きつねの窓



「食欲無いんですね…」
テーブルの上の、ほとんど手を付けられていない食事。
それが、今の自分と、本当の名前を知らない彼との距離を示している…、と理得は思った。

そう…
親しげに話した、あの言葉も、あの笑顔も、偽物。
本当は、こんなにも離れた存在だった。

でも、今、こうして横たわる彼を、どうしても憎めない。
彼の名前や生活が偽物だったとしても、彼は彼、中身は決して作り物ではない事を、自分は知っている。

「熱も下がったばかりだしね、でも、ス−プだけでも飲めて良かった…」
理得は手に持ったロウソクをテ−ブルの上に置くと、火をつけ、部屋の明かりを消して戻ってきた。

「この方が眩しくなくて、いいでしょう?」
ほんのりとした灯りの向こうに、彼の顔が見える。

「前に一緒に見ましたよね、この灯り。とても綺麗だった…。あの時は、まだ貴方は野上さんで、私も何も知らなくて…」
何気ない言葉のつもりだったが、それは彼には辛かったのだろう。
理得は、彼の申し訳なさそうな表情を見て、慌てて話を変えた。

「あっ、あの本でも読みましょうか?私の好きな本があるんです」
理得はそう言うと、立ち上がり、階段の所の棚から1冊の本を取りだした。
その本を大事そうに胸に抱えると、理得は元の場所に座り、表紙を見せる。

「『きつねの窓』って童話よ、小さい頃、お母さんがよく読んでくれたの…」
理得は表紙をめくると、ゆっくりと読み始めた。
「いつでしたか、山で道に迷った時の話です。ぼくは自分の山小屋に戻るところでした…」
理得は淡々と読んでいく。

《鉄砲を担いだ青年が一人、自分の山小屋に帰る途中、一面の桔梗の花畑に出くあします。
その美しさは空恐ろしいほどで、すぐに引き返そうとしましたが、その美しさに心惹かれて少し休むことにしました。

その時、目に前を白い子ぎつねが通ります。
鉄砲を構える青年、しかし、花の中にもぐってしまった子ぎつねは、忽然と姿を消します。

立ちつくす青年の後ろで、声がしました。
後ろを振り向くと『染め物 ききょう屋』という小さな店の入り口で、子供の店員がちょこんと立っていました。
青年はすぐにさっきの子ぎつねだと気がつきましたが、騙された振りをして、客になりました。

「何を染めましょうか?」子供は、無邪気にそう言います。
青年がそう言われて、あれこれ迷った末にハンカチを出そうとすると、「そうだ、指を染めましょう」と子供は提案しました。

「指を染めるって、とっても素敵なことなんですよ」
子供は、自分の青くなった親指と人差し指でひしがたの窓を作って、青年に見せます。

青年がその窓を覗くと、…そこには白い親ぎつねの姿がありました。
「これは僕のお母さんです…、前に鉄砲で撃たれました」
子供は両手を下ろして、うつむきながら続けます。
「でも、もう寂しくはありません。この窓から、いつでもお母さんの姿を見ることが出来るから…」

その言葉に、青年は感激して、自分も両手の2本の指を染めてもらいました。
彼も一人ぼっちだったのです。

青年は染めてもらった指で早速窓を作って、覗いてみました。
その中には、昔好きだった少女が見えました。
すっかり喜んだ青年が、お礼をしたいと言うと、「鉄砲を下さい」と子供は言いました。
青年は迷いましたが、自分の手に入れた素敵な窓の事を思うと、少しも惜しくありませんでした。

帰り道、もう一度窓を作ると、今度は昔の自分の家が見えました。
お母さんの声も、死んだ妹の声もします。
切なくなって手を下ろした青年は、何時までもこの指を大切にしたいと思いました。

ところが、家に帰って青年が最初にしたことは、手を洗ったことでした。
長い間の習慣は変えられなかったのです。
色の落ちてしまった指は、2度と窓を作れなくなりました。
そして、いくら探しても、あの青い桔梗の花畑は、2度と見つかりませんでした。》

本を読み終わって、顔を上げると、彼は目を閉じて眠っているように見えた。
それを見て、理得はほっと息をつく。
そして、自分の両手で小さな窓を作ると、「私も見てみたいな・・」と呟いた。
お父さんとお母さんと妹と私が、楽しく暮らしていたあの頃。
それは、やはり切ないほどの幸せに満ちていた。

もう2度と戻ることのない幸せな時間だからこそ、それは宝物になる。
理得には、青年が鉄砲を手放した理由が痛いほど分かった。

そして…

理得は、安からな顔の彼に目を向けた。
異国の工作員という、この彼にも、きっと幸せな時間があったはず…
彼は、この窓でいったい何が見たいのだろう?

「あなたは何が見たいのですか…?」
理得はそっと、尋ねてみた。
が、その瞳は閉じられたまま、何も言わない。
眠っているのか?
それとも話せないのか?
どちらにしても、この状況では同じ事だ。

でも、理得はそれでも満足だった。
今は、彼の安らかな顔を見られただけ、それだけでいい。

ロウソクの灯りを挟んで、夢を見る。
それは2人にとって、ほんの僅かな、でも、確かな幸せの瞬間だった。