Winter Lovesong



    プロローグ


 大晦日の夜、僕は雪道を滑りながら走った。一秒でも早く、ユジンの元へと急ぐために。それは胸を押しつぶそうとする不安が、失いたくないという愛情にすり替わった瞬間だった。
 僕は今、あの時と同じ絶望の中にいる。でも今は目を開けても未来は闇に閉ざされたまま、手探りで道を探しても走ることすらできない。そんな僕に唯一できることは、ユジンの幸せを遠く離れたこの米国の地から祈るだけ。どうか幸せに、君だけは幸せにと。
 ユジン、君を守れなくなってしまった僕を許してほしい。できることならば、あの大晦日の夜に戻って君を抱きしめてあげたい。全ての運命が狂ったあの日、僕は過去も未来も何もかもを捨てて君を選んだんだ。

 ――ユジン。
 僕は悩んだ末に母に電話をした。すぐにでも米国に行くから手続きをしてほしいと。おかしいだろう、昨日まではどこへも行くつもりなんてなかったのに。
 今の僕にとって、数学の勉強の為の渡米なんて興味もなければ何の意義もない。だからピアニストとしての成功を夢見る母が、一人で米国に行けばそれでいいと思っていた。僕は君がいれば他には何もいらない。そう思ったばかりなのに。
 ユジンは僕が春川に来た理由を知っているだろう。そう、僕はずっと父を探していた。
 小さい頃は良かった。家でピアノの先生をしている母と二人、それが当たり前としていられたから。だから今思えばそれはそれで幸せな日々だったと思う。でも僕が小学校に上がり、周りが同じ年頃の子供ばかりになると状況は一変した。
 カン・ジュンサン。
 カン・ミヒ。
 同級生達は一様に僕の姓が母と同じ事に興味を示し、そして次の日、親から仕入れた情報で僕をせせら笑った。
「おまえは父ちゃんなしの子だってさ」
「知ってるか、私生児って言うんだぜ」
 もちろん、その頃には僕も父がいないことを知っていた。小さいときに亡くなったと母には聞いていたからだ。そして僕はずっとそれを信じていた。だけど本当は違うこと、それを僕は母ではなく同級生の刺のある言葉で知った。
 僕は小さいながらも考えた。父に捨てられたのか? それとも母が父を奪ったのか?
 僕は小さい頃からパズルが好きで、考えて、組み合わせて、そうして形ができあがるととても嬉しかった。でもこれはいくら考えても組み合わせても答えが出なかった。
 だから事実が分かってから、僕は再び父のことを母に聞いた。
「死んだのよ。前にも言ったでしょう」
 それは以前と何も変わらない返事だった。
 母は僕が学校に行き始めると、自分もピアノのレッスンのために度々家を空けるようになっていた。そうして忙しくなった母は僕の変化に気付くはずもなかった。
「死んだなんて嘘だ! お墓だってないじゃないか!」
 僕は同級生に言われたまま、母に言い返した。
「どうしたのジュンサン……」
 その時の母の驚いた顔。
 僕はその顔を睨みつけると、戸惑う母を置き去りにして自分の部屋に引きこもった。しかし、小学生だった僕のささやかな抵抗がそんなに長く続くはずもなく、結局、僕は母との間に溝を作ったまま沈黙した。
 同級生のからかいも無言で相手にしなければ自然に無くなっていく。しばらくしてそう学んだ僕は、それからは友達も作らず、そうやっていつもやり過ごすようになっていた。そして中学生になると僕は一切のことを忘れるように数学に熱中した。それは答えを引き出すためにあれこれ考え公式を組み合わせる事が、昔好きだったパズルに似ていたからだと思う。そうして僕は父の事を胸に秘めながらも図書館に通い数学にのめり込んだ。
 ソウルの科学高校に入学すると、僕は向上心を持って更に数学を極めようとしていた。しかし高校のレベルでは僕の欲求を満たしてくれる魅力的な授業はそうはなく、僕は再び父のことを考えるようになっていた。その頃、ピアニストとしてその地位を確立しつつあった母は家にいないことが多く、たまに家にいても僕の目を避けているように見えた。そんな母が僕は無性に憎くて、時折、冷めた目を向けると「僕の父さんはどこにいる誰なの?」と詰め寄った。すると母は小学生の僕に言った言葉と同じ返事を繰り返し、表情を硬くして僕の前から消えていった。
 そうしたある日、僕は開いていたドア越しに涙する母の姿を見た。緋色の箱を開けて、中にある物を一つ一つ手に取っては涙を流す母。それは泣くほど辛い母の過去だと直感的にそう思った。
 あの箱の中が見たい。
 僕はその日から母の留守中に緋色の箱を探した。が、それはどこにも見あたらず、僕はとうとう痺れを切らして母に尋ねた。
「母さん、緋色の箱はどこ? あの中に母さんの過去が入っているんでしょう?」
「な、なんのこと?」
 母は急にそう切り出されて明らかに動揺していた。でも何度訊いても母は箱の存在を認めようとしなかった。母と僕の押し問答はその晩遅くまで続いたが、結局その日、母に押し出されるようにして僕は部屋を出た。
 そんな翌日のことだった。僕が学校から帰ると庭の奥まった所から赤い炎と白い煙が立ち上っていた。その火の傍らには母がいて、そして地面にはあの探していた緋色の箱が置いてあった。
 母は自分の過去を僕が知りたがるのを嫌って全てを燃やしてしまったのだ。僕はその事実に呆然としながら母がその場から立ち去るのをじっと待っていた。そして母がいなくなると物陰から出て、くすぶる黒い塊をじっと見つめ、行き場の無くなった気持ちをぶつけるかのようにそれを足で踏みつぶした。するとどうだろう、黒い塊が崩れて中から白い紙がのぞいた。僕は最後の望みを持って、そっとその白い紙を手に取り、自分でも分かっていない“何か”を探した。そのほとんどは意味をなさない便せんや封筒の切れ端だったが、そんな中にかなり燃え残っている写真が一枚。そこには若いときの母であろう姿と、その母と同じ年頃の若い男が並んで写っていた。
「これは誰だろう?」
 僕は心に思った事は口に出さずにそう呟いた。そして手がかりを探すべくもう一度燃え残りに目を向け、やっと少しの事実を手に入れた。
『高校の……僕ら……楽しかった……ずっと……いられなくて……』
 手紙に残っていた数片の文字。それは僕の知らない母の青春時代の証だった。僕は手帳に写真を挟むと、僕と同じ年代を生きていた母の顔をじっと見つめた。そしてその視線をゆっくりと隣の男に移す。その瞬間、僕は彼を捜し出そうと決めていた。それは僕の知らない母の過去を手にする一番の近道に思えた。
 翌日、僕は今まで興味もなかった母のリサイタルのパンフレットを手に取り、そのプロフィールから通っていた高校を知った。それからはその高校の周辺で写真を見せながら地道な聞き込みを続ける毎日だった。そんなじりじりとするような日々が永遠に続くんじゃないかと思ったある日、ついに僕は彼にたどり着いた。
 母と一緒に写っていた男は母と同じ歳で今は春川の大学の数学講師。行商に歩いているという人の良さそうなおばさんがそう教えてくれたのだ。その事実は僕の疑問を確信に変える。
 それから僕は母の留守を見計らっては男の家に行き、夜の闇に紛れて家の中を伺うようになった。それは最初、好奇心を満たすだけの行為だった。でも窓から漏れる家族の笑い声とその温かな空気を感じる度に、僕はそれを好奇心だけで終わらせたくなくなった。
 僕の想像力は僕が男に会う時を期待している。その膨らむ気持ちがいつしか僕を突いた。
 でも本当に僕を動かしたのは、もう一つの事実の方だったのかもしれない。実はその家には僕と年齢がほど近い息子がいた。
 僕はあの息子の影。
 そう考えると押さえきれない妬みが心の中に渦巻くようだった。
 彼が通っていた高校に転校したいと母に申し出たのはそんな理由からだ。僕は彼と同じ場所に立ってみたかった。
「どうして今なの?もうじき米国に行くのよ」
「だからだよ母さん、今しか行けない」
「でも、ここからじゃ通えないわよ」
「じゃあ、僕だけでも引っ越すよ」
「ジュンサン……」
 母はそう言うなり、冷ややかな眼差しを向ける僕を黙って見つめた。そしてしばらくしてから「好きなようにしなさい……」とだけ短く答えて部屋を出て行った。それから僕は昔、母が住んでいた家に最低限の荷物を運んで移り住んだ。
 それからはユジン、君も知っているだろう。転校初日に君と逢い、そしてサンヒョクに逢った。
 ただ、サンヒョクの顔を見たときは僕も驚いた。まさか自分と同級生でしかも同じクラスになるとは思わなかったからだ。
 僕がなぜサンヒョクを嫌っていたか君は不思議がっていたね。理由はこれで分かっただろう。あの笑い声が溢れる男の家にいたのがサンヒョクだからだ。何も知らずに一人息子として育てられた優等生の学級委員は、隠れてタバコを吸う僕と違ってきっと両親の自慢の種なんだろう。
 でもこうした限られた期間で、相手と距離のない所に住みだすと、僕は無性に自分の存在を認めて欲しくなった。それに、あの人がどんな人なのかも、僕のことをどう思うのかも知りたい。そうして僕はキム教授本人に近づき、さらなる好奇心を満たした。ただ、サンヒョクが僕の事をこっそり調べていたことは誤算だった。父の事を母に聞いても教えてもらえず、決め手のないままの僕の行動だ。それをサンヒョクに伝える事はやはり出来ない。だからあのとき、サンヒョクの質問に「そうだ」と答えたんだ。君を傷つけるつもりなんてなかった。
 ごめん、ユジン……。僕はあれからずっと心でそう思っていた。君が目を合わせてくれないどんな時も。
 でも君は誤解を解く糸口さえも僕に与えてくれず僕から遠ざかる。僕は正直、途方に暮れた。やっと出来た友達と仲直りする術も僕は持たない。
 そんな最中、山で迷った君を見つけたときの僕の嬉しさ。君に分かるだろうか? 僕は本当に嬉しかったんだ。あの時、君を見つけられなければ僕は大切なものを失うところだった。
 君に逢って僕は変わった。
 暗く閉ざされていた世界が君のおかげで少しずつ開け、僕はいつしか普通の生活を楽しんでいた。父や母に埋めてもらえなかった心の隙間を君が埋めてくれる。君を見つめて生きていけば影の国から出られる。そんな気持ちにさえ、君はさせてくれた。
 <初めて>をピアノで弾いて録音する時も、初雪が降って湖で君が来るのを待つ間も、僕はとても幸せだった。心が温かさで満たされる喜び、それを与えてくれたのは君だ。だから僕はこれから、湖で過ごした時間を宝物に過去に捕らわれず生きていける気がしていた。あの夜、あの写真を見るまでは。
 僕は完成させたと思ったパズルのピースをはめ間違えていたのか? ユジン、君の父親がなぜ? 僕の父は、本当は……。
 僕はさんざん考えたあげく真実を知るのを止めた。真実を知ったら、僕は君の手の温もりも、あのキスも失ってしまう。それだけは、君との思い出だけは消したくない。
 ……ユジン好きだよ。
 大晦日に言うはずだったこの言葉。
 ……ユジン愛してる。
 とても言いたかったのに。
 君の前から消えてしまう僕を許して。