再び逢うその日 【4】
頬に触れる少しだけ冷たい空気と押し寄せてくる規則正しい波の音。
それが彼の感じることのできる夜明けの全てだった。
だが、そんな朝も今日で終わりかもしれない。
ミニョンは起きあがったベットの上で、ぼんやりとそう考えていた。
三日の期限も今日で終わる。
今日がもし昨日と同じで何事もなく終わってしまったら、ミニョンは明日の朝を待たずにこの家を出ようと思っていた。
そしてその後は…どうしよう…、とりあえず今の仕事を終わらせて、もう一度勉強をしにヨーロッパにでも行って、それから…、それから…
ミニョンは一生懸命に思い付くまま未来を考えた。
だがそうやって考えれば考えるほど胸はどんどん苦しくなり、気が付くと頬には涙が流れていた。
自分の人生の中にユジンを思い描くが出来ない未来は、終着駅がない列車に乗っているように先が見えず、ただ流されるように時を重ねていく自分がいるだけなのだ。
そこには色もなく、匂いもなく、風さえもない。
確かに自分はいるのに、でも周りは薄い膜で覆われていて簡単に手が届かない、そんな距離感がそこにはあった。
それが本当の自分を取り戻してしまった僕の、これからの人生だった。
でも、それでもミニョンに後悔はなかった。
自分とちゃんと向き合うことが出来た今、これからは自分に嘘だけはつかなくていいからだ。
どんな人生でも必ず終わる。
これからはその最後の瞬間まで、存分ユジンを愛する言葉を口に出来る。
ミニョンはすでに乾いて水気の無くなった頬に指先で触れると、恥ずかしそうに微笑んだ。
こんなに泣き虫だったなんて自分でも知らなかった…
ユジン、これから先が思いやられるよ…
でも、これが僕だから、本当の僕なんだから、いいよね…
窓から少しずつ差し込む日の光だけが、その光景を見守っていた。
そして移動する太陽の光が優しくその頬を撫でると、柔らかな暖かさに触れたミニョンは光に向かって顔を上げ、もう一度微笑んだ。
船が桟橋に着くとユジンは誰よりも先に地面に降り立った。
そして駆け足に近い早さでその場を離れると、ひたすら目的の場所を目指した。
朝が早いのにもかかわらず、八月のこの日の気温はすでに高く、それはまるで急ぐユジンの行く手を阻むように彼女の呼吸を荒くした。
途中で何度も日陰に身を寄せ息をついていたユジンは、それでも小さな丘の上から最初に海をバックにしたあの家を見つけた時、その苦しい息を一瞬止めて食い入るようにじっとその光景を見つめた。
彼が待っている。きっと待っている。
ユジンは呼吸を始めると祈りにも似た気持ちでそう呟いた。
そして後はもう、家を見つめながら急ぐこともなくユジンは歩いていた。
ミニョンの、そしてジュンサンの姿をその家にまるで重ね合わせているかのように、ユジンは片時も家から目を離さずに一歩一歩と前に進む。
その姿は他の何も目に入れないで歩く夢遊病者のようだった。
やがていつか見た懐かしい家の全貌がすぐ目の前に広がると、ユジンはそれだけで泣き出しそうだった。
その泣きたい気持ちを押さえて最初の門をそっと押す。
それから階段を上がって息を一つ吐くと、厚い一枚板の扉にゆっくりと手を掛けた。
扉には鍵がかかっていなかったようで、ユジンが力を入れるスッと前に動いた。
ユジンはまずそれで、自分がこの家に拒まれていないのだと安心することができた。
次に靴を脱いで一段高くなっている板の間に上がる。
ここからはまだあのテラスも端の方が少し見えるだけだ。
だがその見える壁には、あの時のジグソーパズルが以前と同じ場所にちゃんと掛けられたままになっていた。
その絵から視線を海の方に向けながら、ユジンはそろそろと板の間を素足で歩いた。
体中が熱く火照っていたので、素足が床を踏む度に感じる冷たさが気持ちよかった。
そしてテラスから吹き抜けてくる風も、ユジンの体の周りを吹き抜けて同じようにその熱を奪った。
そうやってすうっと体が軽くなった瞬間、目の前を遮っていた壁が無くなり、テラス全体がその先に広がる海と共にユジンの視界に入った。
ユジンはここまで音を立てないように細心の注意を払って進んできた。
それは彼を驚かせないためであり、またそうすることで彼がここにいる証を自分自身に信じさせたかったからだ。
それが今、間違いではなかったとユジンは万感の想いの中で感じていた。
涙で霞(むその先で、彼はテラスに置かれた椅子に座り、海風に吹かれていた。
足を組み、ひじをテラスの柵の上に置いてほおづえをつきながら気持ちよさそうに風にあたるその姿はどこにも無理がなく、時々手を伸ばしてテーブルの上のマグカップを探す動作さえ楽しんでいるようにみえた。
どのくらいユジンはそんな彼を見つめていただろう。
まるでその事が目的だったかのように、ユジンは何も言わず同じ場所に立ちつくしてただじっと彼を見ていた。
正直に言えば声を出すタイミングを計れずにいたのだが、それでもこの満ち足りた空間にいることにユジンは幸せを感じていた。
でも、そんな幸せも結局は独りよがりに過ぎない。
ユジンは知っている。
愛し合った者同士が心を通わせた時の、あの心が震えるような至上の喜びを、そしてこのまま地獄に落ちてもいいと思える幸福を。
嵐の海に投げ出されても、稲光が闇を貫く中を逃げまどっても、決してお互いの手を離すまいとする、その気持ちこそが大切なのだと。
そしてそんな二人が共に気持ちを合わせた時、始めてそれは愛になる。
「ジュンサン…」
それは微かな声だった。
うっかりしていれば潮騒に紛れて、泡のように消えてしまうようなそんなか細い声だった。
でも、彼はそれを聞き逃さなかった。
とぎすまされた五感が三日間待ち望んだ声は、たとえどんなに小さくても彼にははっきりと捉えることが出来た。
ジュンサンと呼ばれた彼は立ち上がると声のする方向に顔を向けて、そして懸命に笑顔を作ろうとしたが、それが思うように出来なくて、ついには泣きながら困ったような顔をした。
それを見ていたユジンも、どうにも止められない涙に困り果て、同じように泣きながら困った顔をした。
でも、足だけはお互いが待つ方向に歩み寄ることを忘れず、いつしか二人はその長かった距離を包み込んだ。
最初に触れたのは彼の手だった。
何も言わず手探りで顔を探し当てた彼は、ユジンの頬を伝う涙をそっと拭った。
次にユジンもそっとその頬に触れ、同じように涙を拭った。
「ユ…ジン…」
触れられたことでやっと実感できたのだろうか。
切れ切れに名前を呼ぶその声は切なさで溢れていた。
「来てくれて…ありがとう…」
胸を合わせるように抱いてお互いの存在を確かめ合うと、彼は感謝の言葉を口にした。
「ここまで長かったわ…、本当に本当に長かった」
ユジンは彼の胸に頭を預けると、安心したようにしずくの残るまつ毛を伏せた。
後はもう言葉はいらなかった。
何も言わなくても、瞳と瞳を交わすことが無くても、二人の心が離れなければそれでいい。
それがわかっていたから、二人はお互いの気持ちを誓いにした。
彼の指がユジンの髪の毛からあごのラインをたどり始めると、ユジンは伏せていたまつ毛をそっと開けてゆっくりと彼の顔を見上げた。
そしてその指先が自分の唇に触れると、ユジンは再び目を閉じた。
そのキスは報われなかった歳月を思うと短いものだった。
だが二人にとっては高校生の時に交わした最初のキスのような、そんな初々しさに満ちていた。
第一部 完