運命の輪



 スーツケースから手紙の束を取り出すと、ユジンはそれを新しい部屋の新しい机の上に置いた。ガランとした部屋には、まだ机と椅子だけしかない。その椅子を引いて浅く腰をかける。
 すると目の前の白い壁が自然と目に入った。不思議な物でそうなると、自分で考えるともなしにインテリアデザイナーとしての思考が頭を巡る。緑の額縁の空に伸びゆく大きな木の絵を飾ろうか、それともアイボリーの落ち着いた柄のキルトを張ろうか。浮かんでは消える様々なデザイン。それはやがて、空想の中で一つになろうとしてお互いに同調を始める。そうなればしめた物だ。このまま目を閉じれば、それはいっそう完璧を目指して頭の中で進むだろう。
 しかしユジンは、しばらくすると視線を壁からゆっくりと自分の手先に戻した。すると、とたんに画像のスイッチが切れ、頭の中は空っぽになる。
 ユジンは頭を小さく振ると、息をついた。
 今はインテリアデザイナーとしての楽しみより、他に想うことがある。何よりここでの新しい生活に慣れなければならないのだ。彼のいない母国で一人で生活する事。それは思い出との戦いだ。
 自分の心に住むジュンサンが、その思い出に引きずられて、いつ表に出てくるとも限らない。きっとこれから、そんな場面が何度も来るだろう。サンヒョクやヨングク、ジンスクやチェリンとは、これからも友達として付き合うんだし、そうなると嫌でも彼は見えてしまう。そんな時、平気な顔でいなければ。そうしなければジュンサンが悲しむ。
 ユジンはジュンサンが自分を置いて旅立ったときの気持ちを今まで何度も考えていた。 
「サンヒョクと一緒に留学して、僕の為に幸せになる努力をして欲しい」
 それは仮面の向こう側で泣きながら、ジュンサンが口にした言葉だった。兄妹だと思い込み、サンヒョクとの幸せを願った言葉だった。でも結局兄妹ではないと分かっても、ジュンサンは一人旅立った。明日をも知れない病気の身では、誰も守れないと判断したのだ。男としてのプライドを持ち、激情に流されることもなく、彼は行ってしまった。
 だからこそ、ユジンはフランスに旅立った。きっとそれこそが彼の希望だったから。プライドを持ち、強く生きると彼が示したとおりの道を、ユジンもまた歩いたのだ。
 ユジンは心の整理を少しだけすると、改めて机の上の手紙の束に目を向けた。
 ベージュの封筒に黒に近い青のインク。そのサンヒョクからの手紙は、規則正しい期間を置いて送られてきていた。そこにはユジンの身を案じるサンヒョクの優しい気遣いが感じられた。

 約束の時間まで後五分。ユジンは、今まで眺めていた友人達の写真を手帳に挟むと、テーブルの上にある部屋の鍵を手にした。
 ジンスクとヨングクの愛娘のジヒョンはどんなに可愛いだろう。サンヒョクとチェリンも変わりないだろうか。ユジンがそんな事を思いながら歩道に立っていると、真っ赤なスポーツカーが横を通り過ぎた。
 こんな車に誰が乗るのだろう?
 そう思っていると、それはシックな黒で服装をまとめていたユジンの少し先で止まり、そして不意にバックしてユジンの横でピタリと止まった。ユジンは怪訝な顔でその様子を見ている。
「ユジン!」
 開けられた窓から自分のことを呼ぶ声がすると、ユジンは後ずさりしそうな体勢のまま、声のする方に目を凝らした。
「サンヒョク!」
 確かにそこにはサンヒョクがいた。しかもシートベルトを外すのに手間取って、バタバタとしている。
 それでもなんとかベルトを外すと、サンヒョクは咳払いをしながら車から下りてきた。ユジンはその姿を見ながら、必死に何かを堪えるように口元を押さえた。
「ユジン、お帰り。どう久しぶりの韓国は、昨日の電話の声からすると、もうだいぶ落ち着いたようだけど」
「……」
「ユジン?」
「あぁ、もうだめ、サンヒョク、どうしたの この車? もうおかしくて……」
 ユジンはプッっと吹き出すと、そのまま笑い転げていた。
「笑うなよ。待ちに待ったユジンの帰国だから無理言って、せっかくユ先輩に借りてきたのに。お祝い事なんだから、車も派手な方が相応しいだろうと思ってさ」
「それって、私がおめでたいって事?」
 ユジンはまだ笑っている。
「ああ、そうだよ」
 ユジンに笑われて口を尖らせたサンヒョクは、そう答えるとニヤリと笑った。
「じゃあ、そのメガネも車に合わせたの?」
「そりゃあ、もちろん」
 サンヒョクの返事に、二人は顔を見合わせた。すると自然に柔らかな笑みがお互いにこぼれる。最後に顔を見て笑い合ったのはどの位前だっただろう。そんなことが懐かしくなるような再会を、サンヒョクとユジンは高校生のような屈託のない笑顔で祝っていた。

「イ理事、本当にここで待っていればいいんですか?」
「はい、そうして下さい。僕、ちょっとこの辺りを歩いて、ここの空気を吸いたいんです。この歩道を真っ直ぐ歩いて、そして帰って来ますから、少しの間待っていて下さい」
「でも理事、見えないのに大丈夫ですか?」
「この辺りの地理はよく分かっていますから、それに人影くらいは判別出来るし、耳は先輩より良いくらいです」
「はいはい、確かに理事の方が耳は良さそうだ。じゃあ、気をつけて」
 ミニョンは車のドアを開けると、足元を確かめながら車を降り、歩道の段差をキム次長に教えてもらいながら上がると、真っ直ぐに歩き出した。街路樹の間から零れる光が、時々チラチラと目に入り、見えない瞳にそれでも少し変化をつけてくれる。
 春の風が気持ちいい。
 ミニョンは何度も自分が通ったこの道に会いたかった。そうして、この道の先のアパートに住んでいた彼女の事を、今こうしながら、思う存分思い出したかった。この三年、片時も忘れる事のなかった彼女。どこにいるのかさえ分からない彼女。その痕跡はもう、ここにしかない。
「ジヒョン、こっち、こっち」
「ジヒョン危ないわよ」
 パタパタと走る小さな子供の足音と、それを呼んでいるだろう男女の声。
 その音にミニョンは歩みを止めた。車の通らない大通りでの声は響く。
 子供の泣き声に反応したミニョンは注意深くその声を聞いた。
「ジヒョンどうしたの?」
「泣かないでジヒョン」
 子供を呼ぶ男女の声を聞いたミニョンは、全身に鳥肌が立つのを感じた。
 この声には聞き覚えがある。そして、この声はミニョンにとって忘れることが出来ない声だった。ミニョンの瞳に懐かしさの涙が溢れる。
 だがミニョンはそこから一歩も動くことが出来なかった。そこは自分が足を踏み入れてはいけない世界だと、分かっていたからだ。ミニョンは遠ざかっていく賑やかな声に背を向けると、元来た道を戻り始めた。
 ユジン、サンヒョクと幸せに。これで思い残すことは何もない。逢えなくても、君が幸せならそれで僕は救われる。
 ミニョンは歩きながら、カン・ジュンサンをその場に置き、そっとそれにさよならをした。それは、これから米国で新しい人生を歩く為に必要な儀式だった。そして、ユジンに別れを告げる儀式だった。ユジンの愛したカン・ジュンサンは、この刹那に消えてしまった。永久に、彼自身の手で消し去ってしまったのだ。

「どうだった、久しぶりに友達に会った感想は」
「安心したわ」
「安心? 何が?」
「みんな、この三年に私が知らない事とか、いろいろとあった訳でしょう。でも全然変わりなく接してくれて、安心したの」
「ばかだなぁ、僕たちは春川第一高校の放送部員、仲間じゃないか、そんなこと当たり前だろう。それに、ここまでくれば腐れ縁さ、、僕たちは死ぬまでこの仲間を大切にするよ。この先、何があってもね」
「うん……」
 サンヒョクはユジンのホッとしたような笑みを見て、テーブルの上のコーヒーに手を伸ばした。実際、ジヒョンがいなければ三年の歳月の長さが感じられないほど、皆を取り囲む空気は軽く、それはどちらかというと高校生の時のノリに近かったと思う。些細な事が可笑しくて、バカを言いながら笑い合う。そんな穏やかな再会が、サンヒョクには何より嬉しかった。
 一方ユジンは笑顔こそ見せたが、内心はサンヒョクの次の言葉に怯えていた。ここから逃げ出したい衝動が、身体の中で湧き上がる。それを押さえながら椅子に座っていると、背中がジンジンと痺れた。
 サンヒョクの持つコーヒーカップの立ち上がる湯気の向こう、そこから、いつ彼の名前が出るのか? その時がくるのをユジンは待ちきれない思いだった。
「ねぇ、サンヒョク、電話で話があるって言ったでしょう」
「あ、うん」
「でも、私、今日はこのまま帰りたいの、ポラリスにも寄りたいし、だから、また別の時にしてくれる?」
「ちょっと待てよユジン」
 サンヒョクは立ち上がりかけたユジンに目を向けると、飲んでいたコーヒーをゆっくりとテーブルに戻した。
「このまま帰るつもり? 何を慌てているの?」
「慌ててなんかいないわ」
「慌てているさ、そうだろう。三年ぶりの再会だ、話したいこともいっぱいある。なのに、君はそんなことお構いなしに、そんな及び腰だ。僕の話だけど、君は薄々内容を分かっているんだろう? だから帰ろうとしたんじゃないのか?」
「……」
「ともかく座れよ、コーヒーが冷める」
 その声で、ユジンはため息を飲み込むようにしながら、浮き上がった腰を元に戻した。
 ユジンだって、逃げることが最善だとは思ってはいない。でも面と向かう気力は、この三年間無くしたままなのだ。それに今さら知っても、自分の気持ちがこんなままでは、それをどうすればいいのかさえも分からない。自分の優柔不断さがこんなに時には酷く悲しく思えた。それでも、今は事実をちゃんと話さなければならない。ユジンは覚悟を決めてサンヒョクを見据えると、やっと重い口を開いた。
「そうよ、サンヒョク、今は聞きたくないの。だからそれでいいじゃない。私がそうして欲しいんだから」
「そうやって逃げてどうするんだ、ユジン。このままでいいのか?」
「いいのよ」
「ジュンサンの……」
「止めてよ、サンヒョク!」
「ユジン……」
 ユジンのこの拒否反応をサンヒョクは理解出来なかった。それでもサンヒョクはユジンの顔を探りながら言葉を選んだ。
「ユジン、じゃあこれならどう? 僕の話したいことは兄さんの事だ。とにかく僕の話を聞いてくれないか」
「サンヒョク、私にとってはどちらも同じだわ。今日はみんなに会った、この楽しい気持ちのまま帰りたいの」
「どうしてもか?」
「サンヒョク、私達は別れたのよ。ジュンサンは私を置いて米国に行き、私は彼を追いかけることもなくフランスに行った。それでなにもかもが終わったの。だから、その後の彼の事を知っても何にもならないわ。それでいいじゃない」
「それが本当ならね」
「それ以外のどこに本当があるの?」
「君の心の中さ、口から出る言葉じゃなく。どうしてこの三年、君はそのスタンスを崩さないんだ? 本心を言えよ。兄さんの今を知りたいだろう?」
「あなたこそ、どうして兄さんって言葉がそうた易く出るのよ? それが本心じゃないでしょう?」
「ユジン!」
 ユジンはサンヒョクの語気の強さにハッとすると、流れていく感情が、どこを刺激しているのか分からないまま涙を浮かべた。
 そんなユジンを見てサンヒョクは優しい口調で話し出した。
「僕の家は真実が分かって確かに滅茶滅茶になった。母さんはあんな気性だから、結婚前の話だと聞いても、父さんをなかなか許そうとしなかったし、僕は僕で、ジュンサンの身ばかり案ずる父さんが理解出来なかった。
でも僕はそれがジュンサンへの嫉妬であり、僕の父さんへの愛情の裏返しだと思ったら、なんとか父さんを許せたよ。それにジュンサンは、明日をも知れない身だったのに、僕の気持ちを汲み取って、君に僕とフランスに行くように話をしてくれた。その気持ちが何だったか僕は知っている。今、僕がジュンサンに抱いている気持ちと一緒だからだ。それに一人っ子だと思っていたのに、兄弟が出来たんだ、それを兄さんと呼ばない手はないだろう。ユジン、僕はジュンサンに会って兄さんと呼びたいんだ。君はジュンサンに会いたくないのか? 彼は米国で生きているんだよ」
 その問いをユジンは痛みを感じながら聞いていた。ジュンサンに会いたくない訳がない。
ただ、それが生み出す運命がユジンには怖かった。またジュンサンに不幸が起こったらそれは自分のせいだとユジンは思っていた。
「サンヒョク、私達は愛し合って、愛を認め合って、愛するが故に別れたの。だから不幸でもなんでもないのよ、愛は成就したんだから。私はこれからも、自分の心に住むジュンサンがいればいい。それで十分なの。それ以上望んだら、罰が当たってしまうわ」
 ユジンはそれだけ言うと立ち上がり、サンヒョクにさよならの笑顔を向けた。その瞳には涙がまだ滲んでいる。
 サンヒョクはその笑顔を見て、かける言葉を見つけられないまま、自分の横を通り過ぎるユジンを黙って見送った。
 柔らかな春の日差しが降り注ぐ窓辺を歩くその後ろ姿に、チラチラと舞う雪が見える。
 ユジンは見つけてくれる人がいないのを知りながら、一人雪の中を歩いていた。

 ジョンアは打ち合わせの席で、目の前の男性の長話に飽き飽きしながらも、なんとか仕事の発注をしてもらおうと笑みを絶やさず、話の合間合間に適度な相づちをうっていた。
 ここが辛抱のしどころだ。
 もう一押しで、仕事をもらえそうなのが長年の経験から分かっているジョンアは、相手の話の腰を折らないようにしながら、いろいろなプランを示していく。
「こんな感じもいいですよ。白い壁は爽やかですし」
「こちらはシックにまとめてあります。落ち着いたトーンで色あわせをすると、格調高い感じになりますから」
 持ってきたインテリア雑誌をパラパラとめくりながら、ジョンアの声は快調だ。
「こちらは最新号の雑誌です。このページの家のインテリアの感じはどうでしょう? 私はお客様のイメージにぴったりだと思うのですが?」
「そうですねぇ……」
 声のトーンからすると、相手は今一歩乗り気ではないらしい。
「それでは、こちらはどうでしょう?」
 ジョンアは次のページをめくると、とにかくにっこり微笑んだ。
「これは、いくらなんでも無理でしょう。こんな豪華にする予算は無いですよ」
 その声でジョンアは初めてそのページにある建物に目をやった。
 瞬間、あれ? っと思った。
 同じような建物をどこかで以前、見たことがあったような気がしたのだ。次のページをめくると更にその気持ちが強くなる。しかし今はお客様の前。ジョンアは頭の中で考えつつも、更なる笑顔を作って次の物件へとページをめくっていた。
 
 ユジンはサンヒョクと別れた後にポラリスに来ていた。三年ぶりの仕事となると、やはりそれなりに準備はいる。それに机に向かいながらこうしていると、家にいるよりはずっと気持ちが落ち着いた。
 そうやって資料を揃えながら、時おりユジンは、ジュンサンをミニョンさんと呼んでいた頃の彼の仕事ぶりを振り返っていた。
 彼は仕事に対して常に向上心を失わず、最善が何であるか瞬時に判断して、それを行動に移していた。最初は時々、大胆にグイッと相手の懐に踏み込むような、そんな彼を苦々しく思っていた事もあった。でも、それも心を開いて見れば何のことはない。良い仕事をしたいという彼の気持ちがそうさせていたんだ。
『相手を理解できなければ、ちゃんとした仕事は出来ません』
 今は素直にそう言った彼の言葉に頷ける。
 ユジンはイ・ミニョンと一緒に仕事が出来た事、そう巡り合わせてくれた運命に感謝した。
「ユジン、ここにいたんだ」
 と、そこへ、階段を下りる足音と共にジョンアの声が響いた。
「久しぶりの仕事だし、家に帰る前に準備をしておこうと思っていたのよ」
 ユジンはジョンアの声で現実に引き戻されると、慌てて忙しそうなふりをした。
「それより、これを見て」
 慌てた素振りのジョンアはユジンの顔も見ないで、素早く雑誌を開いて差し出した。
「ねえ、これ、昔、貴方が設計した不可能な家よね?」
 ユジンはジョンアの声を聞きながら、差し出されたページを凝視した。その顔色がみるみる変わっていく。
「ここまでそっくりなんて、アイデアを盗まれたのかな?」
 これは盗まれたなんてレベルじゃない。ユジンの身体に電流が走る。
「ユジン、誰かに見せたの?」
 見せる? そんな……、彼には模型まで渡している。
「ジョンアさん、この建物がどこにあるか分かりますか?」
 ユジンは自分でも知らない間に、ジョンアにそう尋ねていた。
「あ、うん、出版社に問い合わせれば住所は分かると思うけど、で、どうするの?」
 どうする? と聞かれてユジンはやっと顔を上げた。
「盗作されたとなると問題よね。ユジン、あの時の設計図は持っている? あれば証拠はあるわけだし、どこに出ても大丈夫だと思うけど」
「ジョンアさん、似ているけど、まだはっきり盗作とは……、ちゃんと見てみないと」
「じゃあ、やっぱり見に行くのね。そうね、その方が確実だし、明日、仕事休んで行ってらっしゃいよ」
「えっ?」
 ジョンアは頷いたままユジンの返事を待っている。
「あ、じゃあ……、そうします」
 ユジンはジョンアに背中を押される形で、そう返事をした。
 これは仕事なんだ。ユジンはそう思い込んだ。そうすれば、理由が見つかる。そう決めると、なんだか気持ちが落ち着いた。
 米国にいる彼が韓国に建てたであろう家。それは不可能を可能にした夢の家だった。

「海が近い場所に建てて下さい」
 それが、ミニョンがキム次長に出した条件だった。潮騒が聞こえ、海の香りがする場所であの家に包まれたい。そして、あの海辺で過ごした数日と同じような幸せを感じたい。 その願いが今、現実となって、ミニョンの手と足の感触の中にある。あの夜、徹夜して書いた家の立体図を頭の中心に置きながら、ミニョンは見えない目をつぶり、全ての神経を身体の末端に集中させた。足の裏から伝わる床材の滑らかさや、掌から感じる壁の凹凸。それらは触れるたびに、ミニョンの一部になって呼吸を始める。
 確か、この先の壁の突き当たりの右側はテラス。それが分かるとミニョンは壁から手を離し、息づき始めた家の中をその壁に向かってゆっくりと歩き出した。すると探るように差し出した手が、思ったように壁に突き当たる。自然に笑みがこぼれる。
 キム次長を疑うわけではないが、それでも、自分の想像通りに出来上がっている家を、こうやって確かめる作業は楽しい。
 今度はその壁を触りながら右を向く。すると、その手に壁ではない何かが触れた。
 これは?
 何だろうと思いながら、丹念に指先で触れてみると、その手触りでそれがキム次長の言っていたプレゼントであることに気が付いた。
「また、やっているんですか?」
 そうキム次長に呆れられながら、マルシアンの部屋で埋めていたパズル。
 ミニョンの好きな物……。確かに、そうだった。
 仕事で疲れた頭を解放して、無心でピースを埋める時、ミニョンは徐々に形を作っていくその作業に夢中になった。自分にとって、何もかも忘れていくその時間が大切に思えたのだ。だが、本当はパズルのピースをはめながらミニョンは思い出さなければならなかった。忘れていたことを何もかも。
 ミニョンは自分が二度と作れないであろうそれを、懐かしさを込めて、もう一度なぞってみた。もちろん、眉根を寄せてこれを作ったキム次長の顔を想いながら。
 と、その時、指先が小さな突起に触れ、剥がれ落ちたパズルのピースが指の間をすり抜けた気がして、ミニョンは慌てて床を探した。しかし、その小さな片は見つからなかった。ミニョンはしばらくして探すことを諦めた。自分には探せない事が分かったからだ。それに、このピースはミニョンにはめられたくなくて逃げたのかもしれない。
 そう言えば昔、マルシアンで作ったジグソーパズルも、一つ欠けていたのに、知らない間にちゃんと埋まっていた事があった。あの時も、最後まで誰がやったのか分からなかったけれど、でも誰がはめ込んだって、それが出来てしまえば問題があるわけでもない。きっとこのピースも誰か、はめ込んでもらいたい人が他にいるのだ。 その時を、ここで待つ。それもいいじゃないか。
 ミニョンは立ち上がると、再び手探りでテラスにあるはずの椅子を探し、テーブルの上にあるコーヒーを飲んだ。
 目の前が海だけあって、ここに居ると、コーヒーの匂いが飛んでしまうほど潮の香りがする。その香りとこの家に来られた感慨が、少しだけミニョンをセンチメンタルな気分に誘いそうになった。
 が、あと一時間もすれば、迎えが来る筈だ。そうすれば、この家ともしばらく別れなければならない。
 ミニョンはコーヒーを飲み終えると、その気持ちを抑え、今度はもっと慎重に手足を滑らせて家の中を見て回った。そして最後に庭に出ると家の外壁に触れ、ユジンの設計した家の全てを自分の感覚の中に納めた。
「白いバラよ」
 不意にその声が聞こえたのは、その最後の庭先の事だった。ミニョンの和らいだ指が花に触れると、ユジンの声がしたのだ。
 花……。
 そうか、あれはまだ高校生の時、「好きな花は?」と聞いたミニョンに、ユジンが嬉しそうに答えたあの声だ。
 ミニョンはそれで、ここがユジンの家だという確信が持てた。だからだろうか、ミニョンは最初に上った階段に腰掛けると、思わず振り返り声を掛けた。
「どう、気に入った?」
 その声が、ミニョンの胸の中にいるユジンにしか届かない事が分かっていても、ミニョンは聞かずにはいられなかった。
 ユジンが設計してミニョンが建てた初めての家。愛する人の心が一番素敵な家だと話してくれた、あの雪の日は、もう戻ることはないけれど、それでもミニョンはその愛を今、形に出来た喜びを伝えたかった。

 海に浮かぶ島だなんて。
 ユジンはフェリーから降りると、もう一度ジョンアが調べてくれた住所を確かめた。
 どうしてこの場所なんだろう?
 ユジンは船着き場で教えてもらった道を歩きながら、世間と少しかけ離れたこの孤島に、ジュンサンが何故あの家を建てたのか考えてみた。春の日差しが優しい影を落とす木漏れ日の中を、潮の香りに包まれながら、ユジンはゆっくりと思いを巡らす。そうして、一歩、一歩、ユジンは足を運びながら、自分が今進んでいる道が、段々この世の物とは思えなくなっていた。そして、それは、小高い丘の上で目の前の視界が開かれた時、現実になった。
 綺麗に整理された庭の奥にある白くて大きな家、その向こうに青い海。それは美しい夢の中にある風景だった。
 そうか、夢なんだ……。
 ユジンは家に続く階段を下りながら、心の中で呟いた。あの家は現実にはない私の夢、そしてきっと、ジュンサンにとっても自分の夢の中に取っておきたい家なのだ。
 程なく家の前に着いたユジンは、感慨深げに家全体を見上げると、懐かしそうにその門に手を掛けた。心なしか指先が震えているが、それは緊張のせいだろう。だがその緊張も、一歩中に足を踏み入れたとたんに、波が引くように消えていた。床も壁も、自分の想像以上に出来上がっていたからだ。その懐かしさえ感じてしまう出来ばえに、ユジンは感謝したい気持ちで一杯だった。
 ここも、あそこも、設計図通り。そして、その巡らせていた視線をユジンはある一点に留めると、そこに吸い寄せられるように近づいた。
 やっぱり彼だった。
 その視線の先の壁に掛けられたジグソーパズルが、この家の主を教えてくれていたのだ。
 ジュンサン……。
 ユジンはそっと胸の中で呼んでみた。するとジュンサンからの返事があった。パズルが一ピース欠けていたのだ。それを見つけた時、ユジンはそれがジュンサンからの返事だと思った。
 今度も同じように完成させてくれないか?
 それは、まるでそう言われているように思えてならなかった。ユジンは下を向くと、落ちていたピースを拾い、それをしっかりとはめ込んだ。
 そう、あの時と同じように……。

 やはり、どこか気もそぞろだったんだ。忘れ物をするなんて。カートに乗ったミニョンは、自分のらしからぬ行動に苦笑した。でも、もう一度あの家に入れると思うと、その忘れ物もさほど苦にはならなかった。可哀想なのは、何度も家と船着き場の間を運転しなければならない管理人の方だ。
 ミニョンは管理人に感謝しつつ、あの家に向かうドライブを楽しんだ。
「僕が自分で取りに行って来ます」
 ミニョンはカートを降りると、取りに行ってくれるという管理人を残して再び門をくぐった。二回目ともなると、足取りも先ほどとは違って余裕がある。最初の角を曲がって、そして二つめ、キム次長のプレゼントがある壁は、この先で……。その時、無人であるはずの家の中で音がした。人がテーブルにぶつかる音? 確かにそんな音がした。
「どなた……ですか?」
 ミニョンは音がした方向に顔を向けて、聞いてみた。だが返事はない。
 でも、今の音は聞き間違えでは無かったはず。ミニョンはもう一度聞いてみた。
「どなたですか……?」
 失明してから、ミニョンは感が良くなったと皆から言われていた。その感を信じるならば、確かに誰かがミニョンの前に居るはずだった。
 では何故、何も言わないのだろう?
 泥棒ならとっくに逃げるだろうし、それとも言えない訳があるのだろうか?
 言えない?
 まさか?
 そんなはずがあるわけがない……。
 でも……。
「ユジン……なの……?」
 ミニョンは恐る恐る声を出した。先ほどまで、ユジンを思い、ユジンと一緒に居た気持ちでいたからか、そう呼んだだけで息が詰まりそうだったが、でもそれでも呼びたい名前は一つだけだった。
「ジュンサン……なの……?」
 それは返ってくることのない返事の筈だった。ユジンの声がミニョンを呼ぶなんてあり得ない事だ。でも、どう考えても、その声の主はユジンだった。
「ユジン……」
ミニョンは再びそう呼んでから、溢れ出る涙を拭いもせず、立ちつくしていた。
同じように、ユジンが涙を溢れさせているのを知らないまま。