女の子たちは友達を集め十数人になったのでチームをつくることになった。昭和四十三年頃のことだった。
 小花氏は赴任した先々でサッカーチームを作ったが、教えた子供たちが通う中学校にサッカー部がないことがあった。せっかく小学校でやり始めたサッカーを中学でやれないのは可哀相なので、中学の校長とかけあうことになった。校長はつくると言いながらなかなかつくろうとしなかった。そこで小花氏も頭にきて週一回中学の体育館を借りてデモストレーションを行なった。しかし、一年間そのように指導しても校長は理由はわからないがサッカー部をつくろうとしない。それで次の年に校長が替わり、その校長がつくるということになったが、顧問がいなかった。そこで珍しい例だが小学校の教師である小花氏が顧問になることになった。
 小島小に赴任していた頃には育成会の設立に関わっていた。小島は清水市の北部にある山間の町である。小島の父兄たちは三保の父兄たちと親交があった。三保は小島とは逆に三保の松原で有名な海辺の地域だから小島まで行くのはちょっとした遠足気分だった。小島小は三保小の子供たちと父兄を招待しサッカーの試合をやり、その後で鮎を五百匹ほどと酒を持ち込んで交流会を開いたりした。特に行政に指導されたとか、サッカーの上部組織に指導されたわけではなく、自然にそういったイベントが行なわれたのだった。
 第一回が行なわれた時は子供たちの試合だけだった。しかし二回目からはせっかくだから親もやろうということでやってみると面白いということで育成会につながった。しかし、始めの頃はシロートの集団なので非常に怪我が多かった。そこで保険に全員入ることになったがやめる人はほとんどいなかった。
 昭和四十九年に育成会のリーグが始まったが、最初は小学生の親だった。自分の子供が卒業したら所属できなくなるのは嫌だということで、子供が卒業しても残ることが認められた。人数が多くでA・B二チームあるとこも出て、中学校の育成会もつくられ中学校と小学校のふたつのリーグができることになった。
 その後、小花氏は各種の団体や大会を企画、運営し堀田氏の片腕として清水のサッカーの発展に大きく貢献したが、平成元年に小学校の教師をやめ、清水市サッカー協会の建物の近くにFA商事というサッカー用品の専門店を開いた。FA商事の二階は県のサッカー協会の事務所になっていて、現在は事業と市と県のサッカー協会の仕事に専念している。

 

《事例B》綾部美智枝女史

 

 綾部女史がサッカーに出会ったのは、江尻小学校に通っていた頃である。ちょうど堀田氏が赴任した頃で、堀田氏の話と重なるところが多い。綾部女史は堀田氏が校則を違反してボールを蹴っていることに抗議した子供たちの一人だった。結局、江尻小では堀田氏の指導の下でサッカーチームが結成されることになるが、その当時の綾部女史は堀田氏の荒々しい雰囲気に馴染めず、好意を持たないまま卒業した。
 その後は大学を卒業し教師として飯田小学校へ赴任するまでサッカーとは関わりはなかった。教師になり堀田氏にあいさつに行ったとき、「いい先生になるには子供の本当の本音を聞けるそんな場をつくってあげること。本音のいえる場所、それは国語や算数の授業の中ではなかなかきけないから、一緒に遊んでやるとか、掃除をいっしょにやるとか、給食を一緒に食べるとか、子供が近くで話ができるという場をつくってやること」だと教えられた。この時のことばは大変参考になった。
 赴任先の小学校で子供に「先生、サッカーやろう!」と言われたが、綾部女史はサッカーに関しては未経験者であり、小学生の時の悪い印象が残っていたので最初は「駄目だよ」と断っていた。しかし、子供たちに「サッカーってすごく簡単だよ。あの白い枠に先生が入れたら先生の勝ち。僕がこっちに入れたら僕の勝ち」と言われ、なるほどと興味を持って、始めることになった。そして女史が知った初めてのルールがそのことだった。
 実際に見てると簡単そうだし、女史自身運動が好きで何でもできると思っていたが、やってみるとなかなかうまくできなかった。先生だという自負心もあるし、負けず嫌いだということもあってなんとかしようと考え、堀田氏に教えてもらうことにした。それで最初一人で教わりに行き、「ボールの蹴り方教えて」と言うと「それは教えるものじゃない。子供といっしょにやるものだ。今から練習するからとりあえず見にこい」と言われた。
 入江小学校での練習に参加することになり一緒にやらせてもらうと、子供たちが「右に行くときには、こう体を曲げて行くとうまくいくよ」とか教えてくれた。それで一人で教えてもらうのはもったいないと考え、飯田の子供たちを駆け足で入江小まで連れて行き一緒に練習することになった。入江の子供たちは五、六年生で、飯田の子供たちは二年生だったのでマンツーマンで教えてもらった。そのため綾部女史と最初の子供たちはスタートラインがまったく同じだと言える。
 しかし、毎日入江小に通うわけにはいかなかったので、とりあえず覚えた練習方法で自分たちだけで練習するようになった。まず、最初はシュートだけはできるから転がしてシュートの練習、という具合に練習が始まった。
 練習を始めてある程度ボールを蹴れるようになると、試合をしてみたくなるのは当然だった。当時市内では、飯田小も含めて上級生のチームは何チームかあったが、綾部女史と一緒に始めた二年生のチームはなかった。小学二年生と六年生では体格にあまりにも差があり過ぎて試合することはできなかった。そこで綾部女史は、堀田氏に二年生のチームをつくるようにお願いすることになった。
 堀田氏は友人である鈴木石根氏らとともにそれぞれの赴任先の学校で下級生を集め、その結果何チームかができた。しかし、新しいチームの子供たちは、主に担任しているクラス子供たちの寄せ集めですぐに試合をすることはできないので、三年生になったら試合をしようということになった。
 三年生になると試合をすることになったが、綾部女史率いる飯田小のチームは綾部女史に一年間びっしり鍛えられたこともあり勝ってしまった。子供たちは勝つことの楽しさを覚え、もっと上の目標、公式戦をやりたいということになった。低学年から育てれば五、六年生ももっとうまくなるということで低学年のリーグを始めることになった。
 小学生がサッカーを始めたことで清水のサッカーは様々な広がりを見せた。小学校でやった生徒が中学に上がりサッカーを続けたことは当然だった。まだ日常的な部活動が盛んでなかったので、サッカーに限らず幅広い方面で、運動に対する興味の動機づけになっていた。
 清水サッカーの広がりは、子供たちが学年を上がっていく上での連続性の中での広がりだけではなかった。小学生の親達は、自分の子供がやっていることにたいへんな興味を持っている。綾部女史によれば子供が一年生に入学したばかりの母親はドキドキしながら学校に来る。上級生になるとこんなものかと慣れてしまうけど、一年生の親達には緊張感がまだあるわけだ。それで子供が何かするとなると親もいっしょに観にくるわけで、すると親達も一緒にやってみるかということになった。
 その時、きっかけになったのが初蹴りという行事だった。初蹴りというのは正月に子供たち、父兄、OB、近所の人が集まってサッカーをして、その後でグラウンドのすみを借りてお雑煮やおしるこなどをつくってみんなで食べる親睦会のようなものだ。綾部女史によれば初蹴りは飯田小学校で行なったのが始まりらしいが、夏休みなどの長期休暇中などにはバーベキューなどの似たような行事は各地で行なわれていた。
 そのような場では、観ている父兄も一緒にやってみたくなる。そこでお父さんチームをつくって子供たちと試合をするようになった。それが日常的に行なわれるようになり育成会のリーグに発展した。育成会というのは少年団に所属する子供たちの親達で構成され、育成会のリーグで自分たちがサッカーの試合をするだけでなく、子供たちの指導や学区外での試合の送り迎え、応援、施設面での金銭的援助や学校側との交渉など少年団運営を幅広く行なった。
 親達もサッカーを始めると子供と共通の話題ができる。自分も育成会でサッカーをやりたいがために子供を少年団へ入れる親もいたくらいだった。そして子供、父親が始めれば母親もやりたくなるのは当然だった。
 綾部女史によればその当時は専業主婦が多かった。今のように共稼ぎは少なく、家の中にいるだけだからストレスもたまり、交友関係も少なく世界の広がりも狭かった。ところがサッカーをやるとストレスの発散はもとより、他学年の子供の母親などとも知り合い、つながりが広がった。そのようにして少年団は小学校単位の団体なので、小学校の学区という地域ぐるみの活動に広がった。
 母親たちは自分がやってみて子供たちはたいへんなことをやっているのだと気付く。そこで子供の栄養や睡眠などのことを気遣うようになる。加えて綾部女史のことばをかりれば「母親は家の大蔵省」であり、そういう意味でも協力がでてきた。面白そう、じゃあやろう、次は勝とう、そんな具合にサッカーの世界が広がっていったのである。

 

《事例C》鈴木石根氏

 鈴木石根氏がサッカーと出会ったのは、三保小学校に赴任している時だった。望月敬次氏が五中に赴任してきてサッカーを始めたので、三保小(五中と学区が同じ)でサッカーをやってみないかと五中の校長じきじきに言いにきた。三保小の近くには美保神社というのがあって、そこのお祭りが十一月三日だった。そのときにちょうど市民大会があって、当時、堀田氏の江尻小と小花氏の飯田小にチームがあったのだが、それに出場してみないかということだった。それで出場すると最初は9−0と8−0の大敗だった。鈴木石根氏はもともと陸上をやっていてサッカーは素人だったのだが、どうせやるならということで、陸上をやっている生徒を集めて翌年の一月に再試合をした。すると陸上の生徒は足が速く、抜かれても抜かれても追いついてしまい、同じ相手に2−0や2−1の試合ができた。この子供たちがサッカーを続ければ強くなる、どうせやるなら楽しんで強くなろう、と子供たちとサッカーを続けることになった。
 しかし、鈴木石根氏は素人で、今のような組織のない当時は、どう指導していいかもわからなかった。近所に澤西氏という素人なのだがサッカー好きな人がいて、「先生、一緒に観に行こう」と誘い合いながら、清水東高や藤枝、浜松の試合を観に行き、試合前の練習や試合を観ながら、戻ったらやってみようと覚えて帰った。シュート練習にしても最初は、手で転がしたボールを蹴るものだったが、堀田氏に「手で転がすボールと蹴ったボールは、変化が違うから蹴らないと駄目だ。手っ取りばやくうまくなるには、裸足でやることだ」と指摘された。裸足だと正確に蹴らないと痛いので、素人にありがちなトゥキックなどはできないからである。
 初めて教えた子供たちは、中学にあがってから市内で優勝した。しかし、翌三十六年には庵原に転任することになったが、庵原にもサッカーチームがなかったので、そこでもまた選手集めから始めた。子供たちはやはりサッカーを知らなかったので、体育館に子供たちを集め、バレーボールで試しにボールを蹴ってみせたら、ボールがステージで遊んでいた女の子たちの方へ飛んでいってしまった。その中の一人にボールが当たり、「あっ、折れた」という声があがった。鈴木石根氏は、まさかと思ったけど見ると本当に腕が骨折していた。すると、集まっていた男の子たちは「すげえ、やらざあ、やらざあ(やろう)」と言い、サッカーをやることになってしまった。
 練習方法は、テレビで西ドイツの名コーチ、デッド・マール・クラマー氏のサッカー教室をやっていたのを参考にして計画した。希望者と運動神経の良さそうなのを集めて作ったので、かなり有望なチームが出来上がった。メンバーには生徒会の会長のような頭が良くて人望のある生徒が多く、人気があった。生徒たちの家庭も、当時好況だった蜜柑農家が多く比較的裕福であり、ボールなどの用具もおこずかいの中から問題なく用意することができた。
 みんな自主的に始めた生徒ばかりで、サッカーをやっているから勉強ができないと言われるのが癪で、両方とも一生懸命やっていた。三保にいた時代には、暗くなって練習が終わると、その後に教室に生徒を入れて勉強を教えていた。生徒の親達にも、これだけの運動をやっているんだからちゃんとした食事をやらなければ駄目だと講義したこともある。当時は、頑張って働いている父親の食事だけ立派で、女子供の食事は粗末な家が多かった。食事の指導の他にも様々な指導をした。中には、子供自身はサッカーを続けたいのだが、家業の蜜柑農家を継ぐためにサッカー部のない静岡農業高校へ行かされる子供たちのために、「サッカーをやりたいなら東高へ行きなさい。農家を継ぐならその後で東京農業大に行けばいい」と親を説得したこともある。貧乏なわけではないから、そういうちょっとした指導で生活も変わるし、地域の人々との関係ももっと身近だった。
 清水FCを初めてつくった時、その中心選手はほとんど庵原の選手だった。そのころ、他地域から来た若い先生に、読売ランドの大会に出場する清水FCの引率を頼んだところ「横浜では出張手当がでましたよ。ガソリン代くらいくださいよ」と言われた。「おれたちは奉仕でやってるんだからそんなの出ないよ」と言うと「ええっ、それで行くんですか」と言われた。堀田氏と相談すると、組織も大きくして長く続けるには「やっぱり、そのくらいは考えないとなあ」ということになり、育成会を組織して、指導者のジャージとかアップシューズくらいは面倒をみることになった。鈴木石根氏は、その当時は報酬とかは考えられなくてジャージくらいで済んでいたが、そういった面がもっと遅かったら、もっと遅れていただろうと話している。お金の話もあり、いろんな事故があった時のことも考えると学校体育では問題があるということもあって、社会体育である少年団に移行したそうだ。

 

《事例D》牧田博之氏

 

 牧田氏は、ここで取り上げたリーダーの中では異色である。現在、中東部支部の理事長をやってはいるが、ここの指導者には珍しく教師出身ではないのである。それ以外にも、サッカー協会に入るまでの経緯が他の指導者とは違っている。
 牧田氏がサッカーに触れたのは、庵原小学校三年生の時である。担任の図工の大滝先生が、休み時間に生徒を外に出してサッカーをやらせたのが始まりだった。牧田氏によれば、大滝先生はサッカーは素人だったそうだ。当時、サッカー部は鈴木石根氏が教えていたのだが、四年生にならないと入れなかった。そこでソフトを始めたのだが、鈴木石根氏に「おまえはソフトの才能がないからサッカーをやれ」と言われ、四年生になってからはサッカーに変えた。夏休みなんかは、弁当を持って午前三時間、午後三時間の練習をこなし、庵原の山を走り、チームは強かった。
 中学の時は、練習は厳しかったが、心の中で教室が主体になっていて勉強とサッカーの両立ができていたそうだ。時間的にはサッカーにかける時間が多かったが、勝つという目標に向かって自己を向上でき、気持ちの上で学校もサッカーも主体的に両立できていた。その後清水東高へ進学し、サッカー部に入部したが、二年生の時にやめてしまった。技術的にはけっして劣っていなかったが、あまりのサッカー漬けに両立ができなかった。牧田氏によれば、みんな同じような悩みを持っていたんじゃないかということである。
 名古屋大学に進学し、またサッカーを始めた。大学のサッカー部は学問を主体において、残りの時間を割いてできるものだった。牧田氏は、後輩である反町選手が自分に似ているんじゃないかと言っている。反町選手は現役のJリーガーだが、ほとんどのトップクラスの選手がプロ化に伴い、それまでのサラリーマン選手からプロ契約に変えたのに対し、全日空の社員のまま同チームのレギュラーとして活躍している選手である。
 牧田氏は大学卒業後、地元の小糸製作所に就職した。そして小糸のサッカー部と掛け持ちで清水クラブに所属した。清水クラブは東海社会人リーグに所属する古豪である。そこの監督にサッカー協会の宛名書きなどの雑用をしないか、と持ちかけられ、二ヵ月に一度くらいだということで行ったのが、昭和五十七年二十八才の時だった。はじめの頃はあまり呼び出しもなかったので、こんなものかと思っていると、いつのまにか名前が庶務委員長になり、次には会計をやってくれということになった。一期が二年で、庶務を四年間、会計を四年間、次に副理事長を二年間務めた。本当は庶務の次に理事長という話だったそうだが、いきなりは困るということで猶予をもらい、現在理事長をやっている。
 大所帯の清水サッカー協会の理事長を引き受けるには、相当の決心が必要だった。責任があるということの他に、会社の仕事と協会の仕事の両立という問題もあった。現在も小糸製作所から給料をもらう社員であるが、会社に理解してもらうのは比較的容易だった。牧田氏の上司である副社長が、サッカー部の顧問と体育協会の副会長に就いていて理解があり、直接の上司、課長、部長、社長に話を通してもらった。しかし、出向という位置付けならば問題はないが、あくまで普通の社員扱いなので、周囲の社員には黙っているのも荷が重いし、俺はこうだぞというのも嫌なので、精神的な苦労があるそうだ。牧田氏自身の中では、あくまで主体を会社と考え、やりがいはどっちがあって、給料をもらうのはどっちでと位置付けをして頑張っているそうである。

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