いちじく 志田 土つくり耕楽園

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ひゃくしょう

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富士市立田子浦中学校12回生還暦の旅

1956年(昭和31年)4月入学、1959年(昭和34年)3月卒業

 田子浦中学校 校歌
  作詞:三富 功
  作曲:平井 保喜

1.ああ空の青 海の青
 光みなぎる 東海の
 健児 六百 眉をあげ
 仰げば高し 富士の嶺

2.松は緑に 砂白き
 渚に立てば 鴎どり
 水憧れの ふし歌い
 のどけき舞の てぶりかな

3.風かんばしき 野にもえて
 いのちあふるる 花の色
 山河のすがた 見ておもう
 故郷よとわに 美しく

4.愛と希望の 丘の上
 三歳学びの明けくれや
 来しかたわれに 憾みなく
 行手は晴れたり ひとすじに

5.時こそ今は 人生の
 くれないもゆる 朝ぼらけ
 真理の鐘ぞ 鳴り出ずる
 おおわが母校 田子の浦
 田子浦小学校 校歌
  作詞:長 徳太郎
  作曲:梁田 貞 

1.群れ立つ山を ふまえつつ
 みゆきさやけく 大空に
 そびえて立てる 富士がねを
 あしたに父と 仰ぐなり

2.浮かべる雲を うつしつつ
 みどりの潮の ふくよかに
 満ちただよえる 駿河の海(み)
 夕べに母と 慕うなり

3.この海山の ふところに
 まなこと育つ はらからの
 寛くもたかき 胸のうち
 愛とまことに もゆるかな

4.いざやおしえを 身にしめて
 かたみにちから 合わせつつ
 田子の浦わと 名もしるき
 郷土のほまれを いやあげむ

修学旅行みたいな旅 引率先生は女性の幹事さん。
クラスは4組有志。その中に紛れ者(他のクラス)が2名、3名?
女性のほうが元気で男どもは静かであった。

どうも旅行中雨模様のようだ。予報でも80%で大雨らしい。
60年間1度も雨でたたれた旅行は無かったが、傘を家内が用意してくれた。
いらないと言ったが「保険代わりに持って行ったら」というので持参することにした。




この旅行で藤原京平城京の言葉がガイドさんからたびたび出てくた。
納得した風に聞いていたが全々理解していない。わが友よ、おさらいしてみよう。

藤原京
(奈良県橿原市)
平城宮に都が遷されるまで持統8年(694)から和銅3年(710)の16年間、持統・文武・元明の3人の天皇の都でした。わが国ではじめて条坊制を導入した本格的な都城です。大和三山(大和平野の南東部、飛鳥古京の北に並ぶ畝傍山(うねびやま、199m)、天香久山(あめのかぐやま、152m)、 耳成山(みみなしやま、139m))と甘樫丘に囲まれたこの地で、大宝律令の制定など律令国家体制の基礎が築かれました。
平城京
(奈良市佐紀町)
平城京は元明天皇の和銅3(710)年に飛鳥の藤原京から遷都して以来、7代70余年の間、都がおかれた所。規模は東西4,3km、南北4,8km、東に外京(げきょう)と呼ぶ張り出し部分をもった壮大なもの。京の正門にあたる羅城門(らじょうもん)から朱雀門(すざくもん)まで幅74mにおよぶ朱雀大路が貫き、これを中心に大路、小路が碁盤目状に走っていた。平城京は整然と区画された巨大都市だったのである。当時ここに20万人(10万人説もある)が住んでいたと推定されている。
 


この旅行はお寺と神社巡りだろう。こういう場合わしは祝詞と般若心経を腹の中に用意する。何宗何派であろうと関わりあるものだからだ。祝詞と般若心経の中身は感謝・ありがとうである。たとえば般若心経の羯諦羯諦波羅羯諦はありがとうの連呼だ。南無○○も○○ありがとうございますである。
我が家は曹洞宗だが南無阿弥陀佛は阿弥陀佛さまありがとうございますで、南無妙法蓮華経は法華経ありがとうございますということになる。
とりわけ信心深いわけではないが、神社仏閣に拝観するときは祝詞か般若心経を心誦する。そして、お願いしてはならないようだから黙って手を合わせるだけ。後は観賞にしたる。


1日目

新幹線新富士駅出発-名古屋ー(関西本戦 急行かすが)−伊賀上野〜バス

談山神社 奈良県桜井市

ここでは紅葉観賞だが、今年の紅葉は昨年ほどではないようだ。それでも部分的には観賞できた。

談山神社は大化改新の中心人物の藤原鎌足を祀る神社です。
藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威[あい]山からこの地に改葬し、長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたのに始まり、弟の不比等が神殿を建て父の像を安置したと伝わる。
舒明、皇極二代の天皇の世に、国の政治を欲しいままにしていた蘇我蝦夷、入鹿の親子を討伐し、政治を改革しようとした中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が西暦645年の5月に藤の咲き乱れる多武峰に登って「大化の改新」の談合を行ったことから、後にこの山を談[かたら]い山、談所ヶ森と呼び神社の社号の起こりとなりました。

多武峰の山中に楼門(重要文化財)、本殿(重要文化財)、権殿(重要文化財)など朱塗りの社殿が立ち並び、鎌足像を祭る漆塗極彩色、三間社春日造の本殿は、日光東照宮の手本になったという。
室町再建の墓塔は高さ
17mで、木造十三重塔としては世界唯一とのこと。
宝物館を兼ねた拝殿(重要文化財)には僧兵の太刀や薙刀などが展示され、重要文化財も多い。


JR・近鉄桜井駅
下車奈良交通バス
多武峰行バス乗車
「談山神社」下車

車の場合
西名阪天理インターより国道169号線南下
所要時間約45分




女人高野
室生寺
奈良県宇陀郡室生村

奈良後期の宝亀年間(770〜780)興福寺の僧賢憬(けんきょう)が創建、後に弟子の修円が寺観をととのえたという。
山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が行われ、これが卓効のあったことから、勅命によって国家の為に創建されたのが室生寺です。
女人禁制の高野山に対して女性に門戸を開いたことから「女人高野」と呼ばれるようになった。

勒菩薩立像(重文)、衣文の美しい釈迦如来坐像(国宝)を安置する。
金堂(国宝)の釈迦如来立像(国宝)十一面観音立像(国宝)も量感たっぷりの貞観仏。光背、衣装とも極彩色で少女のような愛らしさ。
本堂(国宝)に貞観の如意輪観音坐像(重文)がまし、性たちを見守り続けてきた仏さまです。
小の塔。相輪の上部は水煙ではなく宝瓶を置き、その上に天蓋をもうけている。

小の塔の背後から奥の院、御影堂(重文)へ通じるとびきり急勾配の石段が始まる。建物はどれも柿(こけら)葺き、もしくは桧皮葺き。瓦屋根でないのが室生寺の印象をいっそう柔らかくしている。

ここでも紅葉にカメラを向ける人が多い。

今日1日雨は持ったが、高野山に向かう車中、雨がぽつぽつ降ってきた。

街灯も無い山に登る道筋に『丁石』が建てられている。
「36丁=1里」で、「1丁=約109m」「1里=約3,927m」です。
山に登りきると街が現れ都市広がる。



宿泊:
露天風呂と精進料理 別格本山福智院
和歌山県伊都郡高野町

高野山には一般の宿泊施設はなく、参詣者が泊まるための宿坊と呼ばれる寺院が53ほどあり、その中の一つです。福智院は、5,000坪の敷地に70の部屋をもつ高野山最大の宿坊として、800余年に渡る歴史を積み重ねています。
庭園は味わい深いものです。さすがに、世界的に高い評価を受けているだけのものであります。

登仙庭  龍門の故事で名高い龍門瀑(龍門の滝)を模した庭です。背景に見えるなだらかな遠  山には、蓬莱連山の石組がなされています。前景の池泉には、鶴島亀島と日本古庭園の伝統的手法をモダンな感覚で表現しています。
愛染庭  古くから福徳円満所願成就の霊仏として信仰を集める福智院の本尊である愛染明王の名を冠した庭は、質朴な趣にあふれています
石庭蓬莱遊仙庭  古代中国の伝説「遥か南海にあって、不老不死の仙人が棲む理想郷、蓬莱島」を十五個の石組みで表現した枯山水蓬莱式の庭園です。

ここでコーヒーをいただきながらただ庭を眺めているだけで癒される。

宝物には、桜田門外の変で有名な井伊大老の遺品をはじめ、徳川家ゆかりの諸大名の遺品、古くは奈良時代の古美術品などが納められています。

当然ながらホテル並みとはいかないが旅館をイメージしてください。お酒もよし、喫煙もよし。料理は山菜、精進料理。


2日目
深夜1時過ぎ頃から大粒の雨が銅ぶきの屋根を叩きつけている。こりゃ、明日は大変だぞ。


6時、風呂に出掛ける時もまだ大きい雨が降りつづいている。雨でたたれた旅行は無かったという神通力は年とともに衰えたか。その雨も出発前には大分小止みになった。
高野山散策も少しの間傘をさしたがいらなくなった。どうにか晴れ男の面目が保たれた。


総本山金剛峯寺和歌山県伊都郡高野町高野山

 高野山は、標高約800mの山上に出現する宗教都市。弘法大師による開創以来1200年、総本山金剛峯寺および子院117ヶ寺(名跡含む、うち宿坊寺院53ヶ寺)が真言密教の法灯を守っている。現在、世界遺産登録に向けて官民一体となって取り組んでいる。

全国に3600の末寺を率いる高野山真言宗の総本山。

高野山は、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の816 (弘仁7)年に開山した真言密教の根本道場で、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝え、併せて未徒の修禅観法のため、また自づからの人定の地とする崇高な目的をもって開創せられた。

高野山全域を金剛峰寺と呼んでいた。現在の金剛峰寺は一山の中央に位置し、高野山第2世座主の新然大徳の廟所だったが、1593年(文禄2)、豊臣秀吉が亡母の菩提寺として建立、1863年(文久3)に再建された青巌寺と興山寺を明治に合併し総本山とした。

標高約800mの高峰上にある総面積百十余ヘクタール(三十三万坪)の一大盆地である。山の姿は四仏四菩薩を象徴したといわれる内八菓・外人葉の峰々に囲まれ、さながら八葉蓮台の形をなしている。この山は開創以来1200年に亘って、一般庶民の強い信仰と支持を集め、宗派にとらわれず、あらゆる階層の人々の心の憩いの場として、或は魂の安息所として発展し、今日の如き一大仏都をなすに至っています。



東大寺奈良県 奈良市 山陵町

大仏で知られる奈良時代の代表的な寺院で大仏殿は世界最大の木造建築物です。天平15年(743)に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)建立の勅願を発令し、その大仏を安置する寺として国力を挙げて造営されました。


興福寺
奈良市登大路町

天智天皇8年(669)、忠臣藤原鎌足の私宅(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とする。
南都七大寺の中で最も密接に奈良の街とつながりを持ちながら発展した寺。和銅
3年(710)藤原不比等(ふひと)が飛鳥から平城宮へ前身の厩坂寺を移転したもので、藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大しました。

神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、鎌倉時代には大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯を支配していました。


春日大社奈良市春日野町

710年、藤原不比等が平城遷都の際、藤原氏の氏神を祀ったのが起こりとされています。
皇族や貴族の春日大社詣もさかんとなり、また中世以降になると庶民にも信仰がひろまり、万燈籠で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠の多くは庶民の寄進によるもの。


薬師寺奈良市西ノ京町

今からおよそ1300年も昔の白鳳時代、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り、藤原京にて創建されました。その後平城遷都に伴い、養老2年(718)に現在地に移されました。


帰りは
バス〜奈良出発―(関西本戦 急行かすが)―名古屋(新幹線)―新幹線新富士駅