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駿河(するが国)
駿府 建武4年(1337)、今川範国(のりくに)が足利尊氏に、駿河国の守護に任ぜられて(建武5年説もある)から駿河の守護大名として約200年間にわたり今川一族でした。 初代範国はほとんど京都に在住していた。駿河の今川を築き上げたのは二代目範氏であり、浅間神社の造営などもしたが、まだ駿府に入ることができなかった ようやく、世の中が静かになり駿府に入れるようになったのは、応永十八年(1411)の頃で、三代目泰範の子、四代目範政が駿府に居館を作った。 今川氏の祖は、武家足利氏の一族で、足利義氏の二男有氏の子国氏
駿府藩(すんぷはん)は、江戸初期の1624年-1632年の間に存在した藩。50万石。 駿府(静岡市)を中心に静岡県の駿河、遠江の地域に江戸時代初期と明治初期に短期間だけ存在した藩である。 *1東海道十五国の一つで宿駅として知られ、略称「駿州(すんしゅう)。国府と国分寺 は今の静岡市におかれた。 鎌倉時代に武田・北条氏が守護となり,南北朝時代以後は今川氏が守護大名として勢いをふるい城下町としてさかえた。 駿府徳川家 江戸時代には家康の居城となりは、秀忠に将軍職を譲った後、没するまでの 12年間、「大御所政治」を行う。 慶長14年(1609年)家康の第10子 徳川頼宣が駿河大納言を任ぜられ駿府城主となって藩が成立。元和5年(1619年)紀州に移封するまで。 甲斐・信州小諸25万石に駿河・遠江東部の25万石を加えた計50万石。 1624年に徳川秀忠の三男、徳川忠長(駿河大納言)が甲斐より駿府に入る。 この時、序列では尾張・紀伊・駿河・水戸(権中納言)の順となる。 寛永8年(1631年)忠長が乱心、兄である徳川家光に嫌われていて、粗暴であると言う理由で改易と蟄居を命じられる。 寛永9年(1632年)家光の命によって切腹して駿府徳川家は断絶。 これより幕末に15代将軍徳川慶喜が入るまで、江戸幕府の幕府直轄領として*2駿府城代がおかれ、ほかに沼津藩・田中藩・小島藩などの小藩があった。 1869(明治2)年,静岡とあらためた。
*1東海道十五国:伊賀国・伊勢国 ・志摩国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国 ・甲斐国・伊豆国・相模国・安房国・上総国・下総国・常陸国 の14国と,ややおくれて編入された武蔵からなる。これらをむすぶ官道は重視された。 *2駿府町奉行(駿府城代) 江戸幕府の役職。将軍退位後の家康が過ごした駿府城の守衛を任務とした。旗本から任命された。 駿府城下の町政の他、東海道の江尻丸子両宿および清水港を支配した。 定員1名。役高は1000石で、役料として500俵が支給された。配下は与力8騎同心60人。
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