「本当に車で行くの?」
「当たり前じゃない。その為に免許を取ったのよ」
「でも、まだ初心者だろう…、遠出のドライブはもっと先にした方がいいんじゃないか?」
「大丈夫よ、ジュンサン。この間サンヒョクを乗せた時だって、初心者にしてはなかなか上手いって誉められたもの」

そんな事、何の目安にもならない。
この間、慣らし運転に出かけた際も、曲がりしなにバンパーを壁に擦ったと聞かされたばかりなのだ。

まったく…
サンヒョクは分かっているのだろうか?
自分の言った安易な一言が、こんなに早くユジンの運転する車の助手席に僕を座らせる事態を招いたことを。
今度会ったら、きっちり言わなければ。ユジンをあまり甘やかさないでくれと。
そのせいで、僕は今日、いやドライブに行くと聞かされた昨日の夜の時点から心配でたまらない。

「よし!お弁当の準備も出来たわ!ジュンサンの好きな物ばかり入れたから、楽しみにしてね」
「あぁ…」
「どうしたの?元気ないわよ」
「いや、そんなことないさ…」
それでも、ユジンは今ひとつ元気のないジュンサンの手を取ると、お弁当の入ったバックを持って玄関に向かった。

「さてと…、シートベルトよし!左右確認よし!じゃあ出発しま〜す!」
「無事に帰ってこられますように…」
「何?ジュンサン、何か言った?」
「いや、別に。ちょっとお祈りを…」
こうして対照的な顔をした2人を乗せた車は、ソウルを後にした。

「お天気で良かったわ〜」
「そうだね。ところで、ユジン、ほんと、何処に行くの?」
実は昨日の夜から行き先を尋ねているのだが、ユジンは未だに目的地を明らかにしていない。
「秘密!」とか言って、はぐらかすだけだ。

「景色だって見られない僕に、それじゃあ、あんまりだと思わないの?せめてヒントぐらい教えてくれよ」
「ヒントねぇ…。う〜ん、ジュンサンは感がいいから、ちょっとだけね。今、私達が向かっているのは思い出の場所よ」
「思い出の場所?」
「そう…。沢山の思い出が眠っている場所」
ジュンサンはそう言われて、見えていた頃にユジンと一緒に過ごした場所を頭に思い描いた。

高校生の頃、初めて出逢った春川(ちゅんちょん)
ミニョンであった頃に、一緒に仕事をしたスキー場。
それと、最後だったはずの海…。

すぐに思い付くのはこのぐらいだった。そのどれもが強い思い入れと共に蘇る。
だが、共有した期間が短い僕等は、思い出を作った場所もなんて少ない事か。
ジュンサンは、この時になって、なぜユジンが免許を取る為に一生懸命に努力したのか分かった様な気がした。
日常ではない場所での非日常。それは、大切な記憶として、思ったより鮮明に心に残る。

「ジュンサン、窓を開けてみて?」
「えっ?」
過去の思い出にとらわれていたジュンサンは、ユジンの声で我に返ると、言われるがまま、窓の開閉スイッチを探してそのボタンを押した。

「これは…海だね。海の匂いがする」
ジュンサンは潮風を吸い込むと、懐かしさで胸を満たした。

そうか、海か…
運命に翻弄(ほんろう)されて、別れるつもりでユジンと最後の思い出を作った海。
ユジンはそこで何をするつもりなのだろうか?





「やっぱり海は気持ちいいわね〜」
お弁当を食べ終わると、ユジンは満足そうに声を出した。
それからマットの上に2人して寝転がると、気分はあの日と同じ。青空を仰ぐ体勢も変わらないでいる。

「なぜここに連れてきたか分かる?」
ユジンは、ぽっかりと浮かんだ白い雲の向こう側を見通すような目をしながら尋ねた。

「いいや…、でも何か意味があるんだろう?」
「意味、そうね…。実は私ずっとこの場所に、やり直しに来たかったの…」
「やり直す?」
「そう、あの日を最初からね。
だって、あの時ここで今と同じように青空を仰いでいたあなたは、心の中では私との思い出を何もかも消してしまうつもりでいたんでしょう。
だから私には楽しかった思い出も、あなたには悲しい思い出でしかない…。
そんなジュンサンの気持ちを考えたら、私も自分の思い出を認められなくなってしまったの。
こんなに綺麗な海を前にして、それはお互いに(むな)しいだけよ。だから、ちゃんとやり直しましょう」

「そうだったのか…ありがとう、ユジン」
ジュンサンは腕枕をしていた手を自分の方に引き寄せると、横向きになったユジンの額に軽く口づけた。

「分かったよ、もう一度あの日をやり直そう。そして、楽しい思い出だけを持って、今度は一緒に家に帰るんだ」
「うん…」

それからユジンは海岸で買い物が出来る分だけ苦労してコインを集め、使い捨てカメラを買い、通りがかった人に2人一緒の写真を撮ってもらうと、それを大事そうに鞄にしまった。
「これで写真は大丈夫。でも、ねぇ…ジュンサン、あの時の写真も惜しい気がしない?いったい今どこにあるの?」
砂浜と道路との境目にある石垣に座って、ユジンは何とはなしに気になっていたことを聞いた。
ジュンサンはその答えに黙って目の前の海に指先を向ける。
その顔には何とも言い難い悲哀が漂っていた。

ユジンはそのジュンサンの横顔をしばらく見つめてから、水平線に夕日が沈みだした海に目を移した。
その目にはうっすらと光るものが見える。

「ごめんなさい。ジュンサンばかりに辛い想いをさせてしまって…」
海を見つめながら、ユジンはやっとそれだけ口にした。
そうしてぎゅっと唇を結ぶと、涙を拭う。
そんなユジンの気配をジュンサンも察したのか、ゆっくり抱き寄せると頭を撫でた。
「僕なら大丈夫だよ。こうやって、ユジンにちゃんと話せたから…」

宵の風が2人を包む。
それはもうじき星が(またた)きだすという合図だった。
ユジンは夕日がすっかり沈んでしまうと、ジュンサンの手を握りしめた。
「さあ、行きましょう。もうすぐ夜よ…」

今夜の宿は探すまでもなく決まっている。
ユジンは車から大きめの荷物を出すと、ジュンサンを伴って目的地に向かった。

「すぐに暖まりますからね…」
変わらない女将さんの対応もなんだか嬉しい。
ユジンはジュンサンと一緒に床に座ると、身体を寄せ合ってオンドルが浸みてくるのを待った。

「明日は市場に行って鯛焼きを買ってね」
「あぁ、でも、今度は迷子になるなよ。僕は探せないんだから…」
「大丈夫、ジュンサンはいつでも私のポラリスよ。あなたがいる限り、私は迷子にはならないわ…」
ユジンはそう言ってから、何かを思い出したようにジュンサンの顔をのぞき込んだ。

「ジュンサン、もう一つ聞いていい?あの時、あなたに渡したポラリスのネックレスなんだけど…、もしかしたらあれも…海に…?」
「うん…」
「そう…、やっぱりそうなのね…。あ、でも大丈夫よ、ちょっと気になっていただけ。
さっきも言ったけど、あなた自身が私にとってのポラリスなんだから、あなたがいてくれれば私はそれでいいの」
「ユジン…ごめん…」
「ううん…かえって気持ちがスッキリしたわ。胸の(つか)えが下りた感じ。だから気にしないでね」

ユジンにはジュンサンがそうしなければならなかった理由が、痛いほど分かっていた。
だから、その所在さえ分かればそれで良かった。
これからは魚を自分に置き換えて、いつでも海の中の輝きを想像できる。

「今日はジュンサンが先に歯磨きしてね。新婚旅行のやり直しなんだから、ちゃ〜んと磨かなきゃキスしてあげないわよ」
ユジンがそう言うと、ジュンサンは小さくだが清々(すがすが)しく微笑んだ。
その様子を見て、ユジンはこれでやっと過去の出来事が全て洗い流されて、新しい思い出として生まれ変わったように思えた。

潮騒が鳴る。そして空には漆黒に青白い光を放つ月明かり。
2人はその中で、本当ならあの日、契るべきだった身体を重ねた。
それは2人がこの先のどんな困難をも越えて、幸せな未来を築き上げていく為に交わした約束。
そして自分よりも大切な互いを愛しみながら、永遠を誓い合う安らぎの時間だった。

その晩、海の底で魚たちに見守られていたポラリスのネックレスは、急に変わった潮の流れで岩場から離れ、やっと岸に向かう流れに乗った。
その海の粋な計らいは、もうじき形となって2人の前に現れるはずだ。
ネックレスは満月に照らされ、波に運ばれながら、戻るべき場所を目指す。
そして、波打ち際に辿り着く頃には、朝日が昇っていた。

「ユジン…?」
ジュンサンは目が覚めると隣にいるはずのユジンを探した。
しかしその頃、ユジンは海岸を散歩しながら、2人の新しい思い出の記念になるような物を探している最中だった。
白やピンクの貝殻と少しばかりのコイン。
それらをハンカチに集め入れる度に、ユジンは海からの贈り物に感謝していた。

だが、ユジンが涙を流すほど、本当に感謝をするのはこの後の事。
その奇跡はユジンの目前に広がる波間で(きら)めきながら、持ち主に拾われるのを長い間ずっと待っていた。