序章
近年までスポーツは「遊び」の領域の中に位置し、労働とは対極のものとして考えられてきた。しかも、マッキントッシュが「現代の文化に関する多くの検討や分析から、スポーツが抜け落ちていることを説明するのはむずかしい」(マッキントッシュ,1963,訳4頁)と指摘しているように、労働という人間のハードな場面から区別されたスポーツが、文化という人間のソフトな場面からも区別され、軽視されてきたという事実がある。
しかし、戦後の高度経済成長と共に、社会福祉の一環としてスポーツに関する多くの政策がなされたことも事実である。その多くはスポーツの健康増進・維持効果に注目したものであるか、または戦前のベルリン・オリンピック、イタリア・ワールドカップ、戦後の東京オリンピック、ソウル・オリンピックにみることができるように、国の勢いの象徴としての宣伝効果を狙ったものであった。確かに、それらが国民のアイデンティティの形成や心理的活性化に果たした役割は大きく、ファシズムによる利用やオリンピック選手の"使い捨て"的な扱い方など多くの問題を含むものではあるが、一概に否定できるものではない。しかし、近年では、オリンピックのプロ選手参加によるアマチュアリズムに関する論争や、人々の余暇に対する考え方の変化にともなうスポーツに対する期待の多様化など、今までのようなスポーツの実際的効用だけでなく、社会にとって多様な役割について見直しがせまられている。
その多様な側面の一部分しか取り上げられなかったスポーツではあるが、近年の日本の各地で試行錯誤されている地域社会の再生に重要な役割を果たしている例がいくつかある。その中でも、清水市のサッカーは代表的かつうまくいっている数少ないうちの一つだといえる。1993年からJリーグというプロサッカーリーグが始まるが、その加入チームのほとんどがリーグの前身である日本リーグの企業主体のチームを母体にしているのに対し、大企業の後ろ盾も前身となる実績のある有力なチームも持たない唯一のチームが、清水の市民球団といえる清水FCである(表序−1)。多くの問題があったにもかかわらず清水FCが実現できたのも、市民の情熱があったからこそである。ここでは何故、それほどまでに市民の生活にサッカーが密着したのか、清水市の事例を考えながら、スポーツが地域社会で果たしうる可能性を多面的に考察する。
清水市の例で特徴的なことは、強力な指導者がいたこと、内発的な組織化、学校の施設や組織を土台にしながらもそれを社会教育に結びつけたこと、小学生のレベルから始めたこと、高度化と大衆化をうまく結びつけたことなどが挙げられ、これに非排他的な風土、協力的な行政、温暖な気候、交通の便利な地理的位置などが追い風となったことがあげられる。そこで指導者のインタビューや地域誌を利用しながら、清水でサッカーが地域社会の活性化に果たした役割を、地域住民同士のまたは他地域の住民とのコミュニケーション、余暇の充実、経済的活性化、最終的には地域のアイデンティティの形成の重要な要素として捉えていきたい。