ルソーの軌跡(第3回目)
H埼君の研究 某F高校に、日本の神話学を研究している、H埼君という生徒がいます。あの思想家のルソーに似ているのでルソーと呼ばれています。
彼の研究に敬意を表して、独立したページにすることにしました。
某F高の文系諸君、彼に続いてどんどん投稿しましょう。(理系分野の投稿は画像でお願いね)
前に八幡宮特集をしたんですが、筥崎宮をすっかり忘れてました。よって訂正お願いします。 筥崎宮は日本三大八幡(宇佐神宮・石清水八幡宮・筥崎宮)のひとつです。 御祭神は八幡神であり、八幡神を祭る神社はたいてい○○八幡と名乗るのですが、ここは単に「筥崎宮」といいます。延喜21年に観世音寺の巫女の託宣により建てられました。 秋の放生会が有名です。また拝殿の額の「敵国降伏」は元寇の際に、亀山上皇が書かれたものです(ただし実際に張り出してあるものはそれの拡大コピー)。亀山上皇はこの神社の近くの東公園に像が建っています。 太平洋戦争のあとアメリカ軍が来て「あの額はけしからん。その上皇の像もつぶせ」と主張したのですが、博多の商人たちが大団結して(かなりのお金も動かして)守り抜いたと伝えられています。 今回は高原教室に行って東照宮を見たから東照宮特集という期待を裏切って、日本人でありながら意外と知らない神社の意義や礼拝の作法を勉強したいと思います。 〜神社の意義〜 神社は神様がおられる所、あるいは神様と接触または通信できる場所です。 そこでは、真摯な気持ちで神様に感謝し、願い事を念じれば、その思いはきっと神様に届くことでしょう。 しかし、むろんよこしまな願いや自分勝手な思いは神様は聞いてくれません。西洋の諺に『天は自ら助くるものを助く』というのがありますが、日本の神様も同じです。 自ら十分努力し、目標にむかって一生懸命な者にこそ、神様の恩恵はもたらされます。勉強もせずに大学に合格したいとか、働きもせずにお金をもうけたいとか、そういう人にはいくら多額のお賽銭を入れても神様は知らないというでしょう。 神様に願うことはどこででもできますが、やはり神社のある場所は、神様と触れやすい場所です。昔から日本人はそういう場所を見つけては、きれいに鳥居で結界して、その場所を神社として守ってきたのです。 元々神社には神殿のようなものは無かったといいます。しかし6世紀に朝鮮から仏教が入ってきて、そちらがお寺を建て始めますと、神社にも建物が欲しいという声が高まり、神殿や拝殿が建てられるようになりました。その中でも石上神宮などは古式を守っていて大正時代まで拝殿のみで本殿はありませんでした。 〜参拝の作法〜 神社に入る時は、きちんと鳥居の下をくぐりましょう。決して、鳥居の外側から不法侵入しないように。不信心な者が鳥居を通ろうとすると、「おとろし」という鳥居を守る妖怪がその人の上に落ちてきて、体が重たくなるともいいます。 そして鳥居をくぐる前に衣服を整え一揖(いちゆう)をします。 一揖とは、揖(浅いおじぎ)を一回することをいいます。 手水舎では水で両手を清めて、口をすすぎます。 このことを「手水を使う」といいます。 手水舎の水盤には、たいてい「洗心」という言葉が彫られていますが、これ には両手を清め口をすすぐことにより、心(魂)も洗い清めるという意味があるのです。 自分で手水を使うときの作法は、まず右手でひしゃくを持って水を汲み、左手にかけて左手を清めます。 次にひしゃくを左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。 再びひしゃくを右手に持ち、左の手のひらに水を受け、その水を口にふくんですすぎます(このとき、ひしゃくに直接口をつけることは誤りです)。 口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手にかけます。 最後に水を入れたひしゃくを立て、柄に水を流してからひしゃく置きに伏せて置きます。 手水奉仕を受けるときの作法は、まず両手で水を受けて、両手を清めます。 次にもう一度両手に水を受けて、その水で口をすすぎます。 そして、さらに両手で水を受けて、再び両手を清めます。 最後に拭紙(ぬぐいがみ)で口を拭ってから手を拭います。 神前に向かう道を参道といいますが、その中央は正中(せいちゅう)といわれ、神さまの通り道とされているので、そこを避けて歩くことが神さまに対する礼儀とされています。 賽銭箱に賽銭を入れたあとに、鈴のある神社では鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝の作法にて拝礼します。 ちなみに、二拝とは拝(深いおじぎ)を二回することをいい、二拍手とは拍手を二回することをいいます。 これが参拝の基本作法ですが、二拝二拍手一拝の前後に一揖を加えると、いっそう丁重な作法になります。 今回は基本的な参拝の事柄しか説明しませんでしたが、今後は人生儀礼や四季の祭りと行事、家庭祭祀など意外と知らない日本の伝統や神社と神道について考察、説明していきたいと思います。皆様からの質問も受け付けることにします。(例えば地鎮祭や七五三、門松や七夕など)神様や神社についての疑問でも構わないですし、気軽に質問してください。質問先はとりあえずtommy先生のところへお願いします。 今回はこんな感じでよろしいでしょうか?最後の一文がご迷惑なら質問先はhana-shun@mbd.nifty.comまで に変えてください。あと今日聞き忘れたんですが、今回の期末テストに宇佐八幡宮って解答がありました が僕は宇佐神宮で書いたんですよ。前回の八幡宮特集でもやりましたが正式には宇佐神宮なんですけど、駄目ですか〜? 最後に中禅寺湖で池谷先生も交えて江戸城の鬼門の話をしましたが、思い出しました。 鬼門に当たる北東方角を守っていたのが寛永寺と浅草寺、江戸城の南西、裏鬼門を守っていたのが日枝神社と増上寺です。 それでは〜 |
八幡神社の考察 八幡神とはいわゆる「はちまん様」で、応神天皇だとされています。源氏の氏神とされ、強力な武神として奉られています。「南無八幡大菩薩」という言葉に出てくる八幡もこの八幡神の事であり、強力な霊験の加護を願ったそうです。八幡神は全国の八幡宮に奉られています。そこで、八幡宮特集です。 まず、八幡神発祥の地である宇佐神宮。一般には「宇佐八幡」で通っていますが、現在正式には「宇佐神宮」と称しています。 この神社の御祭神は応神天皇(誉田別尊:ほむたわけのみこと)とその母の神功皇后(息長帯姫命:おきながたらしひめのみこと)と比売大神ですが、この比売大神については、宗像の三女神の多岐津姫・市杵島姫・多紀理姫であるとされています。従って三柱神なのですが、実際には神様は5人いらっしゃることになります。 八幡神は最初この神社の近くの御許山(奥宮)に顕現し「私は誉田別尊である」と語ったといわれています。その後何度か移転したのち、神亀2年(725)に第一殿が現在地に作られ、その後、第二殿・第三殿が作られました。 この宇佐八幡の神殿は改築する時もその場所を絶対に動かしてはならないという言い伝えがあり、それはこの神殿の地下に何かが埋められているためとされます。前回の改築の時に技術者が「移動しないと無理だ」と主張して神社側と対立したため、それを実際に掘ってみたとのこと。果たして言い伝え通りに何かが埋まっているのが確認されたため、技術者も納得して、移動させない改築法を考案したとのことです。むろん何が眠っているのかは分かりません、神域なので調査もできないそうです。そして、宇佐八幡が中央の政治に関わったのは3度あります。 一度は東大寺の大仏鋳造の時。この時宇佐八幡を信奉する高度な金属加工技術を持つ一団が奈良へ出かけて技術協力を行い、これにより東大寺は宇佐八幡の加護を受けることになり、宇佐八幡は東大寺から八幡大菩薩の称号を受けることになります。神社とお寺が協力しあった第一号とされます。 二度目は道鏡が皇室の血統を揺るがした宇佐八幡御神託事件の時。三度目は安徳天皇に絡むものです。安徳天皇は源氏に追われて西海へ逃れ、一時期この宇佐八幡に立ち寄ったという説があります。その時、安徳天皇の行く末を考えて、当時の宮司が自分の息子を身代わりを立てたという説が宇佐八幡に伝わっており、結局壇ノ浦に沈んだのはその身代わりの少年であるという話になっています。 次に応神天皇の出生の地である宇美八幡。神功皇后は妊娠したまま軍の指揮を執って朝鮮に侵攻しましたが、その戦役から戻ってきたあと、この地で皇子をお産みになりました。お産みになられた場所ですので「うみ」と称します。この神社にはたいへん古い楠の巨木があり、だいたい1500年ちょっとたっているらしいです。あるいは応神天皇がお産まれになった時、植えられた木なのかも知れません。 そして、有名な石清水八幡。 八幡神の関西における最大の拠点です。 貞観元年(859)に奈良大安寺の修行僧が宇佐八幡のご神託により建立しました。以後、朝廷から伊勢の神宮につぐ第二の宗廟として篤い信仰を受けるようになりました。 鎌倉の鶴岡八幡はここの分霊を祭ったものです。 石清水八幡は、桂川(京都の南で鴨川と合流済み)・宇治川・木津川の三川合流の地にあります。ここから先の川の流れを淀川といい、大阪湾に注ぎます。 木津川の上流には岡田があって、奈良盆地に朝廷があった時代、重要な交通の要所でした。宇治川はもちろん琵琶湖から流れ出してきた川です。そして桂川・鴨川の上流に京の都が展開しています。 この石清水八幡宮のある場所は古代の交通の要であり、当然軍事的な要所でもあります。対岸の山崎・天王山の付近で、羽柴秀吉と明智光秀の決戦が行われました。 最後に八幡神の関東における最大の拠点である鶴岡八幡宮。 康平6年(1063)に源頼義が鎌倉の由比郷に石清水八幡の分霊を祭った(元八幡)のが最初で、その後源頼朝がそれを現在の下拝殿付近に移し(若宮)、鶴岡八幡と称しました。その後建久2年(1191)に社殿が焼けてしまったため、頼朝はその後ろの丘の上に神社を新たに作り、ここに改めて石清水八幡の分霊を勧請します(本宮)。しかしその後下の若宮も再建されたため、ここにはなんと石清水八幡の分霊が2つ来ていることになります。 鳥居を通ってから、参道のど真ん中に舞台があります。ここが義経の愛妾・静御前が頼朝・政子を前にして「君が代」を舞った舞台です。 その先、石段を昇って本宮へ行きますが、この途中に公暁が隠れていて源実朝を暗殺したわけです。 鶴岡八幡には源氏三代の記憶が強く刻まれています。 こうしてみると八幡神は歴史上色々なところで関わっているのが分かります。 そんな八幡神を知らなかった自分が恥ずかしいです。授業で戦いの神と聞いて、自分が頭に浮かんだ神様は経津主神でした。 でも自分の知識の中の経津主神は、強い霊力を持った神剣「布津御霊」の神格化とされていて、武神として朝廷や武家に信仰されてきているってことぐらいでした。そこで、ついでに経津主神についてに調べてみました。 経津主神は日本書紀において、建御雷之男神と一緒に、葦原中国平定を成し遂げた神様です。 ただし、古事記や旧事本紀では、この神様は建御雷之男神と同じ神様であるとされています。 千葉県と茨城県の県境付近に、対をなすように、香取神宮と鹿島神宮が建っていますが、この香取神宮にお祭りされているのが経津主神、鹿島神宮にお祭りされているのが建御雷之男神です。この両神は後に奈良の春日大社に勧請され、その後全国の春日神社でお祭りされるようになりました。 しかし、経津主神については、元々、奈良の石上神宮にお祭りされている布都御魂神と同じ神様であろうと、一般に考えられています。 まず、基本的には、石上神宮にお祭りされている神様が、布都御魂大神あるいは、布留御魂大神と申し上げます。 この神の名は、剣を「振る」の意味、また剣を振った時に「フッ」という空気を切り裂く音がすることから生まれたものと言われています。古代に朝廷の軍事を統括していた物部一族が祭る重要拠点であり、ここは朝廷の武器庫でもありました。 古事記の神武天皇の章によると、神武天皇東征の時、天照大神と高木神が建御雷之男神に託して神剣を神武天皇に届けさせました。この剣を布都御魂といい、これが石上神宮の御神体となっています。 また、この神社には、蛇麁正(おろちのあらまさ)あるいは天蝿折剣(あめのははきりのつるぎ)と呼ばれる剣も奉納されました。これはかつて素戔嗚神が八股大蛇を退治した時の剣です。これは日本書紀神代上の一書に書かれています。また、ここには国宝・七支刀(ななつさやのたち)も奉納されています。これは日本書紀の神功皇后の巻で神功皇后52年9月に百済から奉られたと記されている剣で、物部一族の象徴・神宝ともいえる剣です。 余談ですが、天理教はこの石上神宮の関連の祈祷師の助手をつとめた中山みきが創始したらしいです。 |
4/23(火) 因幡の白兎と大国主命の神話を掲載する(H埼君の投稿) |