猫のいる生活


 ふと、頬に湿り気を感じた。
 暖かな午後の昼下がり。今日は会社も休みなのでゆっくりと惰眠を貪ろうと思っていた。窓からは心地良い春の陽光が差し込んできて、僕を布団ごと温めてくれていた。外からは近所の子供がはしゃぐ声が聞こえてくる。
 そんな平和な休日の午後を〈こいつ〉は邪魔をしてくれた。気持ち良く寝ていた僕の頬を、起きろ起きろと舐めてきたのだ。それがあまりにもしつこかったので、僕は観念して〈そいつ〉を抱き上げつつ起き上がった。
「わかった、お前の気持ちはよーくわかったから人の顔を舐めないでくれるか?」
 僕は目線の高さに抱えた〈そいつ〉に向かって言った。
「まあ、いつまでも寝てるってのも体に悪いしな。サンキュ、クロ」
 布団から這い出しながら、僕は〈そいつ〉、クロを床の上に下ろした。クロはすっと脚を伸ばして数歩前に進んでから、僕の方を見上げた。これからどうする?と聞いているようだ。
 クロは猫だ。去年の暮れ、雨の日の夜に道端で出くわして、気まぐれでそのまま拾ってきた。僕は生き物を飼ったことがほとんどなかったので、最初はどうしていいものか悩んだものだが、クロは自由気ままにやっているので、僕はそれほどやることはなかった。名前の由来は、その体毛の色。拾ってきた時は薄汚れていたのだが、洗ってみるとなかなかの毛艶だった。シルクのような光沢を持ったその毛並みを、クロ本人も密かに自慢にしているのだと勝手に想像していたりもする。
「まずは顔洗ってスッキリするか」
 僕は寝巻きのまま洗面所に立ち、冷たい水で顔を洗い、歯を磨いた。玄関の郵便受けから朝刊を取ってテーブルに置き、台所でお湯を沸かす。それから沸騰するのを待つ間にクロへ餌をやった。その辺りに売っているごくありふれたキャットフードだが、クロはあまり質には拘らないようだった。たまに食べずに外へ行ってしまうこともあるが、それもまた気まぐれだ。
 沸いたお湯でインスタントコーヒーを淹れ、テーブルについてさっきの新聞を読みつつ食パンをかじった。
 新聞の記事はどれもいつもの通り。誰かが汚職しただのアイドルの秘密の恋人発覚だの殺人事件が起きただの……。別に真面目な話を載せるなというわけではないが、そればかりなのもどうかと思う。そういう面ではスポーツ新聞には好感が持てた。さすがにあの軽さには参るが。
 遅めの昼食を軽く済ませ、僕はクロと外へ出た。と言っても、一緒に行動するわけではない。僕は僕の、クロはクロの行きたいところへ行くのだ。
それがお互いに交わした暗黙の了解だった。
 民家の屋根の向こうへ消えていくクロを見送り、僕は駅前へ向かった。それほど都市圏から離れてはいないこの街の駅前はそれなりに賑やかだ。一通りの商店も軒を連ねているので、今日のような晴れた休日には親子連れやカップルなどで溢れ返る。クロと二人暮しの僕は当然独り身なので、なかなか肩身が狭く感じてしまう。いや、狭いというよりもちょっとした疎外感だろうか。あまり人と関わるのが上手くない僕には、人と人との関係に溢れたこの場所は少し居心地が悪かった。
 さっさと必要な物を買って帰ろうと雑貨屋へ足を向けたとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
「うわっ」
「おいおい、そんなに驚くことはないだろ?」
「え……ああ、石田か」
 振り向くとそこには大柄な男。高校の同級生の石田だ。在学中は柔道で県大会まで行った実力者だった。
「しかし久しぶりだな。どうだ、ちゃんと生きてるか?」
「ああ、まあね」
『ちゃんと生きる』ということがどういうことかはわからなかったが、死んでいないのは確かなのでとりあえずそう答えた。しかし石田には少し弱弱しく見えたようだ。
「なんだなんだ辛気臭せぇ顔して。就職はしたんだろ。まさかフリーターやってるわけじゃないよな?」
「ばか、そんなわけないだろ。これでもそれなりに社会人やってるさ」
「そうか、ならいいんだけどな」
 それから僕たちは近くの喫茶店へ入り、暫しの時を想い出話に花を咲かして過ごした。石田と話したことで、さっき感じた疎外感が少し薄らいだ気がした。しかし同時に、自分にはこの孤独を癒してくれる存在が近くにいないことも痛感した。所詮、僕は一人でしかいられないのだ。そういう生き物なのだ。
 石田と別れた後、スーパーで二、三日分の食糧を買い、ついでに切れかけて切れかけていた洗剤も買って外へ出た。
 旧友とすっかり話し込んでしまったからだろうか。すでに空はほんのりと赤みを帯びていた。蝋燭の火を広げたような、淡い炎。それは燃えるには弱弱しく、しかし薄く伸びた雲にはあまりに強烈だった。そんな空の情景に目を向けているうちに、いつものあの場所へ行ってみたくなった。
 商店街の脇道を奥へ進み、最初の角を左に曲がったところにあるその店はある。周りの民家から完全に浮いてしまっているその西洋風の建物に、初めてここを訪れた僕は言い様のない魅惑を感じた。まるで魔法にでもかかったように僕はフラフラとこの店に入り、そこで数々の奇怪な物を見た。変な格好で逆立ちしている道化師、にんまりといった表現がぴったりな女性の笑顔、棒切れにすがりつく少年、頭に何本ものネジを捩り込まれた男、木の根元に密集して生える足、枝からぶら下がった無数の手。それらはすべて置物だった。棚や床に並べられたり、宙に吊るされたりしてそこら中に飾られているので足の踏み場もない。気をつけて足を運ばなければその陶器の置物を蹴り倒してしまいそうだった。
 前回来たときは店員らしき人影は見当たらなかったのでそのまま帰ってしまった。それ以来、今日まで一度も来てはいなかったが、久しぶりに入ってみた店の奥には若い女性が立っていた。また誰もいないだろうと思っていた僕は面食らってしまい、数歩後ずさりしてしまった。肩に当たったガラス窓が盛大に響いた。その音で気づいた女性が振り返り、僕は彼女の瞳に捉えられた。
「あら、このお店にお客さんが来るなんて」
 彼女は心底驚いたようだった。しかしその表情は笑顔だ。やはり流行っていないのだろうか。
「あ、あの……」
「あ、ごめんなさい。私ったらぼおっとしちゃって」
 苦笑しつつ奥へ促す彼女に僕は従った。
 やや狭い廊下を抜けるとそこは庭園だった。ドーム上の空間の中に大小様々な草木が植えられている。点々とだがあの奇怪な置物もあった。その中央にあるテーブルに僕は座らされた。お茶を淹れてきますという女性に社交辞令を返し、僕は周りを見回した。清々しい緑の中に奇怪な置物というのは実に不思議な光景だった。置物たちはまるでこの小さな森の住人のように、じっとこちらを見つめている。置物はすべて中央のこの場所を向いていた。それに気づいた僕は急に気持ちが落ち着かなくなった。意識した途端、置物の感情が視線となって自分を射ているような感覚に襲われ、僕は胸が詰まり息苦しくて堪らなかった。
「どうです、なかなかのものでしょう?」
 いつの間にか女性が戻ってきていた。僕は当惑しつつも「ええ、そうですね」と何とか相づちを打つことができた。
 彼女は椅子に腰掛け洒落たポットからカップへお茶を注いでいた。店に入ったときは驚きのあまりゆっくり観察することもできなかったのだが、こうしてみると結構な美人だ。建物同様、彼女も外国人のようだった。金色の髪に栗色の瞳、長足ですらりと伸びた足は美しさを越え高潔でさえある。しかしその体は狂おしいまでに肉感的だった。その柔肌を包む上下ペアの白地のドレスがいくらかその印象を抑えていた。僕の喉が勝手にごくり、と唾を飲み込んだ。
「どうぞ」と渡されたカップにはなみなみと真っ赤な液体が注がれていた。一瞬、血の色を連想してしまい嫌な気分になった。
「日本ではそうそう手に入らないハーブなんです。伯父がたまに送ってくださるんですよ」
 その伯父は大のハーブ好きなのだ、と彼女は付け加えた。しかしそんなことは僕のとってはどうでもよかった。ただもの凄く居心地の悪いこの場所から一刻も早く出たかった。
「あ、あの。ここって…」
「だめですよ」
 手に持ったカップを受け皿に置き、彼女は微笑んだ。まるで聖母のように慈しみに満ちた笑顔。
「それはあなたにとっては関係ないんです。大切なのはあなたがここへ来た理由。あなたがここに惹かれた理由です」
「そんな。だってここはお店なんでしょう?だったらあなたは私に何か売りたいはずだ」
「確かにここはお店ですが、売っているのは〈モノ〉ではありません」
「え?」
「ここはあなたのように迷った人が来る場所。私はその案内人に過ぎません。探し物を見つけるのはお客さんである、あなたです」
「な、なにを言っているのか…よくわかりません」
「そうですね…」
 彼女は頬に手を当て暫し考え込んだ後、庭園を囲むように点在する置物を両手で示しながらこんなことを言った。
「それじゃ、この洋館にある置物は何を表しているかわかりますか?」
「えっと……正直、よくわかりません」
「でしょうね。ここにあるのは人の心の形を像に表したものです」
「心の形?」
「そう。ひねくれ者や頑固者、意気地なしや弱虫、そんな人の心をここにある置物は象徴しているんです」
 その説明を聞いて、僕はああと頷いた。さっき一人で座っていたときに感じた不快感はそれだったのだ。
「でも何故そんなものを?」
「置いていくんですよ、そういった自分の心を形にして。ここを訪れた人たちは弱い自分や嫌いな自分を置き去りにしていきました」
「それが、この置物…」
 何となくわかった気がする。これは置き去りにされた人の弱さや卑しさなのだ。置いていかれたものが置物として具現化した姿だったのだ。
「すると、僕も自分の弱さを…孤独な心を…?」
 尋ねるような目で見つめる僕に、彼女はそっと「それはあなたが決めることですよ」と微笑んだ。

 帰り道、いつもの路地を歩いていく。
 もう辺りはすっかり暗くなってしまっていた。春になったとはいえ、まだまだ日の入りは早い。グズグズしているとすぐに夕日は沈んでしまう。
 突然目の前を何かが横切った。思わず仰け反った勢いで尻餅をついてしまう。一体なんだと思い見上げると、塀の上にクロが座っていた。
「…もう少し大人しく現れられないのかね、お前は」
 返事のつもりなのか、短くにゃーとクロは鳴いた。その後ろで細長い尻尾がメトロノームの如く揺れている。その姿が妙に可愛く思えたのでそれ以上の文句は言わなかった。
 僕が立ち上がって歩き出すと、クロも塀の上を歩き出した。もはや外灯だけが道標となった夜の街を二人して歩く。特に何を話すわけでもなく、するわけでもない。ただ一緒に帰り道を歩いた。
 そうしている間に、僕は気づいた。僕は独りではないことに。僕にも関わりがあることに。それはクロだ。気まぐれで、大人しくて、何をするわけでもないけれど、始めから特別なことなんて必要ない。ただ一緒にいてくれる。それがクロなのだ。
「…あ、ここは…」
 小汚いゴミ捨て場の前で思わず足が止まる。クロもゴミの散乱する場を塀の上から見下ろしている。
「クロ、覚えてるか?ここでお前を拾ったんだ」
 感慨深げに僕は呟いた。クロはただ黙って下を見下ろしていた。
 そう、去年の歳末。このいつも散らかりっ放しのゴミ捨て場で、電灯が照らす光の下で、僕とクロは出会ったんだ。



「本当にまた来るとは思わなかったな」
 洋館の女性は庭園でお茶をの香りを楽しみつつ呟いた。
 天上がガラス張りのこの場所には、最低限の僅かな照明しか備え付けられていなかった。それもテーブルの周りと通路上に集中しているので、植木の中にある置物が仄かに浮かび上がって不気味だ。
「でも、何とか立ち直れたみたいで良かった」
 そうして彼女は数ヶ月前のことを思い返した。
 たまたま二階で片付けをしていた彼女は、勝手に家へ誰かが入ったことに初めは気が付かなかった。しかし階下の物音を耳にし、そっと階段を降りて父の偏屈な趣味で集められた置物を置きっ放しにしていた広めの玄関を覗いてみた。するとそこには二十代らしき男性がほうっと立っていた。しかしその若さに反してその雰囲気は老人のようだった。意志を失った瞳がくすんで見えた。彼女はただじっと自分の父親のコレクションを見つめる男を見つめていた。彼は奥を気にしていたようだった。だが不思議と泥棒には思えなかった。そして彼女の頭に一つの結論が浮かんだ。
(そうか、ここが置物商店だと勘違いしているのね……)
 あり得なくもない。ここは商店街のすぐ裏だし、表通りの混雑を嫌って裏通りで店を開いているところもいくつかある。しかし何故この家を選んだのだろう。
(お父さんの趣味が、わかるのかな…)
 それはそれで怖い気もするが、少なくとも父は喜びそうだ。それでこれ以上助長されては困るので端から言うつもりはないが。
 そうこうしているうちに男性は家の外へ出ていった。
「あっ」
 彼女は思わず彼の後を追っていた。置物を倒さないように注意しながら進み、玄関先から彼の後ろ姿を見つめた。なんとも痛々しい背中だった。
 それからすぐだった。彼女が彼を元気付ける方法を思いついたのは。お店と勘違いしているんだから、またきっと来るはず。そう思って密かに計画を練っていたのだ。それが今日の芝居だった。やってみる直前まで信じさせられるか不安ではあったが、どうやら杞憂で終わったらしい。それどころか、見事彼を元気付けることができたのだ。彼女は嬉しさで胸が一杯になった。
「結局名前も何も訊けなかったけど、これでよかったのかも」
 だってうっかり本当のこと言っちゃったら、笑われてしまうもの。彼女は夜空を見上げながら笑った。

 その冬は一段と寒かった。吐く息は湯気のように白く、吹き付ける風は氷のように冷たかった。当然、雪は何度も降っていたし、この日も街を白色に染めていた。
 会社の帰り、男はコートの前を押さえながら急ぎ足で歩いていた。早く帰ってストーブに当たりたかった。
 異様に散らかっているゴミ捨て場の前まで来たとき、不意に電灯の明かりの向こうに何かがいるように思えて足を止めた。明かりの境目に、黒い棒が見えた。それが二本、三本と増えていき、最終的に四本足の動物になった。
 猫だ。真っ黒の猫が明かりの下に入ってきたのだ。白い雪の下で、その姿は沈むように目立っていた。その目はじっと、男の方を向いていた。
「なんだ、お前迷子か?」
 何となくその黒猫に声を掛けてみた。猫は特に反応することもなく見つめてきた。よく見るとその足は小刻みに震えていた。冷たいのだろう。足が四分の一ほど雪に埋もれている。
「お前、そんなところで寒くないか?」
 またもや猫は反応を示さなかった。
 雪の絨毯の上で、男と猫はただ黙ってお互いを見合った。
「………」
「………」
 男は視線を外すタイミングを外してしまった。今となっては逸らすに逸らせなかった。それにそれはこの猫に失礼だと思えたからだ。
 自分で思ったことに男は笑った。すると、猫が雪を踏みつけながら男に近寄ってきた。その足元まで来ると、男を見上げた。
 猫と目が合う。その目は薄汚れた体とは反対にとても澄んだ、力強い瞳だった。男はまた黙って暫しの間その目を見つめた。
「お前…ウチに来るか」
 何となく男は言ってみた。そこで初めてこの猫は鳴いた。ただ一声、にゃー、と。
 はらはらと粉雪が舞い始めた。じきに吹雪となってしまうのだろうが、この瞬間の雪は本当に綺麗だと思えた。
 男は猫を抱え上げるとコートで覆うようにして包み込み、再び家へ向かって歩き出した。
 外灯の明かりの下から男の姿が消える。後には男と猫の足跡と、粉雪が静かに舞っていた。