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五貫島邑の観音堂の庚申さん 昔話

散川を通り過ぎ、すこし行ったとこに早川の橋があるじゃろ。 橋を渡って右に行くと五貫島邑の観音堂があって、そこに昭和18年まで観世音菩薩さんと庚申さんをまつってあったんじゃ。

今は宮島のはし、下五貫島区の北のはしに移ってその広場は三角公園なんっていっているけれど、当時も五貫島邑の北のはしじゃった。それは、道案内をする道祖神と関係するのじゃが、庚申さんは青面金剛(ショウメンコンゴウ)といって帝釈天のお供をして北を守っているのじゃ。

  霊験あらたかで、いまも願(がん)かけをする人が多いじゃ。

その話をするかなあ。

ときは江戸のなかごろ、ある棟梁の一行は川成島邑の大地主の建前に朝早くでかけた。

棟梁は、根は純情だが気もあらく、大工たちは他人のことなんかいちいちかまっちゃおれん雰囲気だった。

 その日も、仕事のとちゅうで手伝いの一人の大工が、腹痛をおこしたっちゅって帰っていっちまったけれど、一人へったことで仕事はよけえきつくなるし、そのおとこのことなんかかまっておれんもんで、みんなそのまんま一日仕事をして帰りしたくをしはじめた。

にもつをまとめはじめると、

「おー、おれの服がねえーぞ」

「ややっ、おれの金がなくなっとる」

 大工たちは大さわぎになった。

「さては、あの腹痛おとこのしわざだな」

みんな、四方にちっておとこのゆくえをさがしたけれど、おとこがおらんようになって、まる一日たっておる。きっと遠くまでにげちまったらしく、まるっきり手がかりがねえ。

 そんな中で、若い大工が、さがしさがし森島邑との境まできて、ふっと庚申さまのことをおもいだした。

「そうだ、五貫島邑の観音堂の庚申さまにお願いするがいい」

 若い衆は、庚申さまのところへいそいでもどり、

「庚申さま、庚申さま。みんなの服やお金をぬすんだぬすっとをどうかつまえておくれんかな」と、頼んだと。

 いっぽう、おとこはその時分、富士川ぞいをのぼって芝川まできておって、まだその先へどんどんにげておった。

 そのとき、急になにか重いものが背中にはりついた感じがした。

重くて重くて、歩くにもやっとになった。

「な、なんだ、なんだ」

背中のぬすんできたものをおろして、あれこれ見ても、なんの変わったこともねえ。

また背負って歩かっとすると、ズシンと重くなる。

 そんなことをくりかえしておると、なにか背中でブツブツいう声がした。

うしろをふり返っても、だぁれもおらん。

おとこはだんだんきみがわるくなって、はってでもにげおうとしたそのとき、

「にもつを返してやれや」

 こんどは、はっきり声がした。これには、さすがのおとこもびっくりぎょうてん、

「わるうございました。にもつを返しにまいります」

 大きい声で背中にむかってさけぶと、おどろいたことに急に背中がスッとかるくなった。おとこは、ますますおそれいって、きた道をあわててとってかえしたって。

 邑に帰ると、なかまはだあれもいない。いそいで棟梁のところへいきなかまの前で深々と頭をさげてあやまり、道中のふしぎな出来事をみんなにはなしたんな。

 それをきいた若い大工は、庚申さまがきっとおとこににもつを返すようにさせたんだとおもい、さっそく米だんごとお旗をあげてお礼をしたんだと。

 それからも、物がなくなったり、忘れ物がでてこんようなときは、五貫島の観音堂の庚申さんに願をかけると、必ずごりやくがあったそうな。

みんなも、願をかけてみるかな。そんなときは次のようにいうといいって。

庚申さんをワラなわで縛り、「取り戻して下されたらひき団子を作ってお供えします。縄もといてあげます。」というて拝むのじゃ。盗んだ人は頭がハゲるといい伝えで、すぐに戻しよったらしい。

「うそいったら庚申さんにいうぞ」といわれると、バチをおそれて子どもらは正直になってわるさをしなくなったそうじゃ。

お参りする人が多いほど力が増すのじゃ。拝む時は庚申さんが誰か判るように身分を明かさなけりゃいかんぞ。

 気持ちをひきしめてやらんとだめだに。そうそう、それからお礼参りもかならず忘れんようにな。