ケルンテン・グリューネラント史

1.古代

1-1.カルニ人の時代

 現在ケルンテンと称されている地域が歴史上に登場してくるのは、紀元前6世紀の事である。この頃、ケルト人の一部族であるカルニ人がこの地に定住し、部族国家ノリクムを作ったとされている。そもそもケルンテンという地名は、ラテン語の『カルニ人の土地』に由来したものである。
 やがて紀元前4世紀頃になると、ケルト人は南からやってきた新興勢力・ローマと対立するようになる。当初は遥かに優勢だったケルト諸部族は、一時はローマ市内にまで侵入した。が、次第に勢力をたくわえ、本格的な反抗作戦を展開しはじめたローマ軍の前にじわじわと追い詰められてしまう。いわゆるガリア戦記である。
 ノリクム(ケルンテン)もまた、これらの戦乱と無縁ではいられなかった。しかもローマ人と同時に、後に西ローマ帝国を滅ぼすゲルマン人という強力な敵から、一度に狙われる事となった。このノリクム王国に、ケルト人部族に圧迫されたゲルマン人の一派、キンプリ族とテウトニ(チュートン)族が、ユーゴスラビア方面からノリクムの東南側の国境に対して侵入を開始したのだ。紀元前113年~101年のことである。残念ながらこの時、ノリクムがどの様な事になったのかは歴史に記されておらず不明である。ただ判っているのは、かの地にローマ軍団が派遣されたという事実だけである。現在のエステンドとブラウフリューゲル付近は当時、ローマの支配地となっており、この地域がローマの絶対防衛線になっていた為である。ローマ軍とゲルマン連合軍は、紀元前113年、ノレイアで会戦した。苦戦の末、ゲルマン連合軍は敗北し、ゴートイェーク以北へと撤退した。
 その後ケルト人は、次第にローマとゲルマンに圧迫されて勢力を失っていった。ノリクムもイリュリア州としてローマの属州の一つに組み入れられてしまい、ゲルマン人に対する防御壁として機能することになる。
 そして2世紀末、ローマ帝国の衰退によってイリュリア州は放棄された。以降ノリクムの地はゲルマン人の進攻に曝される事となった。


2.中世

2-1.ノルトケルン人の入植とケルンテンの誕生

 ノリクムへ移動してきたゲルマン人の中に、ノルトケルン人と呼ばれる部族が存在していた。この部族は北方ゲルマン人に属しており、もともとは現在のノルウェー付近に居留していた。8世紀後半、ノルトケルン人は突如、部族ぐるみ全員、農機具から生活道具までを船に積みこみ、女子供まで含めた大艦隊をつのって、新たなる新天地を求めて移住を開始したのである。当然只ならぬ事態が発生したものと思われるが、移住理由については歴史に記されていない。
 ノルウェーを出奔した彼らの艦隊は、ユトランド諸島、オークニー諸島、アイルランドを経由して南下、イベリア半島を大きく迂回した後、ジブラルタル海峡を抜けて地中海へと達した。そしてイタリア半島を回りきった彼らは、やがてナハトブラウ河を遡り、彼らの船ではこれ以上進めないという地点(現在のヴァルデガルト)まで来ると、この地に定住する事とした。この地には先住民族(おそらくケルト人とゲルマン人の混血)がいたが、ケルンテンの伝説では先住民とノルトケルン人は平和裏に融合したとされている。しかしノルトケルン人が支配者層となっている事から、実際には武力制圧が行われたものと思われる。
 ノルトケルン貴族たちは、まだほとんど手つかずであった広大な森を伐採して開拓を進め、ヴァルテガルトの他、ディンツブルクやギルドゥーツ、ラヴァンタールといった都市を建設する。こうして、ついにはナハトブラウ河に沿って水運都市国家ケルンテンが出現した。


2-2.アルヌルフ・フォン・ケルンテンとケルンテン公国の成立

 9世紀になると、他のゲルマン諸部族と同様、ケルンテンもまたフランク帝国に恭順の意を表した。そうしなければ、東方のスラブ人やマジャール人対抗できず、誕生したばかりのケルンテンに生き残る術は無かったためである。
 フランク帝国ではカール大帝の死後、後継争いが発生した。この結果、フランク帝国は843年のヴェルダン条約によって、西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国へと三分割される事となった。この条約によってラヴァンタール以南とブリクシアは中フランク王国に、それ以北(現グリューネラントを含む)は東フランク王国の辺境領へ組み入れられた。
 そんな中、ケルンテンに一人の偉大な王が現れた。アルヌルフ・フォン・ケルンテンである。
 彼が生まれたのは、今日のナーベルブルクのあたりだった。彼はカール大帝から数えて四代日の子孫にあたり、東フランクの初代王「ドイツ人」ルードヴィヒの孫にあたる。彼の父カールマンは、バイエルンおよび南東辺境領(ケルンテン、グリューネラント、アヴァール)を領しており、アルヌルフもまたそれらの地域の支配者だった。
 とはいえ、あくまで封建的な支配体制だから、直接彼が治めていた土地はほんのわずかで、あとは在来ノルケルン豪族のものだった。アルヌルフはノルトケルン豪族たちに呼びかけて、当時はただただ広大な森が広がっているだけだった北の地へと植民団を送り込んだ。そこで開墾した土地は、ノルトケルン豪族と彼とで二分する約束をかわした。こうしてノルトケルン人の土地は、ドナウ川を越えてチェリンク山脈の南にまで広がったのだった。グリューネラントの誕生であった。
 この業績が評価されて、887年、全ドイツ系部族およびノルトケルン人から推挙され「ケルンテン人」アルヌルフは東フランク国王となった。さらに彼は他の王たちに宣誓を行わせ、896年にローマ教皇フォルモススにより帝位を授かった。全フランク帝国の皇帝となったのだ。

 ところが、皇帝となったアルヌルフがケルンテンを離れている間に、ケルンテンへはハンガリーからマジャール人が大挙して侵入してきた。アルヌルフはすぐさまケルンテンにとって返したかったが、皇帝ともなるとなかなかそうも行かなかった。
 このとき、アルヌルフに代わってノルトケルン豪族を指揮したのが、アルヌルフの「忠実な部下にして無二の親友、高名なる詩人にして勇敢な戦士」のノルトケルン人、ザックスであった。彼は、自軍より数倍する騎馬戦士たちを相手に、アルヌルフが戻ってくるまでの半年間を戦い抜いた。
 軍勢を引き連れて帰還したアルヌルフは、ザックスと力を合せてマジャール人を撃退したが、激しい戦いの末、ザックスは壮絶な死を迎えた。アルヌルフは嘆き悲しみ、ザックスの息子を公爵(ヘルツォーク、ゲルマン語で「戦争王」の称号)に任命し、その一族にケルンテンの支配権を保障した。これがワルトシュタイン家のはじまりだとされている。
 この際、現在のラヴァンタール以北のエステンド、ミッテルケルンテン、南ゴートイェーク、そしてドナウ川以北の(現)グリューネラントをケルンテン辺境領とし、これが公爵となったザックス2世へと与えられた。ケルンテン公国の成立である。なお当時、ギュルテンシュタインは東フランク本国、エステンド南東部とブラウフリューゲルとブリクシアはイタリア王国(855年に中フランク王国より分裂)に属していた。また、この時点ではまだ、グリューネラントはケルンテンの一部とみなされていた。
898年当時のケルンテン領とグリューネラント領


2-3.グリューネラントの独立

 皇帝となったアルヌルフであるが、先の戦いで受けた傷によって、早くも900年に亡くなった。東フランクの王位を継いたその息子、ルードヴィヒ「小児王」は、父ほどには国内を治めきれずに、内乱による国力の弱体化を招いた。その結果、ザクセンやバイエルンといった部族公国の独立化をうながすことになった。
 やがて911年、ルードヴィヒが死去すると、東フランク王国内にはもはやカール大帝の血を引くものがいなくなってしまい、東フランクは本格的に「ドイツ」としての道を歩みはじめた。
 一方、ケルンテンは依然として辺境領の地位にとどまっていたが、度重なるマジャール人やスラブ人の侵攻を撃退し、この頃にはすっかり独立した勢力に成長していた。しかもケルンテンとグリューネラントは、ドナウ川をはさんでそれぞれ独自の道を歩みはじめていた。マジャール人との最後の戦いの場となった955年のレヒフェルトの戦いや、スラブ人と雌雄を決したレクニッツの戦いでは、ケルンテンとグリューネラントはそれぞれ「盟友」として東フランク軍へ参加した。
 そして962年、神聖ローマ帝国の誕生とともにケルンテン公領とグリューネラント侯領はそれぞれ独立地域としてオットー大帝に承認された。グリューネラント侯国の成立である。なお詳しい記録は残されていないが、どうやらこの際にギュルテンシュタインがケルンテン領として編入された様である。
962年当時のケルンテン領とグリューネラント領


2-4.騎士の時代

 ケルンテンとグリューネラント、同じ民族によるこの2つの国家は、三十年戦争の終結する1648年に至るまで、それぞれ独立した勢力を保ち続けていた。とは言うものの、両者の境目は曖昧であった。国と言っても、今日のような国家とは違い、その土地を治めている領主たちが、それぞれ別々の王を主君としているだけで、その土地のすむ大多数の者にとっては誰であろうと関係の無い話であった。そのためお互いに、単に「川の向こう岸とこちら岸」という意識を漠然と持っていたに過ぎなかった。
 だが11世紀になると中世の暗黒時代も終わり、マジャール人やスラブ人といった外敵の侵入がなくなると、人々の目は国内へと向き始めた。戦いが少なくなったことにより、人々は生産力向上のため開墾を重視する様になった。そのため自然と、戦いは訓練された専門の人々のみが行なうことになり、それ以外の人員が駆り出されることは滅多になくなった。騎士の時代の到来であった。
 1095年、時の教皇ウルバヌス2世は、クレルモン会議にてエルサレムをイスラムから奪還する十字軍の必要性を説き、西欧各地から騎士たちが馳せ参じた。ケルンテン・グリューネラントにおいても、ディンツブルク伯ブリキール、ニャウクター伯ギルベルトの元に集結し、これに参加した。十字軍の遠征は3年にも及びエルサレムの奪回には成功したものの、熱病などで多数の死傷者が発生した。その一方で後のウービルトにその名を残す英雄ギルベルトの逸話なども誕生している。
 1156年にオーストリアが公領に昇格し、1158年にはベーメン王国が成立すると、硅緑両国は神聖ローマ帝国の南東のかなめとしての役割を終え、しばらく安定した時代が続いた。


2-5.ブリクシア併合

 15世紀末、イギリス・フランス・イスパニアといったヨーロッパ諸国が絶対王政のもとで強大化していく中、イタリア半島は大小数多くの国家に分裂し、互いに勢力争いを繰り広げていた。
 1494年、フランス王シャルル8世は、ナポリ王国の王位継承権を主張して、イタリア半島へ侵入した。イタリア全土を席捲したフランス軍の脅威に対し、時の教皇アレッサンドロ6世はミラノ公国、ヴェネチア共和国、イスパニア王国、神聖ローマ帝国との間に対仏大同盟を結成、これに対抗した。
 この時、神聖ローマ帝国への参加条件として、ヴェネチア共和国とケルンテン公爵領の狭間にあったブリクシア共和国の併合が認められた。これにより勅令を受けたケルンテン軍は、各国の黙認のもとにブリクシアへ侵攻し、これを併合した。併合後の統治は、ケルンテン公爵へ委任された。事実上のケルンテン公国によるブリクシア共和国の併合であった。
 当然、共和制の下で自由を謳歌していたブリクシア人は、この併合を受け入れず、統治のために派遣されたケルンテン貴族に対して武装蜂起を行った。しかし1496年を境に、ブリクシア人による抵抗は突然に姿を消した。その原因は全く不明であるが、以来ブリクシアの人々は従順にケルンテン貴族に従い、やがて彼らは公爵家への忠誠において、並び称される者がないとまで言われるようになった。
1494年当時のケルンテン領とグリューネラント領


2-6.宗教改革と民族分裂

 1517年に始まったルターの宗教改革は主に神聖ローマ帝国の北部でその信者を獲得していった。しかしカトリックを支持する神聖ローマ皇帝とルター派の諸侯との間で対立が発生した。
 この対立は1555年の「アウグスブルグの和議」によって決着されたが、その内容は個人の信仰を認められず、都市もしくは領主がカトリック(旧教)かルター派(新教)かの信仰を選択すると言うものであった。この和議に基づいてグリューネラントは新教へと移行した。これは、ノルトケルン人がケルンテン人とグリューネラント人へと分かれる発端であった。またこの和議では、ケルンテンとグリューネラントの自治が改めて認められた。


2-7.三十年戦争とヴェストファーレン条約

 1618年、ボヘミア(ベーメン)にてプロテスタントによる反乱をきっかけとして三十年戦争が勃発した。この戦争はカトリック対プロテスタント(カルヴァン派含む)という宗教対立で始まったが、ハプスブルク対反ハプスブルクへと様相を変化させていった。そして三十年戦争はハプスブルク家の敗北により、ヴェストファーレン条約の締結によって終結した。
 このヴェストファーレン条約によってヨーロッパの体制が大きく変わり、ケルンテン・グリューネラントでも大きな変化があった。グリューネラント侯爵領がケルンテン公国へと吸収されたのだ。ケルンテンは旧教であり言わば負けた側、そしてグリューネラントは新教であり言わば勝った側であるはずであり、この措置は奇異に感じられるかもしれない。だが、時のケルンテン公爵ルーツィウス1世の施策により、上手く戦勝国側へ潜り込めた様だ。
 これ以降ケルンテンでは1748年まで、ウィーン的宮廷文化の全盛期となった。


3.近代

3-1.立憲君主制への移行

 オーストリア継承戦争が終結した1748年に、ケルンテン公国は大きな転機を迎えた。進歩的な啓蒙君主であった時のケルンテン公爵であるルーツィウス2世は、この年に立憲君主制(ただし、不文憲法)への移行を行った。そして1750年には公国会議が成立した。
 この施策によりケルンテンでは暴力的な市民革命が発生せず、平和裏に発展していった。


3-2.フランス革命とケルンテン独立

 1789年、フランスで革命が発生し、同国は王制から共和制へと移行した。そしてフランスは、革命を周辺諸国へと輸出するために、各国への侵略を開始した。1800年にケルンテンはこれを阻止するためにオーストリアと共に出兵したが、「マレンゴの戦い」で敗北した後は中立を標榜して一切の干渉を行わなかった。ただ、1806年にドイツ(神聖ローマ)帝国が解消された際にだけは、諸外国へ向けてケルンテン公国の独立を宣言した。
 そして1814年、フランス帝国(1804年に帝制へ移行)の敗北により戦争は終わり、新たなヨーロッパ体制を確立するための会議がウィーンで開催された。このウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」の言葉で有名な様に、各国の利害が入り組んだために遅々として進まなかった。しかし1815年3月にナポレオンが幽閉されていたエルバ島を脱出した事を受けて各国が妥協し、6月にウィーン議定書が締結された。
 このウィーン会議においてケルンテンは、「マレンゴの戦い」においてオーストリア側として出兵した事を根拠に、戦勝国であると主張した。そして時のケルンテン宰相セバスティアン・バウアーはオーストリアの名宰相メッテルニッヒと一騎打ちを演じ、遂にスイスと共に永世中立国の地位を勝ち取った。
 以降1848年までは、ウィーン体制下における平和な時代がつづいた。これはビーダーマイヤー時代とも呼ばれ、ケルンテン・グリューネラントの「古きよき時代」の代表となった。


3-3.ケルンテン併合

 1848年、オーストリアの支配下にあったイタリアの各地で革命が勃発し、ヴェネチアではヴェネト共和国が建国された。さらに革命派の各軍がサルディニア王カルロ・アルベルトの元へと集結し、オーストリアに対して宣戦布告を行った(第一次イタリア統一戦争)。
 オーストリアはこれに遠征軍を送り込むが、この際に策源地とするためケルンテン公国の併合を行った。この併合条約の調印はラヴァンタールにて行われたため「ラヴァンタールの和約」と呼ばれるが、ケルンテン国内では「ラヴァンタールの屈辱」とも呼ばれている。
 これによりケルンテンは独立を失った。だがオーストリアはケルンテンを策源地として機能させるために、同地に対して多大な資本投下を行った。このため、ケルンテンの社会資本は、併合前と比較して大幅に整備されていった。


3-4.普墺戦争とケルンテン分離独立

 1866年、普墺戦争にてオーストリア・ハンガリー帝国が敗北した事により、中欧のパワーバランスに変化が生じた。この変化を察したケルンテン公爵エルンスト1世は積極的な外交を行い、プロイセン王国の後ろ盾を得て1870年に独立を達成した。
 この時締結された「マインファルケン条約」は、以下のような内容が含まれていた。
 これは、アドリア海への足がかりが欲しいプロイセン王国の対フランス政策と、南スラブの民族運動に対する分断政策を狙ったオーストリア帝国、そして独立を望むケルンテン公国による妥協の産物であった。なお、ここで言う「ブラウフリューゲル地方」とは、現在のブラウフリューゲル州にエステンド州の南東部を含んだものである。さらにケルンテン公国が自国を脅かしうる軍事力や海運力を持ち得ない様に、プロイセンとオーストリアによって陸海軍力に対する大きな制限が加えられていた。  しかしこの軍備制限は、国家予算の多くを社会資本へと注ぎ込むきっかけとなった。この資本投下によって鉄道網の整備、ドイツの技術導入、教育制度の充実、各種大学(ケルンテン国立大学、アルトリンゲン工科大学、ヴァルデガルト工科大学)の設立などが行われ、ケルンテン公国の経済を発展させた。
 そして殖産興業政策が断行され、急速な産業革命が行われた。また産業拡大に伴って増大する労働力需要を満たすため、日本を始めとする諸国からの移民の大幅な受け入れが行われた。
 1872年には、領土が南方へと拡大した事に対応して、ヴァルデガルトからラヴァンタールへの遷都が行われた。そして、新たに獲得した海岸を発展させる政策が採られ、港湾の整備による貿易の拡大や、海岸地帯への各種工場の誘致が行われた。
 これらにより、当時のケルンテン公爵エルンスト1世は「近代ケルンテンの父」と称される事となる。
図4.1866年当時のケルンテン領と北ドイツ連邦

3-5.ドイツ時代のグリューネラント

 北ドイツ連邦(1871年よりドイツ帝国)へ割譲されたグリューネラントであるが、元来はさしたる産業のない農業地帯であった。しかしドイツ帝国成立後にシュヴァルツヴァッサーで油田が注目され、資本投下が行われた。これによりグリューネラントはシュヴァルツヴァッサーの石油化学を中心として急速に重工業が発達した。


3-6.第一次世界大戦

 独立の経緯や技術導入などから見て取れる様に、19世紀末から20世紀初頭にかけてのケルンテン-ドイツ間は友好的なものであった。しかし1910年代入ると、ケルンテンはドイツから離れ、英仏露の三国協商へ接近する形で、外交政策を転換した。恐らく、イタリアの経済がドイツによって支配されてしまった事や、そのイタリアが三国同盟を結んでいながらフランス・イギリスへと接近していった事を見て、ケルンテン側にドイツへの不信感が生まれたものと思われる。

 そして1914年、サラエボで発生したオーストリア皇太子暗殺を発端とした第一次世界大戦(欧州大戦)が勃発した。ケルンテンは永世中立国であったが、オーストリア側からは親セルビア勢力というだけでなく、オーストリア=ハンガリー帝国内部の民族主義運動を煽る黒幕と見られていた。そのためオーストリア=ハンガリー帝国はケルンテン公国に対し、かつての領土ブラウフリューゲル地方の再割譲を要求する最後通牒を行い、ケルンテン政府がこれを拒否するとオーストリア軍はブラウフリューゲル地方へと侵攻した。
 マインファルケン条約により軍備に乏しいケルンテン公国はこれに抗しきれず、ナハトブラウ川以東を占領された。さらに1915年にはドイツ軍もドナウ川を渡り、南ゴートイェークへと侵攻した。またオーストリア軍もナハトブラウ川を渡り、イタリア国境にまで達した。危機的状況となったケルンテン公国は、三国同盟に加盟していながら英仏よりであったイタリア王国に対してオーストリア軍侵攻の危機感を煽り、ケルンテン-イタリア間での軍事同盟を締結する事に成功した。
 ケルンテンの同盟軍となったイタリア軍はケルンテン国内へと進出し、オーストリア軍をナハトブラウ川東岸へと撃退した。しかしここで、フランス戦線と同じく戦線が膠着した。だが膠着したとは言うものの死傷者だけは増大していった。ケルンテン軍は戦線を維持するために老人や少年までも戦線へ投入せねばならず、遂には女性兵までも投入される事態となった。

 1917年、この膠着状態に大きな転機が訪れた。革命により帝制を廃したロシアがドイツ帝国と単独講和を結んだため、東部戦線が消滅したのだ。ドイツは早速、東部戦線へ展開していた兵力をケルンテン戦線へと配置転換し、この戦線で一気に攻勢を強めた。これによりケルンテンは全土が制圧されるかに見えたが、ケルンテン側にも大きな転機が訪れた。予てから密かに開発されていた装甲戦闘猟兵が完成し、戦線へと投入されたのだ。この秘密兵器の活躍によりケルンテン軍は盛り返し、1918年11月の終戦時には戦前の領土を回復していた。


3-7.ヴェルサイユ条約とグリューネラント委任統治

 1919年、ドイツに対する講和条約としてヴェルサイユ条約が調印され、この条約でケルンテンの永世中立が改めて確認された。また、1870年以来ドイツ領となっていたグリューネラントについては、ザール地方と同様に、住民投票によって1937年に帰属を決定し、それまではケルンテンが委任統治を行うこととなった。こうしてグリューネラントは再びケルンテン公国へと組み入れられる事となった。
 またヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)とサンジェルマン条約(対オーストリア講和条約)が締結された事により、マインファルケン条約は失効した。このため以降ケルンテンは軍備に対する制約が無くなり、マインファルケン港も単独で利用できる様になった。
1919年当時のケルンテン領


3-8.女性の社会進出

 1919年、ケルンテン公国では女性の参政権が認められ、第一回普通選挙が実施された。また公職においても男女の完全平等が認められ、女性の社会進出が積極的に進められていった。これは、大戦の影響(戦死・戦傷)で男性の労働者人口が大幅に低下した事、そして同じく大戦で女性が男性と同じく兵役についた事から国民の中で性別によって能力が変わる事は無いという意識が生まれたためであった。
 このケルンテン公国における女性の社会進出は他国では例を見ないほどのもので、後には女性の航空隊司令や師団長まで誕生する事となった。


3-9.ゲルハルト・アイヒマンの失踪

 先の大戦で活躍した救国の英雄、装甲戦闘猟兵は自動人形職人であるゲルハルト・アイヒマンが開発したものであった。だがこのアイヒマン氏が1919年に突然、失踪した。氏には13名の弟子がいたが、装甲戦闘猟兵は氏の個人的な技術をもって製造されていた。そのため、残された弟子のみでは新たな機体を製造する事が出来なかった。
 事態の深刻性を理解した政府と軍部は莫大な予算を投入して、新たな装甲戦闘猟兵の開発を行った。そして1925年、何とか実用に耐える装甲戦闘猟兵「Gu-208Eエカテリーナ」が完成したが、その性能はアイヒマン氏が製造した機体とは比較にならないほど低下していた。


3-10.ケルンテン=グリューネラント経済ブロックの確立

 1929年、ニューヨーク証券取引所での株価暴落に端を発した大不況は、1931年にオーストリアとドイツの銀行が相次いで破綻したことで世界恐慌となった。これにより賠償金支払いやルール地方の占領などで弱っていたドイツ経済は、壊滅的な打撃を受けた。そしてドイツとの経済的結びつきが強かったグリューネラントにとっても同様であった。グリューネラント経済はケルンテン資本の投入によって何とか持ち直す事ができたが、結果としてケルンテンによるグリューネラント支配が更に進むこととなった。そしてケルンテン側から見ても、ケルンテン=グリューネラント経済ブロックが確立したため、グリューネラントを手放すことはケルンテン経済の破綻を意味することとなった。


3-11.グリューネラント住民投票

 1935年、ケルンテン政府は2年後に帰属投票を控えたグリューネラント地方で世論調査を行った。その結果は、ドイツ帰属が優勢であった。だがこの結果は、グリューネラントへの資本投下によって経済ブロックを確立していたケルンテンにとって、到底受け入れられるものでは無かった。そのため1936年にケルンテン政府は、住民投票の範囲を委任統治であるチェリンク、ジルヴァ、北ゴートイェークだけでなく、南ゴートイェークも含める事に決定した。これは「グリューネラント地方」を「現グリューネラント」(ドナウ川以北)では無く、10世紀にはその概念がなくなっていた「古グリューネラント」(グロイスター山脈以北)であると、強引に解釈した事によるものだった。
 このゲリマンダリングによって1937年1月に実施された住民投票の結果、僅差ながらケルンテン帰属が決定した。
 当然ながらこの結果に対し、親ドイツ的なグリューネラント北部では不満が鬱積していた。グリューネラント侯爵ヴィルヘルムは暴動を起こさぬ様に住民をなだめつつも、今回の住民投票は不正であるとして再投票を行う様、国際連盟と諸外国に対して働きかけを行っていた。だが侯爵は3月18日に自宅で急死してしまった。


3-12.硅緑内戦と両国の消滅

 1937年5月25日、ドイツの支援を受けたグリューネラント独立派がグリューネラント3州の主要施設を占拠した。そして27日グリューネラント侯女クリステル・フォン・フレーメファーネルがグリューネラント共和国の独立を宣言、同時に共和国臨時政府を樹立し、同国元首へと就任した。そしてドイツはグリューネラント共和国の独立を即日承認した。なおこれを食い止めるべき警察や軍は、26日の時点で既に共和国への恭順を示し、共和国警察と共和国国民軍へと変貌を遂げていた。このグリューネラント軍は、同国の経済力では到底考えられないほど充実した装備を有していた。これは、かねてからドイツが秘密裏にグリューネラントに対して装備の有償供与や、ドイツ国内での軍事教練などを行っていたためである。これらの準備は住民投票の結果が出てからでは到底間に合わない。つまりドイツは、住民投票の如何に関わらずグリューネラントを自国圏へと組み入れるため、少なくとも1935年頃から準備を行っていた様である。
 こうして硅緑内戦(またはグリューネラント独立戦争)が勃発した。
1937年5月27日当時のケルンテン領とグリューネラント領
 グリューネラント軍は6月3日に南ゴートイェークへ進撃し、瞬く間に同州を制圧した。その後は態勢を立て直したケルンテン軍と一進一退の攻防が続いたが、ミッテルケルンテン-南ゴートイェーク州境附近で戦線が停滞した所で、1937年が暮れた。
 1938年1月には、グリューネラントは外交で大きな成果を挙げた。国内の共産主義勢力を容認する条件で、ソビエト連邦から独立の承認を得たのであった。だがこれは、後に大きな禍根を残す事ともなった。
 1938年になるとグリューネラント軍の勢いが増し、一時は戦線がエステンド州にまで達した。しかし国力に乏しいグリューネラントは攻勢限界に達し戦線が崩壊、ドナウ川北岸にまで急速に後退していった。だがケルンテンも相次ぐ壊走、都市部の戦災、通商破壊などの影響で満身創痍であった。そこで両国首脳部は水面下で接触し、そして1938年6月16日にドナウ川に浮かぶ船上での講和会議が実現した。だがこの講和会議は、両国元首の承認を得ていないどころか、上奏すら行われていなかった。
 が、元首の承認などが些事となる重大事件が発生した。翌17日に新型爆弾がケルンテン公国首都ラヴァンタールへ投下されたのだ。新型爆弾の威力は絶大で、同市は壊滅し20万の市民と共にケルンテン公と同国首相は死亡した。事態は講和会議どころではなくなり、暫定として休戦協定が結ばれた所で閉会となった。

 その後の両国は、転がり落ちていくのみであった。
 まずグリューネラント共和国であるが、義勇軍として参戦していたドイツ軍事顧問団に対して、共和国軍の第1師団が攻撃を行うという事件が発生した。先日の無断での講和会議、そして今回の自国民に対する攻撃に激怒したドイツは、全債務の返済(現実には返済不可能な額)か領土の大半を割譲と、残った領土の保護国化を要求する最後通牒を行ってきた。グリューネラントは、途中でクーデター部隊による首都制圧などがあったが、クーデター鎮圧後に最後通牒を受諾した。これによりグリューネラントの国土はチェリンク州を除いてドイツへ併合され、残された国土も主権が大幅に制限されたドイツの保護国となった。

 次にケルンテン公国であるが、南ゴートイェーク以北の割譲、軍備制限、鉱山の採掘経営権の委譲、水運通商権の委譲、ドイツ政治顧問団の受入といった最後通牒がドイツ・イタリアの連名で突きつけられた。が、首都壊滅と国家元首の死去により、ケルンテン国内は分裂状態であった。
 まず講和会議へ参加していた有力政治家がヴァルデガルトにて臨時政府(ヴァルデガルト政権)を立ち上げたが、新首相へ選任された(議会第1党である)国会社会主義労働者党党首に被選挙権が無い事が判明し、国民の支持を失う事となった。またこの臨時政府も、国家社会主義労働者党がマインファルケンへの遷都とイタリアへの併合を主張して同市へ移動し事実上分裂した(マインファルケン政権)。なお、軍部はヴァルデガルト政権を支持していた。
 そして廃墟となったラヴァンタールには突如、前ケルンテン公爵ゴットハルト2世の御落胤を称する人物が現れ、ケルンテン正統政府(ラヴァンタール政権)を宣言した。このラヴァンタール政権は具体的な政策などなかったが、何故か貴族や国民の支持を得ていた。だが後のケルンテン公国消滅のさいに雲散霧消した。
 さらには、前ケルンテン公爵ゴットハルト2世の嫡子カール・ヴィルヘルムを捕虜としたグリューネラント軍第204師団(ただし、師団長はドイツ人)が、カール・ヴィルヘルムこそがケルンテン公爵であり国家元首であるとしてケルンテン正統政府を宣言した。しかし、カール・ヴィルヘルムが同師団より脱出したため、この政権も消滅した。
 結局、どの政権も最後通牒を(結果的に)拒否する事となり、回答期限を過ぎた9月15日にドイツ軍が一斉にケルンテン領内へと侵攻してきた。硅独戦争の勃発である。9月25日には更にイタリア軍もケルンテン領内へと侵攻した。だが衆寡敵せずケルンテン軍は圧倒され、ヴァルデガルト政権はスイスを経由してイギリスへ脱出し同地で亡命政府を樹立した。10月5日にはケルンテン軍総司令部が組織的抵抗を放棄した。
 そして10月14日には国内に残ったマインファルケン政権がローマ条約に調印し、ケルンテンはイタリア(ブリクシア州とブラウフリューゲル州)とドイツ(その他)にて分断統治される事となった。ケルンテン公国の消滅であった。
1938年10月のドイツ領・イタリア領・グリューネラント領


3-13.第2次世界大戦

 1940年、ドイツはポーランドへ侵攻し、一月に満たない期間で全土を制圧した。これに対しイギリス・フランスは侵攻直前に結ばれた軍事同盟に従いドイツへの戦線を布告した。第二次世界大戦の勃発である。だが英仏そしてドイツとも自軍の整備を優先したため戦闘はほとんど発生せず「ファニーウォー」と呼ばれる時期が続いた。
 1941年、ドイツは北欧のデンマークとノルウェーへ侵攻した。その翌月にはオランダ・ベルギーへ侵攻し、続いてフランスへと侵攻した。フランス軍は国境での陣地戦を想定していたが、ドイツ軍の電撃戦へ対応できずに崩壊し、フランスは屈辱的な休戦協定を結ばされた。この際、ダンケルクへ撤退していた英仏軍の大部分がイギリスへの脱出に成功していた。
 次の戦いは英本国上空で発生した。イギリス本国侵攻作戦に先立つこの一大爆撃は、ケルンテン併合によって手に入れた長距離戦闘機Se32ファルケとHe100G-1ローエングリンの活躍でドイツ側の優位に進んだ。だが空爆だけではイギリスを屈服させる事はできなかった。
 そこでドイツはイギリス本国への上陸作戦を実行するために、イギリス本国海軍の撃滅を狙った。1942年初頭、ドイツは英海軍の拠点であるスカパフローへ新型爆弾を投下し、英本国艦隊の拠点は消滅した。この新型爆弾の威力にイギリス国民は恐怖し、1942年3月にイギリス本国は降伏した。
 だがイギリスは諦めていなかった。チャーチルを首班とする内閣はオーストラリアへ亡命し、英連邦諸国家は対ドイツ戦争の継続を決意した。旧ケルンテン・グリューネラント領内で活動するレジスタンスから新型爆弾製造の情報を入手していたイギリスは、事前に生産ラインを英連邦の各国へ分散し、海軍も世界中へ分散させていたのだ。なおケルンテン亡命政府もイギリス政府と共に、オーストラリアへと移動した。
 ドイツは次にレーベンスラウム構想に基づき、ソ連へと宣戦布告した。ドイツ軍は当初、破竹の勢いで進撃したが、例年より早い冬の訪れにより進撃速度は鈍り、モスクワを目前にして停滞した。
 一方アジアではイギリスとフランスの降伏を受け、日本が東南アジアの英植民地制圧を目論んでいた。日本は仏領インドシナ、ビルマ、マレー半島、シンガポールと制圧していった。しかしこの間、アメリカは露骨な対中対英連邦支援と対日経済制裁を行い、日米関係は日本が対外進出戦略を転換しない限り、開戦が避けられない状態となった。1943年春に日本はハワイの真珠湾を襲撃し、日米戦争が勃発した。だがアメリカはドイツ打倒を第一目標とし、太平洋方面は持久戦とした。
 同年、英連邦=アメリカ連合軍はアレキサンドリアを拠点として対枢軸反攻作戦を開始した。リビアへ侵攻した連合軍はイタリア軍を一蹴し、北アフリカを席巻した。これに対しドイツは、このまま連合軍がイタリアまで侵攻してくることを懸念し、ドイツ・アフリカ軍団の派遣を決定した。これにより北アフリカの戦局は一進一退を繰り返したが、ソ連方面へ戦力を割かなければならないドイツ軍は地中海の制空・制海権を握れず、北アフリカへ十分な補給を行うことができなかった。そのため枢軸軍は最終的に北アフリカから撤退する事となった。
 一方ロシア戦線でもドイツ軍は苦戦を強いられていた。そこでドイツは事態打開のために新型爆弾の使用を決断した。しかし、旧ケルンテン・グリューネラントでのレジスタンス活動によって新型爆弾製造は進捗せず、十分な数を確保できなかった。ドイツ軍は新型爆弾の使用によってレニングラードとモスクワを制圧したもののソ連は抵抗を続け、逆にアメリカからソ連へ提供された新型爆弾がドイツ軍に対して使用された。
 1944年、北アフリカを制圧した連合軍は続いてシチリア島へ上陸、これを制圧した後にイタリア本土へと上陸した。すると戦意の乏しかったイタリア軍が瓦解し、イタリアは降伏した。連合軍は続いて旧ケルンテンへと進軍した。呼応して蜂起したカール・ヴィルヘルム・ワルトシュタイン率いるレジスタンス活動家や、ケルンテン亡命政府が組織した自由ケルンテン軍によってドイツ軍はグロイスター山脈の北側へと追いやられた。これによってケルンテン公国は6年ぶりに国土と国民を回復した。
 こうして南欧に足がかりを築いた連合軍は、1945年にフランスへと進撃しこれを解放した。この時点でドイツ軍はイギリス本土から撤退したため、チャーチルのイギリス亡命政府は本国へと帰郷した。
 1946年7月、ベルリンへ新型爆弾が投下された。これによりドイツの中枢は壊滅し、ヒトラーは自殺した。8月、後継者のデーニッツ大統領(提督)は連合国へ無条件降伏し、欧州での戦争は終わった。
 唯一残った枢軸国である日本だが、温存されていたアメリカ製の新型爆弾が多数投下されて壊滅し、1947年1月に無条件降伏した。
 こうして、未曾有の大戦争となった第二次世界大戦は終結した。


4.現代

4-1.冷戦の勃発

 第二次世界大戦の終結によって平和になるかと思われたが、時を置かずして新たな戦いが始まった。唯二つ残った超大国、アメリカとソ連による冷戦の勃発である。当時の欧州は新型爆弾の損害から立ち直っておらず、もはや米ソに並び立てる存在では無くなっていた。
 1947年、国際連合によってケルンテンとグリューネラントはドナウ川を国境として独立が認められた(両国領は、図6.と同様)。が、グリューネラントは戦前の共産勢力容認政策を引きずったまま、1948年に共産政権が発足した。この事によって、ケルンテン・グリューネラント両国は東西冷戦の最前線となった。ケルンテンは資本主義のショウウィンドゥとなり、莫大な資本が投下された。これによってケルンテンは急速な復興を遂げ、世界の注目を集める事となった。一方グリューネラントは、最前線として軍事基地化が進み、多くのソ連軍が駐留するソ連の衛星国家となった。このため両国の交流は、途絶えたままであった。


4-2.冷戦体制の崩壊

 1990年、冷戦構造に大きな変化が現れた。グリューネラント書記長の発言によって42年間閉ざされたままとなっていたナーベルブルク大橋が開放されたのだ。開放された橋へと詰めかけた両国民は共に抱き合い歓喜した。「ナーベルブルク大橋の再会」と呼ばれる出来事である。この日、52年前のドナウ休戦協定は正式に停戦協定として両国政府によって締結され、同時に両国間の国交が回復された。これにより、硅緑内戦は終戦を迎えた。


ケルンテン・グリューネラント年表

前6世紀 現ケルンテン地域にケルト民族の部族国家ノリクムが出現
前3世紀 ケルト人がローマ帝国に征服されイリュリア州が置かれる
2世紀末 ローマ帝国はイリュリア州を放棄
476 西ローマ帝国滅亡
8世紀末 地中海から侵入したヴァイキングがケルンテンに定住
ケルト系住民との混血によりノルトケルン人が形成
800 フランク王カールがローマ皇帝となる
9世紀初頭
843 ヴェルダン条約締結
現グリューネラントと北部ケルンテンは東フランク王国へ編入
南部ケルンテンはイタリア王国へ編入
9世紀中頃 グリューネラント開発が始まる
887 アルヌルフ・フォン・ケルンテンが東フランク国王とローマ皇帝になる
898 マジャール人を騎士ザックスが撃退
ザックスの一族がケルンテン公に任じられる
955 レヒフェルトの戦い
レクニッツの戦い
962 神聖ローマ帝国成立。ケルンテン公爵領、グリューネラント侯爵領が形成
1096 第1回十字軍
1494 ブリクシア共和国併合
1496 ブリクシアの騒乱が沈静化
1517 ルターの宗教改革
1555 アウグスブルグの和議
グリューネラントは新教(プロテスタント)へ移行
改めて硅緑両国の自治が神聖ローマ帝国より保障される
1618 三十年戦争始まる
1648 「ヴェストファーレン条約」締結
グリューネラント侯爵領はケルンテン公国へ吸収
1748 立憲君主制へ移行
1750 公国議会成立
1789 フランス革命
1800 マレンゴの戦い
1806 神聖ローマ帝国の解消によりケルンテンが正式に独立
1814 ウィーン会議
1815 ケルンテンは永世中立国家となる
1848 「ラヴァンタールの和約」によりオーストリアの属領となる
1861 イタリア統一
1866 普墺戦争
北ドイツ連邦成立
1870 「マインファルケン条約」によりケルンテンが独立を回復
オーストリア=ハンガリー帝国からブラウフリューゲル地方を獲得
グリューネラントを北ドイツ連邦へ割譲
1871 プロイセン王国によるドイツ帝国成立
1872 ヴァルテガルドからラヴァンタールへの遷都
1882 独墺伊三国同盟
1902 仏伊協商
1907 英仏露三国協商
1910 ケルンテン、協商側への接近を図る
1914 第一次世界大戦勃発
オーストリア=ハンガリー帝国、ケルンテン公国へ侵攻
1915 ドイツ軍がケルンテンへ侵攻
イタリアが連合国側に参戦しケルンテン国内へ進撃
1917 ロシア革命
装甲戦闘猟兵実戦投入
1918 第一次世界大戦終結
1919 ヴェルサイユ平和条約締結
ケルンテンは再び永世中立国家となる
グリューネラントを委任統治領とする
女性参政権の付与と第一回普通選挙
アイヒマン博士の失踪
1929 ニューヨーク市場で株価暴落
1931 オーストリア、ドイツで銀行倒産
ケルンテン=グリューネラント経済ブロックの形成が始まる
1933 ドイツにヒトラー政権誕生
1935 ドイツ再軍備宣
1936 スペイン内乱勃発
ケルンテンがスペインへ義勇部隊を派遣
ドイツ軍ラインラント進駐
1937 住民投票によりグリューネラントのケルンテン帰属が決定
グリューネラント侯爵ヴィルヘルム逝去
グリューネラント独立宣言
硅緑内戦勃発
1938 ドナウ講和会議
新型爆弾投下によりラヴァンタール壊滅
ケルンテン公ゴットハルト2世死去
硅緑間で休戦
ケルンテン政府を名乗る政治組織が乱立
ドイツが硅緑両国へ最後通牒
グリューネラントがドイツの最後通牒を受諾
硅独戦争勃発
ケルンテン全土がドイツ・イタリア軍に占領される
ヴァルデガルト臨時政府がイギリスへ亡命
ハルカ・デカルト女史がケルンテン首相としてローマ条約へ調印
ケルンテン・グリューネラントがドイツ・イタリアへ分割併合される
1939 ドイツによるチェコ解体
1940 ドイツのポーランド侵攻
英仏両国がドイツに対して宣戦布告
第二次世界大戦勃発
ドイツ、ポーランド全土制圧
ソ・フィン戦争勃発
1941 ドイツ、デンマークとノルウェーを制圧
ドイツ、フランスへ侵攻
パリ制圧、フランス降伏
英国上空の戦い始まる
日独伊三国同盟成立
1942 スカパフローへ新型爆弾投下
イギリス降伏
オーストラリアへイギリス亡命政府組織ができる
ケルンテン亡命政府もオーストラリアへ
ドイツによるバルカン半島侵攻
ドイツ、ソ連に対し宣戦布告
東南アジア方面で、旧英植民地に対し日本による侵攻が始まる。日米関係悪化
1943 日米開戦
ドイツ・イタリアがアメリカへ宣戦布告
北アフリカで英連邦軍及びアメリカ軍がイタリア軍と激突
アメリカが新型爆弾の開発に成功
ドイツ軍がアフリカ戦線へ投入される
1944 イタリア上陸作戦開始
イタリア王国降伏
ケルンテン解放
ムッソリーニ、ハルカ・デカルトと共に処刑
1945 仏解放
英解放
1946 ベルリンへ新型爆弾投下
ヒトラー自殺
ドイツ降伏
1947 日本へ新型爆弾多数投下
日本降伏
国際連合成立
ケルンテンは永世中立を宣言
1948 グリューネラントに共産政権樹立
ドナウ川が東西冷戦の最前線となる
1990 「ナーベルブルク大橋の再開」
ケルンテン・グリューネラント国交回復
ソ連崩壊

参考資料

書籍: 雑誌: 同人誌:



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