第三章 地域社会におけるスポーツの現代的役割

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第一節 地域スポーツ組織とコミュニケーション

 清水におけるサッカー組織の特徴は、地域に非常に密着しているということである。その組織の基盤は、基本的に学区にある。昔のような経済協同体的"ムラ"社会が、近代の職住の分化、都市化によるボーダーレス化により解体してしまったことは明らかであり、相互扶助、同一の利害関心を持ったご近所づきあいが希薄になっている。つまり、自分たちの住む居住地区の利害が、必ずしも一致しなくなったことを意味している。その上、住居を転々とする転勤族も増え、ただでさえ多様な関心が常に変化している。そのために地区、つまり、何とか町何丁目などの区切りは自分の住所を示すための便宜的な呼び名にすぎなくなっている。生活範囲が非常に広くなり、その境界線が曖昧になっているのである。
 しかし、そのような現代においても、はっきりとした境界線が引かれているものもある。それが学区である。私立の学校の多い都会ではそれさえも曖昧になってはいるが、東京、大阪など一部の地域を除けば、学区は最小の生活範囲を規定している。なぜなら、小学校の学区は通常、山間部やよっぽどの過疎地を除けば、小学生が歩いて通える範囲に設定してある。小学生が歩いて通える範囲は、つまり、日常的な生活圏だということができる。
 一方、核家族化が進んだ現代では、家庭の重大な関心事の一つが子供の教育である。子供をどのように育てるか、それは親にとっては将来への投資でもあり、希望でもある。子供が何か新しいことをやり始めれば、親達は子供がやっていることにたいへんな関心を示す。だから、子供たちがサッカーをやり始めれば、サッカーとはどんなスポーツなのか、危険はないのか、子供の教育上好ましいことなのかなど様々なことを考える。そして、実際にやっているところへ観にいき、子供たちの生き生きした姿を見て応援してあげようと思う。
 すると、子供たちが怪我をしないで頑張れるように、栄養のある食物を十分食べさせようとか、遠くの試合会場へは自分で送り迎えをしようとか、色々気を配るようになる。しかし、自分たちでできることは限られているから、子供たちにとってはチームメイトである別の子供たちの親達と情報交換や共同で世話をすることを考える。施設が貧弱なままでは危険だからみんなでお金を出して施設を改良しようとか、試合時の送迎を持ち回りでやろうとか、子供という共通の関心事のもとに団結が始まるのである。それが、学区という限定された地域内における、サッカーと子供という共通の関心を持った集団である。
 ここでスポーツの幸いなところは、学校の勉強と違い、親自身が一緒にやれるということである。最初は子供を通じた関係だったのが、サッカーというチームスポーツを通じて、親同士が直接の関心を持つようになれることである。サッカーをレジャーとして捉えるならば、観て楽しむことも、やって楽しむこともできる。経済的利害から離れたレジャーの分野なので、比較的警戒心もなく、気軽に参加することができる。
 そして教師や指導者を中心とした組織づくりが始まる。最初は、サッカーの指導者が組織づくりからサッカーの指導まですべて一人で演じることが多いが、徐々に各少年団の運営は少年団の父兄の集団である育成会が行なうようになる。少年団、育成会は、自発的参加に意義があり、その組織運営はサッカーの指導者よりも、その地域集団内のリーダーシップが取れる人物が行なうのである。
 育成会の活動は、特に地域と密着している。子供たちや自分たちが楽しく、安全にサッカーができるように地域に多くの働き掛けをしている。例えば、自分の子供たちが所属するチームが全国大会にでることになれば、多額のお金が必要になる。この時、お金を集めるのが育成会や後援会である。後援会は育成会とは違うが、実際には各チームのOBや父兄などの現役や昔の関係者で構成されており、構成員はかなり似ている。これらの団体が自分でお金を出したり、地元企業や果てはご近所の人から寄付を集めるのである。
 育成会の活動がかたちになって表れている例の一つとして、少年団や市民サッカーチームなどの底辺の一般プレーヤーが活動するグラウンドのナイター設備がある。現在、市内の小、中、高校のほとんどには、質の差はあるが、なんらかのナイター設備がある。温暖で雪がまったく降らないため、照明設備さえがあれば、年中夜おそくまで練習や試合をすることができる。これらの照明は学校のグラウンドに付属しているわけだが、多くの場合、市民の寄付で作られている。
 清水市教育委員会施設課の足立氏によれば、建前上は少年団が各学校へ、その後で学校が教育委員会へ打診するという形をとるが実際には、少年団から教育委員会へ直接話がくることも多いそうである。一度取り付けてしまうと、後の維持や修理については話し合いで決めることが多い。自分たちでお金をだすということで、比較的順調に話が進むことが多いがトラブルが起こねこともある。
 例えば宮城島氏によると、三保第一小学校の場合、親も子供も一年中サッカーをやりたかった。そこで、自分たちでお金を出して照明設備をつくろうということになった。しかし、当時の三保一小の校長は、「ソフトボールの活動もあり、学校の施設をサッカーの子供たちだけに独占させるのは承知できない」と頑なに拒否した。しかし、少年団関係者を通じて堀田氏に状況を説明し、教育委員会の方へ働き掛けてもらうことで「ソフトボールなどサッカー以外の活動にも利用させること」を条件に設備をつけることになった。
 現在、清水の社会体育のための施設利用は、有効利用というより奪い合いである。そこで、照明施設やゴールの多くは寄付によって購入されている。使う側の惜しみない寄付とそれを、寛容にかつ有効に利用する教育委員会の協力体制がうまく機能しているわけである。
 ところで、清水のサッカー組織をみる限り、地域スポーツ組織には地域社会のコミュニケーションを現代的な形で媒介する可能性を持っている。地域内コミュニケーションの活性化には、住民の自主性が必要である。しかし、緊急の危機が少ない現代では、前述のように共通の利害が生まれにくく、政治的関心を軸にした結束は難しい。ムラ社会のように地域産業という経済的利害が住民の関心を集めるのは困難なのである。
 現代の地域社会では、経済的利益の代わりに、教育を始めとする精神的な豊かさが求められ、地域住民の自主性を引き出している。便利なだけではなく美しい街、住みやすい街が求められているのである。そのときスポーツは、主にレクリエーション機能と社会教育機能がクローズアップされ、学校教育や社会教育、果ては生涯体育と結びついて地域社会のコミュニケーションを媒介する一つの手段になっている。
 日常的行為としてみるならば、現代人にとって、何らかのかたちでストレスを発散し、明日からの生活のためにリフレッシュすることは日課の重要な項目になっている。ただ面白いだけならば、飽きることもあるかもしれない。しかしスポーツは、勝利や記録など目標が立てやすく、その目標に対する結果もわかりやすい。ジョギングや水泳のような種目は別だが、対戦形式をとるスポーツは、必然的に自分以外の人とプレーする必要があり、会社で毎日合うのとは違う、地域の人々との交流が生まれやすいのである。 一方、非日常的側面からみれば、大会や試合は昔で言えばお祭りであり、実際、多くの大会が〇〇フェスティバルというような名前を冠している。古来のお祭りが五穀豊穣や大漁祈願などの地域産業に結びついていたのに対し、試合の勝利などスポーツの目標への団結や運営上の団結など、スポーツの場は現代的な地域の結びつきをつくりだしている。

第二節 スポーツの経済的側面と地域社会

 長年、日本におけるスポーツはアマチュア的側面が強調され、金銭的利益を要求する経済的側面は忌み嫌われる傾向があった。スポーツは個人が余暇の中で無報酬で行なうものであり、金銭欲を連想するような経済的側面は無視されてきたのである。しかし、スポーツをするためには、道具を買うお金、場所を借りたりそこに行くためのお金、スポーツをするための時間を作り出すだけの余裕など、スポーツをする側に経済的余裕がなければスポーツをすることはできない。
 一方、スポーツをする場を考えてみるならば、スポーツをする施設は自治体から、または私企業から提供された不動産であり、これらの施設の管理やスポーツの指導はサービスという商品であり、スポーツウェアやシューズを始めとする数々の道具も商品である。多くの人が観戦するスポーツスペクタクルには、会場まで観客を運ぶ大規模な交通機関が必要であり、快適な観戦の演出のために観客に飲食物などの商品を提供しなければならない。
 近年まで、仕事=真面目と遊びの構図の中で、遊びと真面目、非営利と経済というような分類のどちらにも属さず、時には無理矢理どちらかの枠に押し込められてきたスポーツが、近年の地域社会の再生という課題の中で、その本来のかたちをつくりあげることで大きな可能性となることが期待できる。
 スポーツを媒介とした地域社会の再生を考えるとき、二つの大きな柱として精神的側面、経済的側面が考えられる。精神的側面は、生きがいということばに象徴されるような、人が生きていく上での精神的な支えであるが、このことについては次節で詳しく述べることにする。一方、経済的側面はまさに日々生きるための糧である。
 地域社会の再生というと、東京を筆頭とする都会に対して田舎と呼ばれる地域がいかに住みよいか、という視点から論じられやすいが、ややもすればそれは東京にない、変わったことをやろうと偏った方向に捕われやすい。しかし、東京の最大の魅力は多様性と非排他性による選択の自由であり、情報化の進んだ現代において情報収拾力のました東京は、田舎で生まれた新しい刺激をどんどん吸収してしまう。まして現代人に合わせた意外性や新鮮さでは、大情報センターである東京に勝てるわけがないのである。
 ならば地域はどうすれば良いのか。東京の一極集中を問題にするとき、これほど素晴らしい機能の集まった東京が、何故住みにくいのかを考えてみればわかる。それは、職住が分離し、それぞれが勝手に発達し、職住のバランスが崩れたためである。言い換えれば、生活の精神的側面と経済的側面のバランスが非常にアンバランスになっているということである。
 このような問題を抱えた東京に対し、地域社会がすべきことは、精神的側面と経済的側面のバランスのとれた地域をつくることである。精神的側面とは生きがいのある生活であり、言い換えれば精神的自律=自立のできる地域づくりである。一方、経済的側面とは、自分たちの力で食っていける経済的自立である。スポーツは、精神的側面と経済的側面の両方を持つがために、よりバランスのとれた地域の再生に寄与することができると考えられる。そこで、本節では経済的側面について焦点を当てることにする。
 清水市の地方銀行である清水銀行は、平成二年に「清水市のサッカーが静岡県内に及ぼす経済波及効果(生産誘発効果)」というレポート(表V−1)をまとめている。このレポートは静岡県の産業連関表を使い、平成元年一年間の清水のサッカーに関係する消費額と経済波及効果を試算したものである。このレポートによれば、「建設投資などをまったく含まずに、単なる人の移動にからむ消費を中心に、毎年約15億円の効果をもたらすわけであるから、率直な感想として「サッカー効果」は絶大なものがある」。
 このレポートは、三つの項目を基礎としている。一つ目は清水市におけるサッカー用品の売上である。これは、このレポートの試算の中ではもっとも明瞭である。市内のサッカー用品専門店やスポーツショップのサッカー部門の売上を調べればいいわけである。例えば市内の小学生チームが使うサッカーボールは年間で約六千個であり、ボール一個の平均市価を3800円として年間約2300万円の売上があることになる。他にもストッキング、シャツ、ショーツ、靴などを一式揃えると一人7500円必要であり、毎年約3000人の児童が進学し、その半分がボールや衣類を新調するとさらに約1600円の売上があがることになる(1)。以上は、新聞社の見積もりであり、筆者の経験的推測によれば、ジャージ、個人用ユニフォーム、予備の衣類などサッカーを少年団で普通にやるための道具を一式新しく揃えれば二万円近くになるはずである。
 サッカー専門店にとって重要な顧客は、個人客もさることながら、チームの統一ユニフォームやジャージをまとまった数で注文してくれる団体客である。そういった専門店では、値段の高い有名ブランド製品の他に、廉価なオリジナルブランドを持っている。年少者はそれらの地元ブランド製品を使いながら、育っていくのである。
 次に二つ目の項目として、清水市で行なわれる5つの全国大会の費用が挙げられる。5つの全国大会とは、レポートによれば、清水カップ全国少年草サッカー大会、清水市長杯全日本チャンピオンズカップ少年サッカー大会、全日本チャンピオンズカップ女子サッカー大会、高校サッカーフェスティバル、トヨタカップである。
 これらの大会は、すべて清水市で行なわれるがどの大会も全国大会の強豪ばかりが参加している。特に春休みに行なわれる高校サッカーフェスティバルは、国見、南宇和などそれぞれの県の全国大会代表クラスばかりが集まる。市内の六つの高校を会場に県外から約30チームを招待し、熱戦を繰り広げている。それでも高校サッカーフェスティバルは、出場各校にとって、インターハイや全国サッカー選手権に向けての力試しに過ぎない。一種の練習試合に過ぎないわけである。
 しかし、少年草サッカー大会はそういうわけにはいかない。第一回の頃は、全国の有志に出場を呼び掛けたのだが、近年では応募チームが多すぎて、各地に割り振った出場枠を賭け、各地域で予選を兼ねて小大会が行なわれている。そこを勝ち抜いてきた男女あわせて約270チームが清水に集まるわけである。
 本大会は、清水市、清水市教育委員会、静岡県サッカー協会が主催し、後援と協賛として様々な団体が名を連ねている(表V−2)。その他にもホテル、旅館、タクシー会社など多くの地元企業がバックアップしている。企業にとってもそれだけおいしいチャンスなのである。
 第一回を例にとれば、大会期間の五日間に参加した選手が約六千人、父母の人数も合わせると延べにして約一万六千人が集まるのである。市内各地の小学校と市営グラウンドで行なわれる全試合数が1017試合、ここに様々な商売が行なわれている。
 まず第一に大きいのは、出場者の宿泊所である。清水には、三保の松原、日本平などの景勝地はあるが、年中集客するほどの力はない(表V−3)。特に夏枯れ期間にお客を取るチャンスなのである。大会中、五十三の旅館、ホテル、民宿に一日当たり三千七百人から四千人が泊まった。うち五十が市内の施設。全収容能力約三千三百人を越える人数が泊まれたのは、体の小さい小学生だったからである。
 しかし、必ずしも利益ばかりがあがったわけではない。全参加者が平等になるように、民宿からリゾート型ホテルまですべて六千円の均一料金にしたために高級ホテルには不満が残る。選手の送り迎えのためのバスも一日中運行し続けなければならず、ユニフォームなどの洗濯用の洗濯機を購入したりレンタルしなければならないこともあった。 会場では、毎日六千個に近い弁当が必要である。このためわざわざアルバイトを増やした弁当屋もある程である。しかし、サッカー協会からの依頼は、四百円という値段で六百円の内容を、ということで儲けはなかった。このように必ずしも儲けのない商売を地元の業者が引き受けたのは、サッカーの町としての自負があったからではないだろうか。
 他にも記念写真の撮影や、名前にサッカーを冠する「サッカー必勝最中」「サッカーまんじゅう」などのお土産の販売はかなり好調だったようである。しかし、本大会にもっとも寄与したのは地元の住民である。大会を主催したのは主にサッカー協会といえるが、実際に運営したのは、清水市と庵原郡三町のサッカーチームの父母たちで作る育成会の約四千人の方々である。五日間にわたる大会を交替制とはいえ、四千人の人がボランティアで運営するのである。加えて、各試合の審判を担当したのは、地元七高校のサッカー部員百六十人である。彼らも弁当程度は出るが、ボランティアである。
 もし、これらのボランティアの代わりに、営利目的の業者が全て運営したとしたらどれほどの経費が必要か計り知れない。このような大会を実現できるのは、サッカーの町清水の市民としての自負を持ち、しかもこのような大会の運営慣れしているボランティアの父兄の方々の協力があってこそである(2)。
 経済効果の三つ目の項目は、以上に挙げた以外の各種大会の売上である。市内大会やジュニアの国際大会などの交通費、飲食費などがこれにあたる。最近では、障害者によるサッカー大会なども企画されており、年中大会が行なわれ、その収入は莫大である。 加えて、この経済効果表に含まれていない、サッカーに関する地域経済がいくつかある。まず第一に、効果表でも断っているように、公共施設などの建設投資がまったく含まれていないのである。サッカーをするためのグラウンドは広大な土地を必要とし、スタンドや駐車場など巨大な施設を必要とする。これは、一度作ってしまえば後は改修や維持程度で、あまり継続的経済効果は期待できないが、多額の費用を必要とするのは間違いない。
 最後に、清水市のこれからのスポーツの経済として、プロサッカーの設立がある。潟eレビ静岡を筆頭に、主要株主として、叶テ岡銀行、叶エ水銀行、静岡鉄道梶A鈴与梶Aはごろもフーズ梶A潟Xルガ銀行など一般法人株主104社が参加している。加えて清水市が800万円、静岡市も400万円出資。1600人の市民持株会も、第一回募集時には募集定員を応募が大きく上回ったそうである(表V−4)。
 今まで、選手、指導者、団体運営者ともにボランティア的な参加であったのが、プロになることで大きく変革することは間違いない。地元企業にとっても清水=サッカーのイメージを商業的に利用するチャンスになる。実際に地元向けのテレビコマーシャルには、清水FCエスパルスの選手が出演し始めている。
 テレビの放映権料、入場料もかなりの金額をもたらす。放映権料は、全国放送で一千万円、ローカル放送でも三百万円で、ジャイアンツ戦以外のプロ野球に匹敵する(3)。入場料も、五千円から千円までの範囲で販売され、人気チームの試合はほぼ売り切れである。清水FCが進出した平成四年のJリーグナビスコカップの決勝では、国立競技場に五万人以上の有料入場者が入場し、そのチケットは試合の一ヵ月前の準決勝が行なわれる前の発売日の当日に売り切れている。
 加えてコマーシャル活動については、金額にならないような部分で大きく貢献している。近年話題になった和歌山県の東京向けのコマーシャルに代表されるように、多くの自治体がCI(city identity)の確立に多大なお金をかけている。一本何千万円もするコマーシャルのかわりに、清水のサッカーはプロが活躍し、高校生などが全国優勝することで、お金をかけずに全国に宣伝している。地元企業も鈴与鰍フ女子サッカーチームに代表されるように企業イメージに清水のサッカーを結びつけている。
 今後、サッカーのプロ化にともない、様々な問題が浮き上がることが予想される。多額の金銭が絡むことで、それが正しく運用されることが要求される。プロの選手や指導者などの待遇問題もある。子供をプロにさせようと必要以上に子供に期待をかけ、受験戦争のサッカー版のように加熱する親も出始めている。いずれにしろ、地域社会とスポーツの経済的関係は切っても切れないものであり、経済的側面を無視しようとしたり、分離しようとするよりも、むしろ、その両立と相互発展をいかに推進するかが課題である。

第三節 スポーツと地域のアイデンティティー

 地域社会の再生を考えるとき、住みにくいといわれる東京に、何故人は集まるのか、前節ではその理由として、生活の精神的側面と経済的側面のアンバランスのためであると指摘した。このような東京に対し、地域社会は奇をてらった"むらおこし"で全国の気を引くのも必ずしも悪いことではないが、それだけでは地域社会に東京と同様なアンバランスを持ち込むだけである。あくまで精神的側面と経済的側面のバランスのとれた地域づくりが必要なのである。
 前節では、地域づくりの経済的側面、つまり食っていけるという部分にスポーツがどのように関わっていて、どのような貢献ができるかという点について考察した。本節では、もう一方の精神的側面について考察していくことにする。
 近年、CI(corporate identitey)ということばが流行している。CIとは、「企業の存在証明」であり、詳しくいうなら「他の企業との関係において、自らの行動や価値観をユニークなものとする、企業の存在証明」(深見幸男著、1991、15頁)である。これに対し、同じCIでもcity identity(以下CI)というのがある。こちらは文字通り「街の存在証明」である。「街の存在証明」とは、その街、つまりその街に住む人々の、自分は何者なのか、何故そこに住んでいるのか、そしてどう生きたいと思うのかという問い掛けに対する答えである。
 近年まで、田舎といわれる地域に住む理由として、生まれた土地だし家があるからとか、自然がたくさんあるから、家業があるからなどを挙げることができた。しかし現実は、より高収入を得る機会が期待でき、刺激のたくさんある都会へ若者が出ていってしまった。田舎の方としても、優秀な教育機関のある都会部への若者の流出を拒めないし、「いえ」の解体や生活習慣の変化など、田舎に残る理由も多くはない。
 この時、田舎といわれる多くの地域がやったことは、企業、特に大企業の工場の誘致だった。企業のもたらす雇用効果や税収入は大きいものがあり、あながち悪いこととはいえない。大企業がくれば、道は良くなるし、仕事も増える。しかしそれだけで住民の生きがいがどれ程増えるだろうか。
 企業は営利を目的としている。いつ、倒産したり、撤退したりするかもわからない。その時、その地域に残るのは必要以上に立派な道路と、まず最初にくびを切られた非熟練労働者、そして仕事のなくなった下請け零細企業だけである。
 仮にその企業の工場が存続したとしても、教育を受けるために都会へでた優秀な人材が再び帰ってくるとは限らない。そんな工場は全国にいくらでもあり、もっと面白いことのできる本社や研究所のある首都圏に行ってしまう。地元にいた若者も東京に行って面白い生活をしたくて仕方がない。本社から派遣されてきた社員も、早く東京の本社に帰りたくてしょうがない。このような状況では、その地域にあるのはただ生きているだけの日々の営みとしての生活である。
 以上に挙げた例のような街では、CIは見つからない。人々にとって自分の勤める工場のある街以上の意味が見つからないからである。人々が街に本当に定着するためには、住民にとってその街が当然いるべき場所でなければならない。人々をそこに引き止めておくには、物理的には職があること、住居があることなどが挙げられ、精神的には、生れ故郷としてのまたは長年住み慣れた土地としての愛着、人間関係、面白さなどを挙げることができる。
 このようなときスポーツは、CIの確立に貢献する大きな可能性を持っている。その可能性のうち、人間関係については第一節で、経済的側面については第二節で触れた。ここでは、スポーツが持つ性質を踏まえて、スポーツが地域住民のアイデンティティーの確立に与える可能性を考察する。
 人々が自分らしさを自覚するとき、自分のどの部分が他人と違い、もっとも特徴があるのかを考える。その時、その人が選んだ分野において、自分の部分がその道の一流であることが大事である。人が簡単にできることなら、誰でもが同じ能力を持つことになってしまい差がでないからである。そしてできることならそれが目に見える、目立つものであった方がいい。企業のCIも、マークとかブランドとか、目に見えるイメージをつくることから始められる。
 現在、清水といえばサッカーが連想されることは既に述べた。では、なぜ清水といえばサッカーがイメージされるのだろうか。その理由には、清水のサッカーチームが強いこともある。その組織がしっかりしていて、規模が大きいこともある。その上に市民の生活に定着していてファンが多いこともある。これらをまとめれば、サッカーの質的にも、組織の質的にも、一流であるということが言える。必要なのは、一流であるということである。一流であるということを証明するには、勝つのが一番だが、必ずしも常勝である必要はない。一流であるということは言い換えれば、この場合は本物のサッカーに触れているということである。つまり、地域の特徴とすることの本質に触れているということである。
 アイデンティティの確立には人と違うことをやることが大事だと述べた。しかし、ただ人と違うことをやるだけでは独り善がりなものになりかねない。一流であるためには、地域内に閉鎖性を持つことではなく開かれた態度が必要なのである。一村一品運動のはしりである大分の例では、その三原則の一つに「ローカルにしてグローバルなものに仕上げなければならない」(平松守彦、1990、80頁)ということを挙げている。自分たちの持っている素晴らしいものを独り占めすることではなく、清水の例でいうなら自分たちのサッカーをより多くの人に認めてもらい、伝授することが大切なのである。このようにアイデンティティは、他者との関わりの中で初めて芽生えるのである。
 優れたものを多くの人々に提供すれば、より多くの人々がその地域に注目し、集まる。集まった人々は、たくさんの情報、刺激、お金を持ち込み残していく。地域の人々は訪れた人々との関わりの中で、地域住民としての自覚に目覚め、自分の能力を人に教えても追い付かれないようにさらにレベルアップするように頑張る。このようにして地域が活性化されていくのである。
 ところで、スポーツはローカルなものにしてグローバルなものを目指しやすい。それはサッカーの試合をみればわかる。サッカーは、1チーム11人、敵味方合わせて22人の対戦形式で行なわれる。サッカーの戦術を考えるとき、専門的なことはここでは触れないが、フォーメーションやシステム、攻撃的なのか守備的なのか、体力に優れるのかスピードあるいは技術に優れるのかなど個々のチームにはチームカラーがはっきりと表れる。世界のサッカーが、おおざっぱにヨーロッパタイプと南米タイプの二種類に分けることができるのはサッカー界の常識である。このようなことは、どんなスポーツにも少なからずいえることであり、世界大会などではチームの性格が国民性と関連づけられて語られることも多い。
 スポーツで注目されることは、このように様々なカラーをまとったチームが、単一のルールもとでプレーすることである。地域別のルールがあるようなスポーツでも、大会の参加者はその大会のルールに同意して始めてプレーすることができる。近代社会の特質である共通のルール、一般的な社会でいうならば法によって治められている理想的な社会なのである。日米貿易摩擦で問題にされる流通機構や商慣行の違いは、地域性の違いということもできるが、それぞれの主張がかみあうようなルールづくりをつくることは容易ではない。これに対してスポーツは、共通のルールやレフリーのもとで公平に行なわれている。
 ルールのもとで行なわれるスポーツは、公平なプレーの進行を保障しているが、平等な結果を保障しているわけではない。まったくの素人集団が日本代表チームと試合をすれば、素人集団は得点はおろかボールに触ることもできないだろう。どんなスポーツでもルール違反をすればペナルティが課されるが、相手に得点を与えなくても反則にはならない。たとえばバレーボールなら、すべてサービスエースで相手にボールを触らせなくても違反にはならない。スポーツは参加者に同じ結果を与えるのではなく、強い者には勝利を、弱い者には頑張ったなりの祝福を与えてくれる。
 このようなルールのもとで、人間の肉体の躍動感や美しさ、精神的な爽快感や考える楽しさなど、スポーツからより多くの祝福を受けるために、練習をしたり、試合をしたり、応援をしたり努力をする。誰に強制を受けるのでもないその行為が、個人と地域のアイデンティティを育むのである。
 スポーツは、精神的豊かさという部分において、現代地域社会が必要としている機能をフォローする可能性を十分に持っている。それは巨大な情報化社会における個人の自主性を引き出す可能性である。以上から、地域社会が嵐を避けて逃げ込む港ではなく、荒波を越えて進んでいく、絶対に沈まない船となり、その原動力となるべき自主性と協調性を引き出し、船のジャイロコンパスとなるべきアイデンティティをつくりだす可能性を、スポーツは持っていると考えることができる。

(1)朝日新聞,1987.8.22.参照。
(2)朝日新聞,1987.8.29.,8.13.参照。
(3)河北新報,1992.11.1.参照。
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