ケルンテン陸軍での装甲戦闘猟兵運用

 ケルンテン陸軍での装甲戦闘猟兵部隊編制単位は中隊であった。中隊は4個小隊により編制され、小隊は3機の装甲戦闘猟兵を擁していた。なお、装甲戦闘猟兵は他の兵科と異なって中隊本部が編制されていなかった。そのため、中隊の定数は単純に3×4の12機であった。中隊本部が存在しない理由であるが、それはケルンテンの装甲戦闘猟兵は個人戦闘を基本戦術としていたためである。さらに歩兵連隊麾下の中隊は小隊毎に分けられ、4個歩兵大隊に歩兵支援用として配されていた。つまり、実質的な戦術単位は小隊であり、中隊長は戦闘中に指揮を執る必要が無かったためである。この様な個人戦闘が採られていた理由であるが、それは装甲戦闘猟兵の基本戦術が欧州大戦時に策定され、それが30年代まで採用されていたためであった。欧州大戦時の装甲戦闘猟兵は全てウービルトであり、その高性能を前提とした戦術が性能の劣る量産機に適応できる訳はないのだが、1920年代が比較的平穏であった事が災いして特に顧みられる事はなかった。そしてスペイン内戦にて量産機による初めて実戦が行われたが、一部の優秀な搭乗員を除いて結果は惨憺たるものであった。  スペイン内戦での戦訓により個人戦闘は否定され集団戦法への移行が始まったが、新たな教義が策定される前に硅緑内戦が勃発したため、編制・装備共に旧来のままであった。それによってケルンテンの装甲戦闘猟兵部隊は、装甲戦闘猟兵単体での性能はグリューネラントを上回っていたにもかかわらず、劣勢に立たされる事となった。

 歩兵師団(*編制図)の擁する装甲戦闘猟兵であるが、編制上は歩兵連隊に1個中隊(4個連隊内に4個中隊)と捜索大隊に1個中隊の、合計5個中隊であった。しかし、ケルンテン陸軍のドクトリンでは1個旅団を主力とし、残りの旅団のうち1個連隊を陽動戦力、もう1個を予備として確保しておく事となっていたため、同時に戦闘へ投入される戦力は2〜4個中隊であった。つまり編制上、師団内で同時に戦闘を行っている装甲戦闘猟兵は20〜40機程度となっていた。

 騎兵旅団(*編制図)に配備されていた装甲戦闘猟兵は従来、捜索大隊に1個中隊程度であった。しかし30年代に入ると騎兵の機械化が企画され、騎兵連隊は順次に機甲大隊へと置き換えられる事となっていた。この機甲大隊には戦車中隊3個の他に装甲戦闘猟兵中隊1個が編制されていた。またその他にも新たに装甲戦闘猟兵大隊が編制されていた。実際に編成されていたかどうかは不明であるが、少なくとも内戦勃発時にはカルニケ騎兵旅団に1個の装甲戦闘猟兵大隊が存在していた。しかしこの大隊は単に中隊を束ねたものであり、その運用はあくまで旧来のものであった。そのため第一次南ゴートイェーク会戦では数量・性能共に優勢ながら一対一の個人戦闘へ持ち込もうとした機体が、部隊単位での戦闘を行うグリューネラント軍機に各個撃破され全滅してしまった。

 また師団・旅団に属さない独立(装甲戦闘)猟兵連隊も数個存在していた。編制は不明であるが、こちらも中隊単位で構成され、大隊は存在しなかった節がある。なお、これら独立連隊の名は内戦史を紐解いてみても何処にも記載されていない。が、開戦当初から劣勢であったケルンテン軍が何百機もの装甲戦闘猟兵を遊ばせていたとは考えづらい。一方、歩兵師団を見てみると開戦後は定数を大きく上回る、師団によっては数倍もの装甲戦闘猟兵が配備されている。これらを合わせて考えると、ケルンテン軍は独立連隊を各師団へ分派していたものと思われる。スペイン内戦の戦訓が得られた後であっても、ケルンテン陸軍は装甲戦闘猟兵を主力兵器として集中運用を行うことが出来なかった様だ。だが、これはスペイン内戦から硅緑内戦までの期間が短かったための様で、内戦中期以降は一部の師団で大隊・連隊編制の動きが見られる。

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