第一章 スポーツの社会的役割

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第一節 近代スポーツの成立


 ホイジンガによれば、近代スポーツの成立以前のスポーツは軍事性と祭祀性に特徴づけることができる。軍事性とは弓術や剣術のように戦争技術を直にスポーツ競技にしたものに加え、体力の増強、維持を目的としたものを含むスポーツにみることができる。ホイジンガは"遊び"をスポーツの重要な要素だと主張し、さらに「遊びと最も緊密に結びついているのが、勝つという観念である」(ホイジンガ,1938,訳119頁) としている。そして、古代からのスポーツ競技の形式を力比べ、ランニング競争の変形とし、これらの競技に闘技的原理を見いだすことにより"遊び"だとよぶことができるとしている (1)。闘技的原理の最も重要な要素は勝つという観念であり、その闘技的原理によって戦争で敵を倒す闘争心を喚起するスポーツは、その体力の増強等の身体的特性と共に戦争時の精神的高揚を図る役割を持たされることになった。
 ホイジンガはさらに、スポーツは「技芸、力、忍耐の競争は、古くから、時には祭祀と結びつけられ、またときには単なる子供の遊び、祭礼の余興として、どんな文化のなかでもいつも重要な地位を占めてきた」(ホイジンガ,1938,訳396頁) とし、スポーツの祭祀性にも言及している。そして、スポーツと祭祀の関連を「古代文化のなかでは、競技がつねに神に捧げられた祝祭の一部をなし、幸をもたらす神聖な儀礼として、不可欠のもの」(ホイジンガ,1938,訳400頁)だったと表現している。
 加えて、スポーツ競技を含む祭祀の中の"遊び"を「この行為が福祉を生み、日常生活の世界より一段と高い事物の秩序を創るのだ・・(中略)・・しかし、この遊びが終ると同時にその働きまで消えてしまうのではない。むしろそれは、向こうにある日常世界の上にそのまばゆい光を投げかけ、祝祭を祝っている集団に対して神聖な遊びの季節がふたたび回ってくるまでの安全、秩序、繁栄を授けてくれるのだ」(ホイジンガ,1938,訳44頁)だと位置付けている。
 軍事性、祭祀性を直接の目的としない近代スポーツは、19世紀後半のイギリスにおいて成立したといえる。当時のイギリスでは、クリケット、フットボール、ゴルフなど近代スポーツの起源となる競技が幅広く行なわれていた。これらのスポーツが初期近代スポーツの代表例といえるが、ホイジンガはスポーツ競技が規則の体系を持った組織へ進化するとき、フットボールを始めとするボール競技が村対抗、学校対抗で行なわれることを指摘して「この種の固定した組織は、二つのグループが相対して遊ぶときに生じやすいことは明白である」とした。なかでも「大きなボール競技は、永続的なチームによる訓練された試合を要求することになる。ここにいたって登場するのが現代スポーツである」(ホイジンガ,1938,訳398頁) としている。
 近代スポーツの成立は、特に球技の規則の体系化にみることができるが、そのきっかけとして、各地のパブリックスクールでそれぞれのルールで行なわれていたスポーツを他地域のチームとの試合を行うために、統一ルールの確立と組織化の必要性がでてきたことが挙げられる。ここでは、その代表的な例であり本論文のテーマであるフットボール(アソシエーションフットボール=サッカー)を例として挙げておく。
 フットボールはもともと民衆的で荒々しく、ときには死者がでる程に野蛮で無秩序なものであった。民衆のフットボールは告解火曜日(2)に代表される祝祭に行なわれていた。儀式であると同時に、異教的で、日曜日の礼拝を妨げる禁止されるべき野蛮な娯楽でもあった。その後、19世紀になると民衆のフットボールをもとにして、ブルジョアジーの手によって近代フットボールが確立された。経済的文化的に高い地位にあるブルジョア階級の子弟が通うパブリックスクールにおいて、近代フットボールのルールは道徳的合理的に体系化されたが、その結果、スポーツにはスポーツマンシップ、平等主義(機会均等主義)、国際主義などの特徴が含まれることになった。つまり、ルールを守ることによって、参加する全ての競技者が勝利を掴む可能性を持ち、同じルールで競技する者の全てと一緒に安全に平等に競技することができるということである。
 このように確立された近代フットボールは、次第に労働者階級に道徳教育の一環として(3)普及することとなるが、上級階級たるブルジョアジーの考え方と、労働者のフットボールが持つ実際のスポーツの本質との間には、やがて歪みがでてくることになる。ここで指摘した歪みとは、いわゆる"プロ−アマチュア論争"であり、後々ある程度成熟したスポーツの全てにおいてみられるようになる。
 19世紀後半に近代スポーツが成立してから二つの世界大戦を経て現代に至るまで、スポーツは身体的体力増強機能・社会教育機能が注目され、もっぱら戦争のために政治的に利用されてきた。ベルリンオリンピックの時にヒットラーは「スポーツ競技者は、ドイツの新しいタイプの先導者であり、頑丈かつ鍛練された選手たちである。そして、彼らはスポーツマンとしてというよりも、むしろ、戦争全体の中の部門として競技を行なう政治的用員として注目され、賞賛される」 (マッキントッシュ,1963,訳24頁)と述べた。ムッソリーニもイタリアワールドカップの時に、イタリア代表チームに前回準優勝のアルゼンチンの代表選手を加えて優勝させたが、これも自国の名誉獲得の為だった。 第二次世界大戦が終わり、スポーツから戦争の影は遠のいたように見えたが、しかし、今度は国の豊かさの象徴としてスポーツが活躍することになる。東京オリンピックは戦争によって焦土となった日本の復興の象徴として開催され、最近では、韓国がソウルオリンピックを成功させ先進国の仲間入りをした。モスクワオリンピックはまさに東西冷戦の戦場となり、西側諸国が選手たちにボイコットをするよう圧力をかけ、東側もロサンゼルス大会でそれに報復をした。平和への懸け橋となるべきスポーツの祭典が政治の、そして戦争の舞台となってしまったのである。
 このようにスポーツは、長い間政治の手段としての役割が強調されてきた。しかし、近年では、アメリカやヨーロッパ諸国を始めとする先進国が大衆化、都市化への潮流のなかでスポーツに対する認識を変化させた。
 まず、1966年にヨーロッパ評議会が「スポーツ・フォア・オール」の概念を採択し、スポーツの概念を「自由時間に参加する、自由で自発的な活動である。その機能は、レクリエーション、娯楽、自己啓発である」(マッキントッシュ,1963,訳31頁)と定義した。日本でも、スポーツ産業研究会が「スポーツは、自然な人間的欲求を充足しながら、アミューズメント機能、ヘルス・メインテナンス機能、自己開発・向上機能、コミュニケーション機能、学習・教育機能等の様々な機能を有しており、ヒューマニティー(人間性)の維持と向上に大きな役割を果たすという文化的価値を持つ」(通商産業省政策局編 ,1990,1頁)と報告している。
 これらの報告は、それまで考えられなかったような斬新な新しい価値を加えているわけではない。大衆の生活水準が上昇した結果生まれた経済的余裕と余暇が、人々の欲求を満たすものとしてスポーツが見直すことを可能にしたのであり、スポーツ自体に新しい価値が加わったのではない。しかも、このような状況においても、スポーツにおける実際的な部分ばかりが強調され、プロスポーツにおける職業的従事者や観客などの問題には触れられていない。
 現代では上記のようにスポーツの娯楽機能、ヘルス・メインテナンス機能、自己啓発・教育機能が強調されがちである。当然、これらはスポーツの機能として重要なものであるが、個人主義的な大衆の中で注目されるスポーツは、多くの人々が期待しているような気楽で自由な単純な娯楽として永遠に留まることはできない。
 その大きな理由は、スポーツは各個人に合った一定のレベルで行なうことが要求され、そのレベルは各個人の能力、年令によって限界があるがキャリアに比例して上昇するということである。つまりより高度な技術、体力、精神力を身につけ、より強い敵に挑み、または昨日の自分に勝つというような目標を必要とするのである。もし、これらを否定するならば、ゲームとしての、または身体活動としてのスポーツの喜びや面白みは大幅に減少し、ヘルスメインテナンス機能も継続が難しく、社会教育機能もわざわざスポーツに求める必要がなくなるだろう。残るのは、朝のラジオ体操かテニスサークルに集まる若い男女または有閑マダムぐらいである。
 積極的にスポーツの意義を認めるならば、その結果としてのスポーツの高度化をあらゆるレベルで避けて通ることはできない。このことはつまり、特に社会のなかでスポーツを捉える時に、上記の娯楽などの機能の結果としてのスポーツの大衆化だけでなく、スポーツの高度化とそれに結びついた、強さへの憧れ、あるいはゲームへの陶酔など、スポーツの祭祀性、政治性を無視できないということである。


第二節 現代社会とスポーツ


 近年までのスポーツは、社会の中で非常に複雑な位置付けをされてきた。大衆にとっては娯楽であり、為政者にとっては国民の意識をコントロールする手段であり、高度なプレーするものにとっては生活のための職場であった。しかし、日本におけるスポーツはレクリエーション的側面が強調され、仕事の合間に行なうレクリエーション、または観て楽しむための一種のショーだという捉えられ方をされている。そしてその根底には、仕事=真面目、余暇は仕事の円滑な遂行のために行なうものだという従来の社会的通念がある。余暇の過ごし方には、仕事の中でたまったストレスを発散し、仕事につながるような自己向上の訓練を行い、職場の人間関係を補強するようなもの、まさに趣味と実益を兼ね備えているものが求められ、スポーツはその目的に最適なものとして捉えられてきた。しかし、近年の余暇時間の見直しなど"生きがい"とは何かを考え、人間性を回復しようとする潮流の中に仕事=真面目の構図を解体しようとする流れがあるのは否定できない。このような時、仕事、余暇と人間の複雑な関係の大きな部分をスポーツは含んでいる。
 スポーツは、現代社会の様々な歪みの改善に対して多くの可能性を持っている。産業社会化は、機械化や自動化により労働者の精神的ストレスを増大させ、肉体的健康を低下させている。心を和ませるべき自然も大都市の中では失われ、地方でも加工され保護されなければ減っていく一方である。日本全国が都市化した今、地域の人間関係も希薄になり家族内のコミュニケーションも薄れている。スポーツはこれらの人間性を回復する手段のひとつというよりも、取り戻すべき人間性の現代的なかたちのひとつとして求められている。大切なのはスポーツが何らかの目的、特に近年までのように政治的な目的のための手段としてだけに使われるのではなく、それ自体が目的として「スポーツのためのスポーツ(sport for sport) 」として捉えられることである(4)。
 そこでの「スポーツのためのスポーツ」とは、スポーツをするという行為に含まれてる人間性の回復、または推進のためにスポーツをしようという意味である。その人間性とは、他人や自然、あるいは自己の体とのコミュニケーションによってストレスを発散し、自己の向上願望を満たすことである。スポーツは、真面目、遊び、祭り、日常などのすべてを含んだ我々の人間性を現代的アレンジによって集約しているのである。
 ただし、以上のような概念は、スポーツの政治的性格や手段的性格を否定するものではない。ホイジンガは勝つという観念が遊びと最も緊密に結びついているとしたが、勝つということを「遊びの終わりにあたって、自分が優越者であることが証明されること」(ホイジンガ,1938,訳119頁) だとしている。ただ微妙なのはそれが「力に対する渇望とか、支配しようとする意志とかをいうのではない・・・根源的なのは、他人よりも抜きんでたいという欲望であり・・・第一人者として尊敬を受けたい」(ホイジンガ,1938,訳119頁) という願望であって、支配と搾取を目的とする戦争とは異なるものである。 オリンピックを提唱したP.クーベルタンは「排外的ナショナリズムこそ産業文明の害悪であり、スポーツ精神によって抑制されなければならないもの」と考え、近代オリンピックの特徴を「古代と同様にスポーツ自体に対する信仰を表現し、それによって神々(近代においては祖国)を讃えるものであること」とし「より高い目標に挑む高貴さと、精粋、つまり競争相手にたいする相互扶助の精神」だと述べている(武重雅文「近代オリンピックの宿命」亀山佳明編,1990,訳98〜99頁)。ここで強調されるのは、愛国主義と国際主義であり、近代スポーツの政治的側面をよく捉えている。しかし、それは思想的には近代スポーツがまだイギリスのブルジョアスポーツだったころの肯定的な側面であり、後に政治的手段に利用されたように両刃の剣的性質であると言える。
 加えて、クーベルタンは反商業主義的でかつ人間主義的な諸理念をオリンピック規定に含めたが、それはアマチュアという概念に表されている。アマチュアという言葉は簡略に、スポーツをすることによって経済的報酬を受けない競技者だと定義することができるが、しかし勝つという観念がスポーツの重要な目的だとするならば、スポーツが高度化の方向への向かうのは必然的なことであり、勝利するために必要な多くの経済的自由、時間的自由はアマチュアということばを陳腐なものにしてしまう。高度化にはより多くの訓練が必要であり、それには経済的・時間的な自由が必要である。経済的な自由とは経済的報酬を受けないことというではなく経済的基盤があるということである。時間的自由も、当然、経済的自由の上に成り立つ。
 スポーツの経済的側面を無視できないということは、スポーツ競技者だけではなくスポーツする場をつくる側からも言えることであり、スポーツのための広大な土地と高価な施設は地域社会におけるスポーツの振興を難しくしている。特に、多大の金のかかるスポーツイベントは経済的基盤なくしては不可能であり、1984年のロサンゼルスオリンピックは、民間企業が共同で運営し、商業的成功を修めることによって大会自体も成功した。このように、スポーツの経済的側面を無視できなくなりアマチュアの定義との矛盾が露見した近年では、多くのスポーツでアマチュアの言葉が取り払われ、オリンピック憲章からも1979年にアマチュアの文字が消えた(5)。しかし、現在多くのスポーツでアマチュアという概念が使われていることも事実である。
 オリンピック銀メダリストである伊藤みどり選手のプロスケート界入りという報道において、マスコミは"引退"ということばを使っている。本来ならば、アマチュアからプロへのレベルアップとみるべきことである。それを引退と表現する背景には、オリンピック出場の"アマチュア"スケート選手が、プロ以上の精神的プレッシャーを他人から、そして自分自身からかけられているということがある。その上、プロスケーターがショーなどで稼ぐ入場料などの興行収入よりも、オリンピック出場のアマチュアスケーターにかけられるテレビの放映権料や、コマーシャルなどのお金の方がはるかに大きいという事実もある。
 この例にみられるように、レクリエーション的アミューズメント機能が強調される現代においても、スポーツは政治的、経済的な諸側面から切り離すことはできない。むしろ、その結びつきは大きくなっている。しかし、それらの諸側面を個々に指摘し、切り離せばたいへん偏ったものになるだろう。極端なアマチュア主義のもとでは、高度な才能と技術を持った人々は疎外され、スポーツは人間の肉体が持つたくましさ、美しさを十分に表現できない。逆に勝利至上主義では、人間がチームの歯車としてみなされ人間性を無視されたり、当人の能力を越えた過剰なスポーツ活動を強いられることもある。現代社会におけるスポーツは、それらの諸側面をバランスよく、有効に利用することが求められている。そして、その結果として、社会に大きく貢献することができると考えられる。


第三節 スポーツの地域社会における役割


 地域社会の再生が叫ばれて久しい。全国の各地で"まちづくり"、"むらおこし"などの掛け声のもとで様々な方策が試みられている。その背景には人口・経済の東京一極集中と全国総都市化という現状がある。
 人口・経済の東京一極集中は主に経済活動の徹底した効率化の結果である。大企業は政治的機能や情報、外国との窓口などの集中した東京のより近くに集まる。その結果、情報や大企業に努める人々、大企業に関連する企業はさらに集積し、肥大化した人口のためのサービス産業が、より進んだ情報の下でより進んだ刺激的なサービスを生み出す。そして、作り出された刺激や可能性に惹かれてさらに多くの人やモノが集まる。
 しかし、過密は様々な弊害をもたらしている。地価高騰による住宅難により、多くのサラリーマンは通勤に片道一時間以上を強いられている。首都高速道を始めとする東京の道路の多くは渋滞が慢性化し、駐車場不足も半端ではない。
 その一方で、地方では都市化による地域社会あるいは家族の解体が進み、地方に留まる理由を無くしている。そして東京発信の情報・文化への追従を余儀なくされている。地方と東京、双方に同じような刺激しかないならば、より新しく、より巨大で、より刺激の強い東京へ若者を中心とした多くの人々が集まるのは当然の結果だろう。つまり、東京一極集中という現象は、人々が東京の魅力に対して抗い地方に留まる理由があまりにも小さいか、消極的であるのが理由なのである。
 多くの人々が地方に留まる理由もなく、大都市に出てくるが、そこにも大きな疎外感が待ち受けている。魅力のない地域社会や家族を見切り、仕事や都市の刺激を選んでも大都市はそれに十分に報いてはくれない。近年はそのような状況に対し様々な対策が考えられている。余暇の増大は人々に多くの時間を与え、個人の尊重は多くの自由な精神を与えてくれる。そのような可能性の広がりの中でスポーツが注目されている。
 近年の余暇の増大、所得の増大、スポーツの商業化などによって高まった人々のスポーツに対する期待に対して、重要な役割を果たすのが地域社会だといえる。人々に密着した日常的なスポーツ空間を形成するには、スポーツをする場、もの、指導者などとそれをまとめて運用する組織が必要であるが、人々の多様でかつ個人的な欲求を満たすには画一的な全国区の政策よりも、個々人の生活に密着した地域社会が果たす役割が大きい。
 人々の好みが多様であるようにスポーツの種類も多様であり、スキーのように気候的特徴を必要とするもの、登山のように地理的特徴を必要とするもの、他に高価な施設を必要とするものや激しい運動を必要とし、年令や性別に制限があるものがあり、何よりも地域社会それぞれの文化にあったスポーツがある。人々が地域社会でのスポーツ空間に望むものは、表面的には体を動かすことによるアミューズメント機能だということができるが、その根底にはストレスの発散や健康の増進といった心身の健康の維持・向上機能、友人や家族との交流によるコミュニケーション機能等の人間性の回復の場としてのニーズがある。
 上のような役割に加え、ここでは、地域社会における一分野としてのスポーツの役割にとどまらず、スポーツを主軸とした地域社会づくりの可能性に触れておく。その中で最も注目されるのがオリンピックなどのスポーツスペクタクルである。オリンピックが長い間、アマチュアの祭典として非金銭的、クリーンなイメージに縛られてきたのに対し、サッカーの世界一を決めるワールドカップは最初から「招待された側が旅費、滞在費を負担し、収益は主催国のオリンピック委員会のものになるというオリンピック方式を真似るつもりはなかった」。つまり、「主催する協会は参加チームの旅費、滞在費を全額負担してなおかつ収支決算で収益を確保できる」 (ジュール・リメ,1955,訳26頁)必要があった。そして、実際に第一回のウルグアイ大会(1930年)から商業的に大きな成功を修め現在に至っている。
 加えて、オリンピックやワールドカップなどのスポーツスペクタクルには、経済的政治的側面に加え祭祀的側面もみることができる。ホイジンガはスポーツに見られるような技芸、力、忍耐的な競争は古くから祭祀の場面で重要な役割を果たしてきたとしている。現代でもオリンピックなどの国際的スペクタクルに限らず、学校対抗戦などにも非日常的空間が演出されている。大きな大会の直前には選手たちは授業を休んで合宿を行い、聖なる重要な行事としての試合には、多くの生徒が授業またはプライベートな時間を犠牲にして応援に参加する。しかも、その生徒の多くは応援に行くことを義務づけられている。聖なる試合は授業や私生活などの日常に優先している。そして、義務感でいやいやながら参加した生徒たちも、いつしかその雰囲気に圧倒され、母校の勝敗を我が事のように一喜一憂し、団結の輪の中に溶け込むのである。
 サッカー・ワールドカップは世界的なスポーツの祭典であり、世界中の人がテレビでその様子を見ている。そして、自分の国の代表選手を応援し、勝てば自分のことのように喜び、負ければ何かと批判する。ブラジルでは、近年低成績のサッカーの代表チームが負けると、両手の指に余る人々がその敗北を嘆いて自殺し、代表チームの選手たちは母国の空港で暴徒の歓迎を受けることになる。度合いは別にして、似たようなことはどんなスポーツでも少なからず経験することである。
 そのような場面では競技者も観客も何らかの信仰者であり、スペクタクル自体が儀式的意味合いをもつこともある。古代オリンピックは祭典競技として行なわれ(5)、近代オリンピックもその祭祀性を失ってはいないし、現代の様々なスポーツスペクタクルはそのような側面を少なからず持っているということができる。
 以上から現代地域社会におけるスポーツは、心身の健康の維持向上的側面、コミュニケーション機能による競技者の社会化の側面、政治的経済的祭祀的側面等を持つと考えることができる。これらの諸側面は、ある一面だけを強調すれば全く中身のないものとなり地域社会に定着せず、政治や経済に利用されるだけである。ゆえに、それらをバランスよく組織することが大切である。

(1)Huizinga,J.,1938,訳397頁参照。
(2)F.P.マグーンJr.著、忍足欣四郎訳、1985、訳者まえがきX頁参照。
(3)F.P.Magoun,Jr.,1938,訳215頁参照。
(4)Mcintosh,1963,Sport in Society  第七章スポーツとアマチュアリズム参照。
(5) 亀山佳明編,1990,スポーツの社会学U−1近代オリンピックの宿命(武重雅文)参照。
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