ゆってぃの1年ぶり新着レポートが2005.7末に到着、読んでね
自分の好きな分野を学ぶとは何と楽しいことか、文面に表れていますね。
かーなーりお久しぶりでございます。 外山先生は元気ですか?私の高校時代のころとかわらずご活躍されていることでしょう。 さて、近況報告。 今年の二月三月はいろいろあって中国に船で行き、上海、西安、敦煌、ウルムチ、カシュガル、ホータン、コルラ、トルファン…ようするにシルクロードを旅してきました笑。旅費は三週間で二十四万ほど。廉価ですので自腹でした。大学生のスタディーツアーでしたので、他大学の友達をたくさん作れました。 本当に中国とは美しい国です。帰国した矢先に起きた反日デモにはショックですが、TVや新聞などのメディアにはジャーナリズムの偏見が潜在しているということを同時に知りました。帰国したら実家に進級通知が来ていて、私は一年次で60単位を取得、二年生に進級できました。 久しぶりに大学のインサイドレポートを書こうと思ってメールしているのですが、冨士高から多摩美に進学する人は珍しい上に、美大は先輩の意見や生き方というものがたいして参考になるような場所ではないということがだんだんと分かって来たので、インサイドレポートというよりも私の芸術に対する考えというものを書いていこうと思います。 私がこれから打ち込んで行こうと思っているのはあくまで言語芸術の世界。読書におぼれたり新潮社主催の新人賞に応募したり、次に応募しようとおもっている文芸賞に向かって制作をしている日々が続いております。 去年始めたダンスのサークルは続行中で、次の舞台の予定もたてております。今のところ、踊り、絵の制作というのは今後専門的にやっていこうとは考えていません。ダンスや絵が好きであることに変わりはありませんが、好き、とか、自己表現のために芸術をやる、というのでは芸術は成り立たない場合が多いのです。今までの芸術の歴史の中で培われて来た芸術のコンテクストというものにそっていない作品や表現というのは本人が「これは芸術だ」と言い切っても、芸術になりえない場合があります。芸術家というのは独りよがりになりがちな人種ですので私もそのへんのところ、客観的にならないと危ないぞと思いました。 さて、現在の芸術というのはある構造を持っています。「見る側」と「見られる側」が存在するという構造です。芸術というのは特に近代以降、例えば有名なバレエダンサーの作品や有名な画家の絵画やなど「選び抜かれたもの」を観に行くというスタイルが出来上がっていきました。 月並みな表現ですが、これには科学技術の発展が今日の芸術のスタイルに大きな影響をあたえたのはないかと思います。 まず映像や印刷技術が発達したことで芸術作品の礼拝的な価値が失われ、展示的価値が生まれました。これによって何が起きたかと言うと、時の権力者は優れた作品のもっている希少性というものに依存しなくなったということ。以降、芸術は自立した価値判断をひっさげていくことになりました。 「芸術は芸術と言われるところのものであり、芸術は芸術と言われるところのものである」という近代以降の芸術におけるトートロジーも、こういった芸術以外での歴史背景がなかったら成立していない概念であったと思われます。 そうこうしているうちに、芸術の拠点はパリからニューヨークにうつっていきました(二都物語、なんて俗に呼ばれています。ディケンズのじゃないですよ)。 ニューヨークに拠点が移ってからの芸術は今までにもまして非常にポリフォニックで、さまざまな主義に表現の仕方がわかれていきます。この分かれ方というのが本当に複雑で、私はぶっちゃけよくわかりません。一通り習いましたが、難解なものでした。が、これは言えます。「一度分散した表現方法とは二度と一つにはまとまらない」これは面白い発見でした。まるで自然現象におけるエントロピーと同じようで、砂でつくったお城が風にさらされればくずれて、砂はどんどん散らばっていくのと同じように、芸術の進行の仕方も、放っておけばどんどん分散されていくというものなのです。砂のお城を崩すきっかけとなるのが風だとしたら、芸術において風になりかわるのは「天才」です。天才の出現がなければ芸術は歴史を刻めないんじゃないか、というくらい天才の出現は重要です。 アメリカンアートスクール、ネオエクスプレッショニズム、ミニマルアート、ネオダダ、アブストラクトエクスプレッショニズム、アンフォルメルなどなど、このあたりのアメリカの現代美術史に関しては氷山の一角なのでしょうが少し習いましたね。 ポストモダン社会はオリジナルなき時代であると言われます。新しいものとして享受したものが既に過去のイメージのコラージュに過ぎないのです。さらにその過去のコラージュがオリジナルなものとして捉えられ、さらにその先では再びそれが解体され、またコラージュが起こり、また解体されという抜け出せないサイクルがすでに蔓延している。ということで、自分が今オリジナルだと思って書いているこの文章も例えばベンヤミンだったり大学の先生から聞いたことだったりをコラージュしているに過ぎないのです。だいたい、言葉や文化によって侵されているという時点で人間に純粋なオリジナルや個性があるとは言えません。芸術に関しても同じ事が言えるのではないでしょうか。 散漫な文章になりました。今日のとこはこの辺で |
こんにちは、お久しぶりです。 今日は、多摩美の普段の授業で出される課題と小テストの内容について話します。 芸術学科の必修授業に現代美術史があります。おとといこの授業で初めて行われたテストの設問はこうです。 設問@ ジャクソン・ポロックの作品における技法と、空間の描き方について論じなさい。 設問A アンディ・ウォーホールの作品を「消費文化」という視点からからめて、自由に論じなさい。 簡単なテストでしたので、回答欄をびっしり埋めることができました。現代美術史では後期印象派(セザンヌなど)から授業は始まり、キュビズム、シュールレアリズム、ハイパーリアリズム、ミニマルアート、コンセプチュアルアートという基礎的な現代美術の流れを教わります。 先生の好みがあるのでかなり偏った内容の授業ではありますが、私は先生が好きなんで必ず出席するようにしています。 同じく必修の授業、表現研究で先週出た課題は本を一冊作ること、でした。単価210円(無印良品)の厚さ二センチほどある真っ白な本を渡され、どう加工してもいい、何を書いても描いてもいいから全部を埋めてくることと言われました。これは再来週提出なので焦っています。 その他この授業ではグループ研究のレポート提出なんかも今現在やっています。題は「デッサンとななにか」。 またこれも必修の授業、創造の現場では毎週レポート課題が出ます。この授業では毎週他学科の先生を呼んで、創造している現場について(漠然)先生が先生なりに語ったりしてます。作業所にいくこともあるし、作品を手で触らせてもらったりしてます。そしてそれらの授業の感想を書くということですね。 課題の量としてはほかの大学と同じくらいなのかな・・・。きつくはないです。ただ問題なのは自分自身でやらなければ進まないということ。写しは意味がないです。 そういえば、多摩美では毎年「入試参考資料」という、合格者の作品や論文をいくつか選んだものを冊子にして発行しています。そこに私の入試で書いた小論文が載っていました。今読んでみるとひどく浅い知識だけで美術をさも知っているかのように語っている自分が恥ずかしくなりました・・・。 冨士高からもし多摩美を受けようとするなら、一番近道なのはセンター利用することですが、面接や二次試験の対策は高校の指針に頼らず自分でやるのがよいとおもいます。小論文は記述力というよりも元気さと美術にたいするやる気をアピールすれば問題ないです。多摩美の先生は大学に入ってからどれだけのびるかを期待しているのであり、私が入試で書いたようなはりぼての論述力などあまり大切ではないです。一時 しのぎで知識を詰め込んで、入試がおわって大学生になればほとんど忘れてしまうというのは少し悲しい。大学入試をとおして心を塗り替えられてしまったような気になります。でも私は多摩美に入って間違いはないと思ってるんで、自分の言葉を自分の力で話したり論述ができるようにちゃんと学校いって勉強したいと思いますこれからも。 |
こんにちは。私の今までの芸術に関する話と履修している科目についてもうすこし詳しく説明します。 私は小学校から高校一年生にかけてアトリエに通っていました。専攻は油絵でした。美大で油絵専攻を受験する選択肢をはじめは考えていて、それに向かって絵を描いていましたが、 「鉛筆デッサン→木炭デッサン→アクリル→油」という永遠のサイクルの中で何で絵を描いているのか中学生くらいのときに疑問に感じ、その後様々な理由で油絵を封印しました。しかし油をやめても私のアイデンティティは「芸術を生きている」ということでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。高校に入ってからは舞台や舞踊や文学などの分野にも興味をもちだし、美大のなかでもフレキシブルに芸術にふれられる多摩美術大学の芸術学科をえらびました。 あと十年したら油絵の封印をときたいです。結局私は油絵にもどっていくしかないいんだと思います。でも今はほんとうに混沌としているんで、あと十年はブランクをおきたい。芸術は長く人生は短いです、、、、 月→1・2表現研究(必修) 表現研究は木炭デッサン、鉛筆デッサン、フイルムによるアニメーション作成、芸術理論、現代美術史、映像理論と鑑賞、平面構成。。。。など多岐にわたり芸術を学びます。これは非常におもしろく、 3文学 文学は、芥川賞などの著名な文学賞を受賞した経験を持ち、演劇にも精通している青野聰先生のクラスで、授業は出席もとらずほとんどは独断的な先生のしゃべくりで終わりますがこれがおもしろい。新潮社とコネクションを持ち、懸賞金を懸けて多摩美大生から小説家を輩出したいらしい。。。 火→1フランス語 火曜のフランス語は日本人の先生。丁寧な文法を教わります。 2芸術学原論(必修) 芸術学原論は今はグループをくんでプレゼンをやります。美学についての発表なので難解です。「美学辞典」という辞書を使い美学についてまとめたことを各自発表するという形式。 3英語 ネイティブの先生です。英語の授業なのかパソコンの授業なのか。先生は英語で話すのでそれを理解しながらインターネットを扱う、というかんじです。これは、まあ楽ですね。先生は親切だし。 英語の先生とはいえ、彼はアル中です。 水→1素材論 THE・芸術哲学ってかんじ。ハイデッカーやベンヤミンといった哲学思想から「ものがものであること」「様式と形相」「存在への問い」というところから美術作品をつくることへの意義・・・らしきも のを講義する。難解であり、先生も途中でうなりだして授業を中断することがあるといっていました。私にもこの授業の核はつかめません、混沌としてます。おもしろいので聞いてはいるのですが。 2現代美術史(必修) この授業を受け持っている建畠先生は、セザンヌ、マティスなどの後期印象派に始まり、シュールレアリズム、ダダイスム、モダニズム、ポップアートについての知識はすごいです。私は話の半分も理解できてなくて悔しい。ジャクソンポロック、草間弥生(妖怪ばばあと私たちは呼んでいるがポストモダンアートの天才)、マルセル・デュシャン(便器の人といってわかる人はわかる)、アンディー・ウォーホールについてずっと説明してます。スライドを用い、作品をたくさん見せてくれるのは良い。 3芸用解剖学 ファインアート専攻の人は取って損はない自由科目です。生物学的な考察から筋肉や骨格をなまび、作品に応用することができます。 木→1フランス語 ネイティブの先生。授業中無駄口が聞こえるとキレます、怖い・・・こちらは火曜とはちがい声をだすことを重視します。試験は後期に一度しかありません。 2コンピュータ概論 フォトショップなどをつかって画像処理などのグラフ系の勉強ができます。映像などの方面に興味がある人にとってはおもしろいといえますが、パソコンの苦手なわたしにとってはやや難です。しかも毎回課題がでる。 3英語 これは楽です。高校で言うリーダーみたいなもので、長文を予習で訳してきます。高校と同じ要領なのでわかりやすく、また内容はすべてイギリス美術史、印象派などの史実にそったものなので英語と一緒に美術史の勉強もできるかんじです。私としては、もっと量を出して欲しい。 4宗教学 ユダヤ教の歴史です。モーセとか旧約聖書とかの世界についての授業ですが。もっと幅広な宗教をまなびたかった私にとってはあまりぴんと来ません。履修してしまったので、出席してはいますが、興味のあるところけ聞いています。世界史の知識が地味ぃ〜にやくだつくらいでしょうか。 金→2日本美術史研(室町文化) これは中性の美術史です。日本史をしらないのでかなり入りにくいですが、実際に本物の浮世絵などをさわらせてくれるのはうれしいです。しかしぶっちゃけ取った授業の中では一番退屈ですね。 3造形心理学 そのままです。造形心理。人間は色や芸術作品、材料、素材を関知したらどうゆう行動に出てどうこう、とか。十二色相還をみなおしたり、マンセル色素の説明をしたりしてます。 4総合講座デザイン論 ヒッピーや1960年代について、または写真論やルネッサンス関係のこと、といった非常に幅広い分野の説明があり、楽しいですが毎回話が飛びすぎて混乱しています。また陰陽師(?)や建築家、情報デザイナーの先生を呼んで講義をしてくれたりします。これはためになる!人気のある講座で、人が多すぎるので毎週立ち見です。 土→3日本美術史研究(近代) 東京芸術大学の設立以降の美術教育がどうなっていったのか、近代以降の日本における美術がどのようなものであたのかを教わっています。明治以降の美術はリアルで生くさい日本の史実を物語っているのでこの授業が終わったあと、気分が重い。 (課題について) 課題はレポート課題もありますが、制作があるところが美大の特徴でしょう。今まで必修授業でだされた課題は、 たとえば・・・ ・模造紙に線を500本描く。また、描いたことについての感想を2000字でまとめる。 ・5秒間のアニメーションをつくってくる ・平面構成(三原色のポスカを用いたデザイン画みたいなもの) ・石膏デッサン ・プレゼンテーションのための準備 ・”スケール”について考えたことを800字でまとめる こんなかんじです。あとは普通に、語学の予習復習をしています。 あと部活では、八月後半にパルテノン多摩という所の小ホールで舞台がきまりました。 夏は、踊ります。 |
<TOMMY注 6/4に届いた掲示板からの貼り付けです。これも後半に非常に重要なことが書かれています> 無駄に早く学校に来てしまってひまなんで書き込みます。 昨日の深夜二時に、麻布十番にラーメン食いにいきましたところキャバ嬢とよっぱらいと外国人の天国でした。走っている車は大半が外車で、歩いているだけで何度か外国人の方にからまれました。歌舞伎町とはまた違う圧迫感。。。。六本木ヒルズ(超でかい)、ライトアップされた東京タワーと白金をぐるっとまわって世田谷の自宅に帰りました。 東京は面白いですね、美醜も善悪も飲み込んだでっかいバケツみたいなもんです。 そういった街にどっぷりつかりながらいろんなことを考えています。 このあいだ大学で文学を教えていただいている教授に怒られました。 「みなさんは真剣に遊ぶことを知らない。だからつまらないんだ」、と。 そんな理由で怒らなくても、、と思ったんですが確かに私が知っている範囲の遊びって娯楽でしかなくて、遊びが単なる快楽とか暇つぶしに成り下がっていました。 遊ぶって、なんですか? 日本の大学はレジャーランド化している。それは確かです。大学に対してどんな意識をもっているのか、なにをもって大学に入りたいのか、と、いうことを私は高校生に問いたい。高校では「偏差値の高い大学イコール一番いきたい大学」という考え方が一般的ではないかと思うんですが、それでは大学に入ってなにか欠落感を持つと思います。高校生と高校の教師は大学受験にばかり重きを置きすぎていて、入ってからのことは白紙。これはつまらない。大学を選ぶ基準があまりにも画一的。そのような指導しかしてこなかった高校、予備校などの教育機関に散々ハメられそうになった自分に憤りを感じています。 私は、たまびが世界で一番自分の希望に応えてくれる大学であると思います。なぜなら、私は高校時代にはっきりとこれから何をしたいのかとゆうことを明示して、大学を選んだからです。私の学科では主に芸術理論の授業がおおいのですが、私は授業のあとに「今の先生の説明はここがよかったよね」とか「今日やった内容について土日に美術館にいって調べてみるよ」などと友達と議論が発展できるくらいかなり真剣に授業を聞いています。また分からなかったら先生をつかまえて話し合っているひともいます。 問題意識を持たない大学生は授業料と時間を無駄にしていると思います。大学のネームバリューなんて人間の探究心や問題意識に比べたらちっぽけなもんです。 大学というのは真剣に遊び、混乱し、悩むための場所です。その混乱や悩みをしっかりと抱えて社会に出て、どれだけ自立した人間になれるのか。せっかく四年間あるんだから、この期間を利用しない手はない。モラトリアムの意味を自分でよく考えてほしい。高校生にそう伝えたいです。 |
とりあえず私の履修表送ってみます。 月→1・2表現研究 3文学 火→1フランス語2芸術学原論3英語 水→1素材論2現代美術史3芸用解剖学 木→1フランス語2コンピュータ概論3英語4宗教学 金→2日本美術史研(室町文化)究3造形心理学4総合講座デザイン論 土→3日本美術史研究(近代) 英語は、ワーズワースの詩などを大胆に訳したり英語でパソコンを使ってみたりします。ネイティブの先生とは当然すべて英語で会話をします。頭を使うとゆうよりカンを使う授業ですね。私は富士高できたえられた予習復習のヘンな癖が語学で活かされ、たまに訳の書いたノートを友達に貸したりして昔を思い出してます笑(^^; 授業は全て始終静かです。喋っていると隣の学生に怒られたり。五百人を収容する混雑した教室で授業をしても無駄口が聞こえないのは嬉しいです。 また、立ち上げたサークルは衣装作り・撮影・振り付けを全て自分たちで運営してます。ちゃくちゃくと作品ができてきました。放課後はダンス&バイト(新宿のオペラシティで)です。デッサンや製作もやるのではっきり言ってろくに自炊できません笑。深夜、バイト帰りに先輩とラーメンの美味しい店を探して食べたり友達と飲んだりするのが楽しいくらいです。 |
なんと、もう同好会を組織したぞ お久しぶりです。先生は元気ですか?私は最近、部活を立ち上げました。ダンスと劇の部活で同じ学科だけで人数が結構あつまってます。目標は六月にある世界規模の大会で、作品のビデオクリップのエントリーをしたいです。多摩美の先生たちは『たくさんの作品を創って壊して、混乱して悩め。』と言っています。授業はとても静かで他学年の授業でも皆真面目に受けてます。美大は先生も学生もシビアな生き方考え方を持ったひとが多いですが、それの雰囲気が私には合っているようです。国公立の大学だけじゃなくて、たまには美大もそれとなく富士高生にすすめてみてください。大学で真剣に遊びたいなら美大が最適です。 |