戻るべき場所



「当機はまもなく仁川国際空港に到着致します。乗客の皆様、安全の為にシートベルトをお締め下さい」
 ユジンはアナウンスに気が付くと読んでいた本から顔を上げ、前方にあるシートベルト着用のサインを見つめた。フランスから韓国までのフライトは長かった。でもその距離の長さはユジンにとって、自分の気持ちの整理をする為に必要な長さでもあった。
 自分の戻るべき場所はここしかない。それは分かっている。けれど母国であるこの地に降り立つには、それなりの覚悟と勇気が必要だった。
 ユジンは読みかけの本に栞を挟むと、手荷物鞄にそれをしまい、座席の横に手を伸ばした。シートベルトを締めると心なしか気持ちがキュッとする。ユジンはその心地よさを胸に止め、これから広がるであろう景色に期待しながら顔を窓の方に向けた。
 空の色は白濁として雲が低く、地面は一面の銀世界。
 季節が冬を通り過ぎてしまったとしても、ユジンは自分の思い描いた季節が窓の外にあると信じたかった。そして出来るなら、あの冬の初めに戻りたいと願っていた。しかしそんな想いで外を眺めても、春霞の空はユジンを現実に引き戻す。
 彼がいない現実――。あれから三年が経ってしまった。
 ユジンは天井を見上げると、涙が出そうになるのをこらえて唇を噛み締め、自分を愛してくれた彼を記憶の中で思い出していた。
 若かった時の陰りのある横顔、そして再会した後の朗らかな笑顔。白い雪も、輝いていた湖も、青い海も、白い砂浜も。
 無くした記憶なんて一つもない。彼はずっと私の中にいる。
 (私、あなたの言う通り、ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝て、強く生きてきたわ。その事は褒めてくれるわよね)
 ユジンは改めて、そっと心で呟いた。
『ああ、偉いなユジン』
 心の中の彼が答える。
 その声も、口調も、顔つきも分かってしまう。その切なさが再びユジンの涙を誘った。今度は先ほどと違って上手く涙を止められそにない。飛行機の窓に映る顔がぼやけて見える。
『泣いちゃダメじゃないか』
 再びジュンサンの声がする。ユジンはその声に止められない涙を拭いながら、彼の為の笑顔を探していた。

 ポラリスの黄色いドアの前に立つと、懐かしさがこみ上げてくる。
 学校を卒業してから、先輩のジョンアさん達と相談して決めた会社名のポラリスには、自分を迷わせないで導いてくれる道標であれという想いが込められていた。
もちろん、ユジンにとってはそれだけではなく、ジュンサンとの思い出もその中に生きている。だからこの場所に来ることは、彼の導きでもあるとユジンは思っていた。
 季節が移り変わっても、同じ位置で変わらずに自分を見守っていてくれるポラリス。そんな風にここだけは、以前と何も変わらずにいて欲しい。ユジンはそんな祈りを込めるような気持ちを胸に秘めながら、ゆっくりと重いドアに手を掛けた。
「こんにちは」
 3年前と同じ場所で机に向かっているジョンアを見つけると、ユジンはまるで、営業に来た業者のように声を掛けた。その声を聞いてジョンアが面倒くさそうに顔を上げる。が、次の瞬間それは驚きに変わり、ジョンアはニコニコしているユジンを前に、目を白黒させたままポカンと口を開けていた。
「ユジン……? ユジンなの?」
 しばらくして、ジョンアはやっとそれだけ声にした。でも相変わらず目の前のユジンをまだ信じられないという様子で、じっと見上げたままだ。
「お久しぶりです、ジョンアさん」
 ユジンはそんなジョンアを安心させるように、とびきり明るい声を出した。
「まぁ、ユジン! ユジン! 本当にユジンなのね! もう、あなたったら、フランスに行ってから何の連絡もよこさないから、どうしているのかとっても心配していたのよ。それなのに現れるときはこうして突然なんだから」
「すいませんでした、ジョンアさん」
 息を吹き返したように、椅子から立ち上がったジョンアに、ユジンは申し訳なさそうな顔をしてぺこりと頭を下げる。
「まったく、もう」ジョンアはあきれたとばかりに、そんなユジンを見つめたが、それでもその目には再会の嬉しさが滲んでいた。
「それで、こっちにはいつ戻ったの?」
「一昨日です」
「昨日は実家に?」
「はい、そうです」
「お母さん喜んだでしょう?」
「はい、それは」
「もう、ずっと韓国にいるのよね?」
「はい、います」
 ユジンはジョンアの矢継ぎ早の質問に苦笑しながらも丁寧に答えた。その質問の早さにジョンアの気持ちが伝わってくる。
「で、どうするの?」
「え?」
「仕事よ、仕事。生活していくには仕事しなきゃね。それともフランスでいい男でも見つけた?」
「それが……」
 ユジンは苦笑いの度合いを高めて首を横に振った。
「それが……、いい男が見つからなかったので、仕事の方を探さなきゃと……」
「じゃあ、決まりね」
 そこまで話すと、ジョンアは含み笑いをしながら受話器を取った。
「あ、スンリョン、どう調子は? そう、それなら良かったわ。じゃあ今日は早く仕事終わってね。え? 急には無理? 無理でも何でも終わらせるのよ。今日はねこれから新人歓迎会があるんだから。そうよ、凄腕の新人なの美人のね、どう? 終わらせる気になった? じゃあ、早く事務所に帰ってきてね、待っているから」
 ユジンはジョンアの声を、瞳を潤ませながら聞いていた。そして、受話器を置いたジョンアに歩み寄ると、そっとその肩に頭を乗せた。
「お帰りなさい、ユジン」
ジョンアの声は今日一番の優しさだった。
「……ただいま……ジョンアさん」
それから、涙声のユジンの返事をジョンアは両手で抱きしめた。

 飛行機に一人で乗るのもだいぶ慣れたな。
 ミニョンは、これで何度めかになるフライトに、心持ち余裕を持って座席に座った。そんな様子を、客室乗務員は優しい視線で見守っている。彼女は、自分の座席のすぐ前にいる、まだ若い青年のサングラスの奥の瞳が、見えてないことは知っていたが、必要以上には手を貸さない方がいいと思っていた。杖も持たず、こうして気丈に振る舞っているのだ。それは彼のプライドと自信がそうさせている、彼女はそう判断していた。
 日本の学会では、自分のコンセプトが上手く伝わっただろうか? ジュンサンは座席に着くと、昨日終わったばかりの学会に思いを巡らせた。設計者としての能力と技術はあっても、今の自分には表現の仕方に限りがある。その事を、いかに米国で準備してきたとはいえ、反応の読みとれない聴衆に対しての発表は、やはり不安が付きまとっていた。その結果がどうだったのか、真の感想を聞きたい。だが今の自分の周りには、ちゃんとした意見を言ってくれそうな人は一人もいなかった。
「見えないのに、これだけ出来れば十分ですよ」
 誰もがそう言うだけだ。
 その点、これから向かう国にいる先輩は、ユーモアを交えながら核心を突く答えを言ってくれる。その人物評価は大学で一緒だった時も、マルシアンで次長をしていたときも変わらない。頼れる先輩であり、大切な友人だ。そのキム次長に会うのが、今から楽しみでならない。
 だが、母国である韓国行きの飛行機に乗った理由が、その懐かしさだけじゃない事を彼は知っていた。ここまで来たのだから、ほんのちょっと寄り道するだけだなんて言い訳も、この期に及んで通用しないことも分かっていた。
「当機はまもなく仁川国際空港に到着致します。乗客の皆様、安全の為にシートベルトをお締め下さい」
 ミニョンはアナウンスを聞くとシートベルトに手を掛けた。その同じアナウンスを数日前にユジンが聞いたことを彼は知る由もなかった。

「ゲートを出て直ぐの椅子ですと、こちらになります。お迎えの方は来ていらっしゃるでしょうか?」
 ミニョンの腕を誘導するように持っていた空港の案内係は、目的の場所にくると心配そうな声を上げ、キョロキョロと辺りを見渡すと小さなため息を漏らした。
「大丈夫ですよ」
 ミニョンがその様子に安心させようと声を掛ける。
「とても面倒見のいい先輩なので、きっと僕よりも早く空港に着いて、見逃さないように僕を捜してくれていますから」
「そうですか。それならいいのですが……」
「理事!」
 そうこうしているうちに、後ろの方で聞き覚えのある声がした。その声で、ゆっくりと立ち上がったミニョンが後ろを振り向く。
「ああ、やっぱり理事だ。久しぶりですね。髪を切ったんですか?なんだか若くなったような気がしますよ」
 キム次長はたぶん、あの人懐っこい笑顔だったのだろう。その弾んだ声で、ミニョンはこの地に戻った事への安堵を感じていた。
「ご無沙汰していました、キム次長。少しの間お世話になります」
 ミニョンは前を向いたまま、声のする方に手を差し出した。その手をキム次長の手が握り返す。暖かな温もりが人心地を呼ぶ。そして宙を彷徨う瞳がキム次長によって引き寄せられると、ミニョンはその肩越しに懐かしい空気を吸い込んだ。

「美人の案内係でしたね。理事はやっぱりラッキーですよ」
 キム次長の口調は3年前と変わらない。今でも自分の上司をプレーボーイだと思っているようだ。
「なんだ、そうでしたか。ちゃんと見られなくて残念です」
 ミニョンはそんなキム次長の言葉を受けると、本当に残念そうな声を出してから、柔らかな笑顔を作った。
「どうですか? 今でもやはり人の輪郭ぐらいしか分かりませんか? 去年、私が米国に行ったときには、もう少しよく見えるようになるかもしれないと言っていたでしょう?」
「それが思ったより再手術の成果が出なくて。光の眩しさは感じるんですが、それ以上はやはり無理でした」
 その声には、惜しい気持ちはなかった。事実は事実として受け止める事。それはこの三年間でしっかりと学んだことだ。
「理事、でも仕事では、相変わらずいい腕成らしているじゃないですか。聞きましたよ、昨日の学会も評判よかったそうですね。片腕のリ室長との息も合っているようですし、どうですかそろそろ、こちらに戻って、またマルシアンの理事として仕事しませんか?」
「こちらはキム次長が上手くやっているじゃないですか。あ、そういえばさっきから僕、キム次長って呼んでいますが、キム理事だったんですよね、失礼しました」
「いえ、理事に理事と呼ばれるのもなんだか変ですから、それに私は正確には理事代理です。自分としては次長の方が性に合っていると思うし、次長でいいですよ。それより理事はイ理事とお呼びしていいんですよね? それとも、また変わりました?」
「僕もイ理事でいいですよ。僕はイ・ミニョンですから、カン・ジュンサンはニックネームとでも思ってください。戸籍がイ・ミニョンなんですから、混乱を起こさないためにもその方がいいんです」
「でも親しい人は、カン・ジュンサンと呼びたいんじゃないですか?」
 返答の代わりの苦笑い。
 それをキム次長は、きっとウインクでもしながら軽く聞き流しているのだろう。それにしてもキム次長はどうして、こういつも、何気なく答えられないような質問をするのだろうか。この国にいて、カン・ジュンサンと呼びたい人。それはミニョンにとって、今さら面と向かって会えない人達ばかりかもしれなかった。

「もうすぐソウルに入りますが、ちょっと一休みしますか?」
キム次長はそう言ってからミニョンの横顔を一瞥して、車を道沿いの小さな公園に止めた。
「何か飲み物でも」
 ベンチに座ると、キム次長はすぐにそう言って歩き出した。
「ホテルは以前にイ理事が滞在していた同じホテル、同じ部屋にしておきました。その方が家具の配置とか、部屋の間取りとか、混乱しないで済むと思いまして」
「ありがとうございます」
「それと昨日、本社から連絡があって、私もイ理事と同行して米国に来るように言われました。話があるそうです。なんだか怖いですね。ソン社長の大きな声を聞くと、心臓に悪くて」
「先輩でもそんなことあるんですか?」
 近づく足音に笑いながら答えると、程なく、隣にキム次長の座る気配がした。
「ああ、そうだ。日本での学会の結果は資料と一緒にすぐに米国に送るそうです、だから私たちが行ったらすぐに読めますよ」
「そうでしたか」
「出発は明日じゃなくて、明後日でしたね。久しぶりの帰国だし、したいこととかありますか? 何かあるんでしょ?」
 缶コーヒーのプルトップを開けて、ごく普通にミニョンに手渡したキム次長は、何のためらいもなくそう尋ねた。
「それが……、行きたいところがあります」
「どこです?」
「僕が先輩に頼んで建ててもらった家です」
「イ理事、もしかして疑っています? ちゃんと設計図どおりになっているかどうか確かめたいんでしょう。あぁ、そうだ、あそこに行ったら、去年、私がプレゼントしたものが壁に掛けてありますよ。イ理事の大好きなやつ」
「そうなんですか? 何だろう? 楽しみですね」
「それと……」
「まだ他に?」
「ええ……」
 そう言ってミニョンがためらいがちに口に出した住所。
 そこは、どうしても行かなければならない場所だった。