思い出の山小屋・テントサイト

 塩見小屋(南アルプス) 1993年8月

登山を始めたばかりのころだった。
長野県大鹿村から鳥倉林道(当時開通したばかり)をたどり、三伏小屋を経て塩見岳を目指した。
午後から天気が崩れ始め、どうにか雨が降り始める前に塩見小屋についた。
この日の登山客は私を含めて5人だった。今では考えられない人数である。
南アルプス南部の小屋で食事できる小屋はまれだった。加えて美味しい天ぷら料理には仰天した。
素泊まりの一人を除いて小屋の主人である川村氏と共に楽しい夕食のひとときを過ごした。

案の定、翌日雨風強く私は思案にくれていた。登山客の5人の内2人は早々に塩見岳(南ア北部)を目指して小屋を出て行った。
私を除く4人はすべて南アルプス南部の山から縦走してきた強者達であった。
残った3人の内1人は早々に停滞を決め込み、もう1人は迷った末に北岳小屋を目指して出て行った。
低気圧の接近と共に頭痛に見舞われた私は、停滞・挑戦?・敗退の三択を迫られていた。
9時頃(たぶん)まで粘った末、小屋の主人に「下ります」と伝え敗退の道を選んだ。

翌年再挑戦し、塩見岳山頂を踏むことが出来た。好天に恵まれ360度のパノラマを楽しんだ。
当時初心者でしかも単独行の私が、敗退を選んだことは今思えば当然の結末だが、縦走していく強者達の姿を強く印象付けられた。
また、山小屋の心触れ合う暖かさを知った。 

 涸沢(北アルプス) 1995年10月

涸沢の紅葉を見ようと上高地から穂高を目指した。最初のテント山行で担ぎ慣れない20k位のザックが今でも重かったことを良く覚えている。
横尾を過ぎ本谷橋の辺りから見事な紅葉が始まり、心弾ませて登山者の多い山道を登っていった。

涸沢カールはその名の通りゴツゴツした大小の岩石を敷き詰めた広い涸れた沢のようである。
あいにく涸沢の紅葉はすでに終わり、裸木に寒風が吹き抜け何とも残念だった。
到着と同時にテン場探しに入ったが、空いているところは岩で凸凹だったり平らでなかったりで苦労した。
10月ともなれば日暮れも早く、加えて穂高の峰々が日没を早めている。
星のきれいな夜だった。周りに強い光が無いことと空気が澄んでいることで平地では味わえない夜空である。

とても寒い朝だった。常念岳と蝶ヶ岳の峰から朝日が昇り、涸沢岳がオレンジ色に染まっていくさまは今でも目に焼き付いている。
奥穂ピストンでサブザックを肩にしてザイデングラードを登った。穂高岳山荘で大休止、登山者も少なく閑散としていた。
秋晴れの奥穂山頂は、誰一人いなかった。しばらく眺望を楽しんで涸沢に戻った。
涸沢で連泊する予定だったが、時間が早かったので徳沢園のテン場まで下りることにした。

芝を敷き詰めた徳沢園のテン場に辿り着いた頃、すでに辺りは薄暗くなり始めていた。
広々としたテン場は、我々のテントだけで貸切の状態だ。今ではおそらく考えられないことだろう。
翌朝明神池に立ち寄り、岩魚の塩焼きに舌鼓を打った。そして上高地の喧騒を避けるようにバスに乗り込んだ。

 天狗山荘(北アルプス・後立山連峰) 1996年7月

白馬大雪渓を青息吐息で登り終え、白馬山荘で昼食。
食前酒のつもりで生ビール(山小屋で生ビールは驚き)、一杯のつもりがもう一杯挙句の果てに日本酒まで飲んでしまった。
空荷で白馬山頂へ。ほろ酔い気分で稜線散歩、ここまでは良かった。

再びザックを肩にして天狗山荘へ。酔いから覚めて現実に、杓子岳から白馬鑓ガ岳と白馬三山を踏破した頃にはダウン寸前。
小さな雪渓の向こうに小屋を見つけたときの喜びは今でも忘れられない。
良く踏まれた雪渓のトレースをしゃがんで歓声を上げながら滑り降りた。

小ぢんまりとした山小屋だか、夕食はさすがに北アルプスの山小屋で美味しい。
不帰のキレットを控えているためか?盛夏の週末なのにゆったりと休むことが出来た。

男女5人の混成パーティが互いに助け合って天狗の大下り、少々スリリングな不帰のキレットを越え、八方尾根に下りた。
立山、剣岳を眼前に稜線山行を満喫した。

 荒川小屋テントサイト(南アルプス) 1996年8月 

荒川小屋は荒川岳と赤石岳を結ぶ主稜線の鞍部に位置する。
三伏峠から高山裏避難小屋を経て2日目、荒川前岳のお花畑の斜面を疲れた体に鞭打って辿り着いた。
テントサイトは小屋の周辺に点在し、この風景はいつ見ても心安らぐ。

新しい小屋を建築中で覗いてみれば真新しい床が敷かれ完成間近なようだ。
縦走路のすぐ脇にテントを張り、1人シュラフに潜り込む。混み合う小屋を思えば狭いながらも快適な空間だ。

夜明け前からテント前が何やら騒がしい。何ぞやと覗いて見れば、三脚を立てたカメラマンが数人夜明けを待っていた。
ここは小屋周辺では小高い所に位置していて最も眺めが良く、日の出の好展望台になっているらしい。
夜明け前の薄明かりの中に富士山が雲海に浮かんでいた。

カメラマンが姿を消すと、今度は早出の登山者が赤石岳方面に忙しく歩き始める。
高山裏避難小屋からずっと一緒だった単独行の若者と赤石岳を目指す。
小赤石岳付近でヒナ鳥を連れた雷鳥を見た。鳳凰三山で見て以来2度目だ。

この後、台風接近に伴い天気が崩れた。こんな天候の時に雷鳥を見かけることが多いと言うが、真実のようで何羽も出会った。

 大無間山(南アルプス深南部) 1997年5月

井川ダムの上流に田代集落がある。ここも静岡市内と聞けば皆驚くことだろう。
この山行は、諏訪神社の水場で給水することから始まった。山頂直下の水場はあてにならないためだ。

P4からP1(小無間山)の鋸状のピークが連続する。所々にガレ場があらわれ、足場が悪い。
加えて森林限界未満の大無間山は、どこまでいっても原生林が広がる森林帯。
疲労困ぱいで小無間山頂に立つ。木立の間に広がる小さなスペースに幕営だ。
今宵も誰一人としていない山頂で寝袋に潜りこむ。夜半、強い風が木立を揺さぶるが、テントは不思議なほど静かだった。

テントを抜け出し、サブザックで大無間に挑む。
日影の樹林帯には残雪が多い。トレースが無く古い足跡をたどりながら進むが、不用意に足を踏み入れると5・60cm程踏み抜いてしまうこともしばしばだった。
途中、光岳から大根沢山の難路を縦走してきたと言う単独行者に出会った。鋸刃を越えて田代に下りると言う。
大無間山山頂は、1等三角点の標石が置かれ小広い草原になっている。雑木の間から南アルプス南部の光岳や聖岳が僅かに見え隠れしていた。

 所ノ沢越(南アルプス深南部) 1997年6月

畑薙第一ダムから中の宿を経て笊ガ岳を目指した。
所ノ沢越から布引山の深い藪に加え不明瞭の踏跡に敢え無く敗退し、所ノ沢越の水場でテント泊となった。
細い流水の脇に整地されたテントサイトが2・3張。テントを張り終え一休み、物音に振り返ると大きなカモシカだった。
藪漕ぎ敗退の疲れも手伝って泥のように眠った。

1泊2日の山行中、誰一人会うことは無かった。南アルプス深南部の醍醐味かもしれないが、単独行には甚だ心細い。
青薙山から稲又山の森林帯で踏跡不明瞭でいつのまにかまたしても迷子。尾根に上がって現在地を確認し、稲又山に到着。
原生林を1日中1人占め、そして大井川林道をまたしても延々と歩く。2日で40km余り、こんな経験簡単には出来ないと自分を慰める。

笊ガ岳は前年1996年にも挑戦(山梨県雨畑側)したが、布引山で敗退している。
東海フォレストが椹島より登山道整備したと聞き、近い将来笊ガ岳をもう一度目指してみたい。

 木曾殿山荘(中央アルプス) 1997年9月

木曾駒ガ岳ロープウェイで千畳敷に上がり、ザックを置いて木曾駒ガ岳をピストンして宝剣岳に向かう。
宝剣岳は意外と簡単に登れるが、それから先はクサリ場が連続しスリリングな岩場山行となる。

極楽平で一息入れて木曾殿山荘までの長い稜線(約10km)歩きが始まる。
途中、檜尾岳(2728m)・熊沢岳(2778m)・東川岳(2671m)のピークが連続し、悪場こそ無いが体力を消耗する。

東川岳を下り木曾殿山荘に辿り着き、宿泊者の多さに驚いた。宿泊の手続きを済ませ、缶ビールで喉を潤してから2階に上がった。
間仕切りの無い広いフロアを多くの登山者が埋めていた。足を伸ばすことも出来ないスペースに膝を抱えてうずくまり、夕食までの間仮眠をとった。
疲労と缶ビールの酔いで普段では考えられない格好だが眠れるものである。

3回に分かれて取った夕食が終わると、部屋の中二階に置かれた布団を広いフロア全面に敷き詰め、小屋番が読み上げる順番に寝床が決められた。
頭と足を交互にして1枚の布団に3人寝るのである。まるで盛夏の北アルプスの山小屋なみだ。
普段寝付きの早い私もこの時ばかりは、寝返りもままならぬ状態でなかなか寝付けなかった。

冷たい雨が降りしきる朝を迎えた。レインウエアを着こんで空木岳に向かう足取りは重かったが、山頂手前の濡れて足場の悪い岩場には神経を使った。
空木岳山頂で日本百名山を達成したという50代の男性が、同行の人達に祝福されていた。
百名山の賛否は意見の分かれるところだが、百座を登り終えたことに賛辞を送りたい。

ここから池山尾根の長い長い下山が始まった。