* 茶道(裏千家)稽古場*
直耕庵稽古風景
茶の湯は、心身ともに清らかなるを旨とし、茶室は、松風塵外の地なる故に
亭主は、露地、室内を清め、客は、蹲い手水にて心身を清めるなり.と言れて
います。
静かな蹲の水音、無言の迎え付け、合図の戸音、緊張の中での微かな
衣擦れの音、たぎる松風の音、交わす挨拶、全ては、その瞬間、瞬間におりなす
ときめきの綾に、深い想いを感じ、亭主の心入れの数々、しつらえ、
旬の味覚に至福の一時を過ごす、この喜びが何にも代え難い茶の湯の楽しさであり、
其れゆえに、又次なる茶会を心待ちするのでしょうか.
茶の湯の楽しさは、亭主6、客4分と言われていますが、人それぞれですね。
茶室、左上から、
[1]席入り前、外待合で、[2]亭主迎え付け、
[3]客順次中門を通って内露地へ、[4]蹲い手水、[5]にじり口より入室、
[6]貴人貴人口より、
[1]初入り、床拝見、この後、「懐石」
食事、中立ち、後入り、濃茶となる、
[2]亭主四畳半台目にて濃茶を点てる、
[3,4]お客順次濃茶を頂く、[5.6]茶室玄関前にて、[7.8]公民館稽古風景、
次の写真はJAL茶道部、茶会風景
茶道伝書にみる台子の考察
茶道史の本格的研究は昭和年代初期から始まったと言われている。
この過程で利休伝書と言われている一連の茶書が桑田忠親氏の史料批判によって偽書とされ、
今日に至るまでその影響が続いており、書状の類を除いては利休の茶道伝書は信憑性を欠く
ものとされてきた。然し、この伝書批判は真実、正しいか否か結論は未だ出ていない.
伝書の筆跡、語句を根拠にすれば、その通りかもしれない、然し、書かれた内容はどうであろ
うか、昔から専門茶人の資格証明の印とされてきた台子の記述にその視点をあてて利休伝書
の信憑性の検討を試みる事とする。台子は侘び茶には不要とされながら、台子の習得なくし
ては茶人たる資格なしとされて来た.その為極めて厳しい掟をもって、師から弟子へ、その
業を修めた証として伝承されて来た.其れはまた、公開も記録も禁じられた秘伝である.
(正式には)然し個人的には備忘録として、多くの人々によって書き留められて来た事も事
実である。それ等が今日、利休伝書として残されていても不思議ではない。利休以前の伝書
で詳細な点前の記述が確認されるものは、其れほど多くはない.当時は台子が一般的であり、
侘び茶への移行が模索されながら流動的であったと考えられる、その主なものを上げると
「君台観左右帳記」「相阿弥茶湯書」1533年から「松屋会記」が始まる.利休は1540年に紹鴎
に入門しているので1548年「天王寺屋会記」が書き始められた頃は修行の時期であったと考え
られる.1549年「紹鴎袋棚の記」1554年「茶具備付集」翌年「池永宗作茶書」「紹鴎侘の文」
「紹鴎双六の文」「四本台子天目の伝」が現れ、紹鴎没する.1560年、山上宗二が利休に入門
しているので、この時代の記述が利休壮年期の茶の湯の姿と推定される.1564年「分類草人木」
が編纂され、1567年「習見聴諺集」1572年「烏鼠集」が書き始められている.利休の名が見え
る伝書が現れるのが1573年(天正元年)「南坊宛伝書」からである。以後「左分宗二宛伝書」
「薮内紹知宛伝書」「野村宗覚宛伝書」「利休台子かざり様之記」「利休客之次第」「利休一枚
起請文」「木村攝津守宛伝書」「木村常陸介宛伝書」「松江宗徳宛伝書」「台子伝書」「盆点
伝書」等23種の伝書が1591年(天正19年)千利休歿するまでの主な伝書であるが、「烏鼠集」
は後に書き加えられたものなので除外し、利休全盛期の台子記述を詳細に検討してみると、
これら伝書には後に現れる「草人木」や「南方録」に見られる様な複雑な台子飾りの記述はな
く、集約すると、真行草、即ち七飾り、五飾り、三飾り、の三態と円盆飾りと言れる特殊飾り
に大別される。其れまでの華やかな書院での台子飾りは利休時代に簡素化され、侘びちゃへの
深まりが強くなっていった事の現れと見る事が出来る.これら伝書は利休の自筆ではないが、
内容から茶人が密かに書きとめ、大切に残した利休の伝である事は疑いない。とは言え台子
の点前は秘伝である、これらは断片的で、茶人以外には理解出来ないものである。完全な形
で書き残されるのは、18世紀初頭の「貞要集」である。時代は安定期に入り、武家主導の社会
では、格式を重ずる茶道も必要であった。其れに伴い、茶の湯も変わって行ったのである。
武家では武道と同じ様に茶道も完全相伝の形態をとっていったことにより、茶の湯点前も
少しずつ変化しながら、幕末には、各藩、夫々無数の流派が出来あがつていた。維新を迎え
武士の崩壊と共に、これら茶道も運命を共にする結果となった為、特殊な武家茶道流派を除き
殆ど消えていった。この様な経過をたどる、武家茶道の初期に現れたのが公版「草人木」であ
る.「草人木」は今日までの研究では、編者不明の著書であると同時に版行された茶書として
は最初の物である。ここで疑問に思う事は、この「草人木」で秘伝とされる台子飾りが公に
版行された事、利休伝書の台子飾四態から一挙に24の飾りとなつている事である。この事は、
この「草人木」が編者不明と無関係ではない。この「草人木」の台子飾りの記述が伝統の秘伝
のもので無いとすれば、公に版行されたとしても不思議ではない.この「草人木」の版行に
前後して、この「草人木」の台子飾りの記述と殆ど同じである、古田織部の茶書「古織茶湯書」
がある.もっとも、この書は織部自筆のものでは無く、また、他の織部の茶書とも赴きを異に
している書であるが、これらの事から「草人木」は織部の流れを汲む者が茶道の一般への普及
とその要請から新しい茶の湯を志向して編纂したもので、台子飾りは只たんに重みをつける為
に敢えて伝統を外して書かれたものであると見る事が出来る。「草人木」版行から60年後、同様
にして「南方録」が現れる。「南方録」の台子は「草人木」台子飾りの約2倍の50飾りとなる。
武家茶道の完全相伝では、伝授を受けた者が伝授者即ち家元となるので新しい工夫を凝らす事
となる.その際、時代が下がるに従い、出典根拠を「草人木」や「南方録」に求めたのである。
「南方録」は利休の茶の心を伝える上では、利休の伝書であることには間違いはないが、
「南方録」そのものは立花実山の創作である事は今日の研究者が一様に認めている所である.
利休時代の台子点前をよく伝えるものと考えられている「貞要集」は台子の秘伝を身体で習得
し、口伝で伝授する掟を武人の頭領の資格において、記録で残すことを行った数少ない伝書で
ある.この伝書は利休に茶道を習った高橋玄旦がその業によく耐えたとして、有楽公に召抱え
られ、京都では祇園の玄旦と称され、台子の伝者では右に出る者がいないと言われた.その
玄旦が存命中、貞置公に伝授された台子の法を貞置公から松本見休が直伝を受けて書いたもの
とされている.今日見られる伝書のなかでは極めて内容の整ったものである.この伝書の台子
点前を一つのモデルとして、各種の伝書の比較検討を行った.これより本論に入る事になるが、
極めて興味ある結果が得られた.既存の茶道史書に見る見解、解説と実際行われている各流各
派の点前との接点がより克明に明らかになるが、発表は次の機会に譲る事にする。
osa1
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