宙
パパとママは揃って一流大出だ。パパは学校の先生、ママは専業主婦。ママは年の割に若いって言われるし、教養ある人だから世間体としては申し分ないのだけれど、生活の知恵がないところが嫌。電話のセールスがなかなか断れないとか、パパ方のおばあちゃんとあんまり仲が良くないとか。パパは最近オヤジっぽくて近づきたくない。セーターとかをわざわざズボンの中に入れたり、タビックスを穿いたりする。「パパ近寄らないでよ」と露骨にあたしが言うから、最近は家では大人しい。
この二人がどんななれそめで結婚に至ったかは知らない。きっとママのことだからお見合いか何かでパパと出逢い、「教師は給料が安定しているからこの人に決めた」といった至極打算的な理由で結婚したに違いない。じゃなきゃ、神経質で、背が低くてもてなそうで、ドイツ人のように奥目のパパと結婚するわけがない。ママは陽気、パパは根暗。あたしはどっちにも似たくない。
問題なのは、あたし達が暮らしている場所だ。あたしは海辺の町で育った。海といっても沖縄や、伊豆などの泳げる海ではない。波が高くてゴミだらけの猥雑な海だ。とれる海産物は桜エビ。その着色料なのか、赤潮なのか分からないけどたまに海が真っ赤に染まったりする。
そして海沿いに走る高速道路。そのガード下をくぐって海とは反対方向に百メートルくらい行くと我が家がある。そのロケーションには全く夢がない。泳げない海のそばの小さな町だなんて、女子高生のだれが憧れるだろう。
更に私の生活に難癖をつけるものがある。ゴミの山だ。
ゴミ捨て場のゴミじゃない。あたしの家の近所に木造の小さな平屋がある。屋根には大きな石がズンと置いてある。そして玄関、窓、門など家中の穴という穴からあふれ出すゴミ。ゴミは二年程前から積もりはじめ、今やその平屋の半分を覆い尽くそうとしていた。その内訳は、コンビニの弁当の食い残し、バキバキに折られたテレビのアンテナやカセットテープ、火であぶられたように変形したフライパンや眼鏡、ボタンだけない服、頭が無い腐った魚、奇妙な形にぶったぎられた果物の切れっ端など。ゴミの山からは写真の現像室のような、冴えない生物室のような個性的な臭いがした。ママに「あの家の人どうなってんの?何とかするように言えばいいじゃない」と言ってもこう返ってくるだけだ「あの家の人とは町内が一緒じゃないからやたらに言えないの。知らない人の家に行ってゴミ何とかして下さいなんて言えないもん」。ママはあのゴミの山に潜んでいるだろうゴキブリの大群が怖いのだ。”臭い物には蓋”文字通り大人はそうしてやり過ごそうとする。でもあたしはいつかゴミの主にいちゃもんをつけようと時期を見計らっていた。
あたしは友達が少ない。人見知りはしないけど、八方美人は面倒くさい。高校二年生の五月。新しいクラスで自然に喋れるのは今のところさぎりだけ。さぎりは背が高くて脚が長いところを除いてはあたしと似ている気がする。好きな映画のジャンルとか、よく聴く音楽とか、好きな靴下やバッグのブランドとか。
昼休み、さぎりがお弁当を食べながら急に変なことを言った。
「前から思ってたんだけど、啓介くんっていつも昼休み本読んでるよね」
「本?」
あたしは教室のぐるりを見て啓介君という人を捜した。そして本を読んでいる男子を窓際で発見した。開け放った窓からは初夏らしい薫風がたおやかに吹いていた。時折その風にページを捲られながら、啓介君という人は左手に箸を持ち、一生懸命本を読んでいた。
「別に読んでてもいいんじゃない?」
「いいけど読んでいる本が凄くない?やたら古そうなんだけど」
目を凝らしてよく見たら、読んでいるのは確かに古そうな文庫本で、「沈黙・遠藤周作」だった。あたしは数瞬、彼をじっと見た。
「・・・ふーん、啓介君って、なんて名字?」
「村越だよ、由梨ってホントに人の名前覚えないんだね」
「だってあの人と喋ったこと無いんだもん」
でもあたしは村越啓介という名前と、その時の彼の表情を忘れないだろうなと思った。
それからあたしの何気ない啓介君サーチは始まった。啓介君はサッカー部に所属していて、いつも青いナイキのエアフォースを履いて、白いポールスミスの鞄で学校に来る。見た目こそ全く健全なサッカー高校生だ。しかし彼はさぎりの言うとおり、現代稀にみる「サッカー少年兼文学少年」だった。それも最近の女流作家や映画の原作本といったジャンルは読まず、一癖も二癖もある作品が好きらしい。遠藤周作の沈黙に始まり、本は一週間単位でめまぐるしく変わっていった。ソフィーの世界、シェイクスピア、小林多喜二、リルケ、極めつけはマルクスの資本論。あたしは彼の本が変わるたびに顔がにやけた。机の上に置いてある彼の本のタイトルを見るのが専らの趣味になった。昼休みに漫画を読んだり、友達と喋ったりするのと同じくらい自然に彼はきっと社会主義の理想だのシェイクスピアの言葉だのに酔っているに違いなかった。
「変なの。見た目は何も考えていなさそうなのに」
さぎりとそう話しながら、あたしはなぜだかよく解らないけれど面白くてしょうがなかった。
でもあたしは彼に話しかけなかった。放課後彼は部活で暇ではないのだろうし、迂闊に「あなたはマルクス主義ですか?」と聞いたら、社会主義について延々と説明されそうで怖い。別に私は社会主義に明るくはないのだ。それに彼を遠巻きに見ているだけで十分面白かった。あたしは単に面白い物好きなだけだ。
彼はあたしがいつも目を光らせていることを知らないだろう。あたしが今まで彼の名前すら知らなかったように、きっとあたしの事なんて眼中にないにちがいない。無言の対峙が数週間続いた。
しかしその沈黙が破られるときが来た。五月終わりのとある現代文の授業。あたしの学校は一応進学校だが、現代文の実力が他の教科より劣っているというデータが模試などで明らかにされていた。それは生徒のせいじゃなく、教師側に問題があると思う。例えばこのクラス担当のs島の授業。s島は自分の今の年が丁度太宰治が自殺した年だと言っていたから、三十九歳だろうか。授業があまりにも解りづらいため、”s島”というのは本名で呼ばれるに値しないということで生徒が付けたあだ名だ。その日は文のレトリックの解説についてs島が解りづらい熱弁をふるっていた。擬声音、擬態音、メタファー、提喩・・・話がだんだんそれて、いつのまにかs島は音というのは一人一人受け取り方が違うということを言いだした。
「いいか、今から俺が教卓を叩く。それをどんな音がしたか言ってみろ」
s島が教卓を拳で叩いた。体が傾いでいた何人かの生徒がびくっとして姿勢を正した。s島はランダムに生徒を当てた。
「今、どんな音がしたか言ってみろ」
「・・・ごつん?」
「ドン」
「ごとん、かな」
「ガン、とか、そんな感じ」
s島は得意満面な顔をした。
「こんな風に音の解釈や表現は十人十色なんだ。文章の表現もまた然り、表現力を磨けば、みんなの若々しい感受性なら素晴らしい文章が書けるんだぞ」
だからなんだ、と心の中で思ったときだった。
「はははは」
急にだれかが笑った。s島が表情を変えた。
「村越、今俺面白いこと言ったか」
「いや、先生じゃないっすけど」
「なんだ、なにがあったんだ」
「なんでもないっすよ」
「お前教科書読んでるように見せかけてなんか別の物を読んでるな。それ持ってこい、没収するから」
啓介君は諦めて席を立ち、教科書を盾にしてこっそり読んでいた本を前に持ってきた。それは三浦綾子の塩狩峠だった。漫画を読んでいたとばかり思っていたs島は眉間にしわを寄せた。
「塩狩峠、か」
いいぞいいぞ、あたしはs島の呆然とした顔をしかと見た。
そしてあたしは我慢できなくなり、授業終了後ついに啓介君に話しかけた。彼の机のそばに押し掛け、ダイレクトに、
「ねえ塩狩峠のどこが面白い?」
と訊いた。塩狩峠はあたしも読んだことがある。啓介君は顔をさっと上げてあたしを見た。
「は?」
「塩狩峠で笑えるところなんてあった?」
「ああー、さっき笑ったとこね。信夫が吉原に行って、思わずビビって帰ったところ」
「それが笑うほど面白いの?」
「なんとなくね、笑いたい気分だった」
あたしを拒んでいるようには見えなかったが、どうもはっきりしない人だ。あたしは一気に訊きたいことが増えた。
「じゃあじゃあ、啓介君は本読むの好き?マルクスとかシェイクスピアとか、いろいろ読んでるよね」
「なんで知ってんの?」
「昼休みとか、よく読んでるから。好きな作家は?」
「見てたんだ。まぁ、なんとなく、色々好きなんだよ」
「ふーん。なんとなくなの?」
「うーん、なんかね。本は嫌いじゃないんで」
これ以上の会話は必要ないと思ってあたしはその場を去った。根ほり葉ほり聞くと、あたしが彼について想像するカテゴリーが減ってしまう。それはつまらない。その時の会話はさぎりには報告しなかった。啓介君はインチキ臭い、啓介君は怪しい。そして、破天荒な人だ。
もうすぐ梅雨に入る。あたしは梅雨の雨量よりも、ゴミの家が気になった。梅雨が終わって、夏になる時のあの家の臭いはすごい。変に湿気が籠もって、例えようのない臭いがする。
どうすべきだろうか、夕飯が終わったあと、ママに訊いてみた。
「夏になる前にあの家の臭いをなんとかしようよ、人住んでるの?」
「ちょっと前におばあちゃんが住んでいるのを見たけど、最近みないなあ」
「ねえなんでごみばっかりたまってんのよ」
「そんなことママに訊かないで。誰かがどさくさに紛れて棄てていくってのもあるんじゃないの?」
「中におばあちゃん住んでるのかなあ」
「さあ。そうかもしれないね」
「おばあちゃんが閉じこめられているかもしれないじゃん。死んでたりしたらどうするの?どうしてみんな放っておくのよ」
「じゃあ、由梨がなんとかすればいいでしょ」
俺は出来ないからお前がやれ、という発想をママはよくする。匙を投げている証拠だ。ママは子供じみている。あたしは憤って答えた。
「じゃあ、あたしがなんとかするよ」
それで意地になるあたしも子供っぽいのだけど。居間ではパパが映画「ジャンヌ=ダルク」を見る振りをしていびきをかいていた。
どうすべきだろう、再び対策を考えてみる。あれを全部片付けるのは一人じゃ無理だ。さぎりに相談したこともあるがゴミの山、ゴキブリがいるかもしれない、異臭がして堪えられないという主旨だけで「勘弁して」という雰囲気になった。まあ当然であろう。啓介君の顔が一瞬浮かんだが、彼はあたしの生活とは距離がだいぶあるのでここでは直接関係なかろう。とにかくまず人がいるかどうかを確かめたい。あたしは最初から強硬手段に出ることにした。なにせ十七歳の夏の匂いがゴミの匂いじゃ困るのだ。大人はそういった危機感がないから我慢できるのかも知れないが、あたしは悠長にはできない。日常の中で輝いているどんなものでもこの手で捕まえて自分の裡に閉じこめたいきたい、そうゆうお年頃なのを大人は忘れている。心の中で汚くくすぶっているゴミ問題を自分自身で乗り越えたいのである。
月曜日。あたしは家に残っていた去年買った打ち上げ花火とライターを持って家をでた。学校帰りにあの家に寄り、花火で威嚇してみたかったのだ。何の意味も無いかも知れないが、おばあちゃんが家の中から出てくるかもしれないという一縷の望みを花火に託したのである。いつもよりも力を込めて自転車をこいで学校に向かった。啓介君は今日は何の本を読んでいるだろう。
しかし、啓介君は欠席だった。
「欠席は村越君だけだね」
ホームルームで担任の岩本先生が独り言のように言った。岩本先生は日本史の先生だ。年は結構いっているけど物凄く美人でお洒落、授業も解りやすいので日本史だけは頑張るという人が多い。
欠席と聞いて数人の男子が驚いた。
「えっ、先生、村越なんで休み?」
「風邪で休むって連絡もらったわよ」
麗しの岩本先生はさらさらの髪を掻き上げてそう言った。
「絶対ウソだよ、あいつ変態だから風邪なんてひかないよ。サボりじゃねぇの」
数人の男子がそうやって啓介君の欠席を揶揄した。
昼休み、あたしはさぎりとトイレで化粧をしていた。レスポートサックのポーチからファンデ、マスカラ、リップを丁寧に出して、丁寧に化粧をしていた。
「啓介君、今日休みだね」
なんとなく啓介君のことが思い浮かぶ。
「あんた、最近やけに啓介君が気になってるじゃん」
さぎりは茶化すように言う。
「うん、彼はかなり気になるよ」
あたしは鏡に映る自分の顔を見ながら真剣に頷いた。
「別にかっこいいとは思わないけどねえ」
「かっこいいとかそうゆうのじゃないよ。彼、すっごくいいポテンシャルしてる」「あははは、ポテンシャル!」
さぎりは呆れて笑った。
「さぎり、あたしは本気で言ってるんだよ」
「ごめんごめん」
「オリジナリティに溢れてると思わないの?あんな風に色んな本を熱心に読んでる人、あんまり見ないもん」
「まあ、たしかにねー」
さぎりはメイベリンのマスカラを塗りながら間延びした声で言う。さぎりに向かってあたしは声を正した。
「宗教はゼロの問題。文学は1の問題だって昔パパが言ってたもん」
「なにそれ?どうゆう意味?」
「小さいときにそう言われたの。お前が二十歳くらいになってこの言葉の意味が解るならお前は大したタマだなって。だからこれから考えてみようかなと思ってるんだ。行こ、教室戻ろうよ」
あたしはさぎりににこっと笑った。
放課後。あたしはいつもと違う道を通り、ゴミの家に向かった。空が茜色に染まろうとしていた。でも今日は何故か空が全体的に紫色のような気がする。夕暮れを拒むかのように、ひたすら青空でいたいかのように。そもそも空って何色なんだろう。色はその人が勝手に名付ければそこで創造されてしまう。表現方法は十人十色だと言ったs島の顔が一瞬脳裡に浮かんだところであたしの想像は雲散霧消した。今はs島どころではない。
遠くで高速道路を走る車の音が聞こえる。その響きと共にあたしの胸も高鳴った。漕ぐスピードを上げていく。
するとゴミの家の前で、誰かがじっと佇んでいるのが見えた。
近づいていくと、それは啓介君だった。あたしは急ブレーキを掛けた。
急ブレーキを掛けたので、啓介君は驚いてこちらを見た。自転車に乗ったままあたしは話しかけた。
「あれ、今日は風邪じゃないの」
「別に風邪じゃないよ、サボり」
そこまで話して、沈黙が続いた。仕方がないので、あたしは今日のミッションを遂行しようと自転車から降り、ライターと打ち上げ花火を鞄から取り出した。「花火だ、それどうすんの?」
啓介君はかぶっていた帽子を取りながら言った。
「うん。この家のゴミに迷惑してるんだ。ゴミに登って家に向かって花火ぶっ放したら誰か出てくるかなあと思って。一緒にどう?」
「ただのいたずらじゃん」
啓介君は冷静に笑った。
「でも、やってみたいから」
あたしは左手にライターを、右手に花火を握って彼に見せた。啓介君は数秒間黙った。遠くで車の音がブーンと聞こえた。
「ここ、俺のばあちゃんが住んでるんだよ」
あたしは啓介君のらんらんと光る目の奥をじっと見つめた。あたしは両手をだらんと下ろした。
「ごめんなさい。失礼なことして」
「独りで住んでるんだ。ばあちゃんは頑固で嫁いびりも凄いし、我が儘でどうしょうもないから親戚みんなに見放されて、あのばばあの家にあんまり行くなっていつも言われる。でも、俺はばあちゃんのことは結構好き」
啓介君はゴミの山を見つめた。
「このゴミはさあ、ばあちゃんの淋しさの表れだと思うんだよ。頑固だけど、本当はみんなと仲良くしたかったんだろうね。俺、すっごく小さいときにばあちゃんにいっぱい本もらったんだ。変な本ばっか。学校で読んでる本は全然ましな方。遠藤周作とか三浦綾子なんて寧ろ人気作家だしね。もっとマニアックで、常識ではどう考えても理解できない本もいっぱいもらったんだ」
「どんな本?」
「スピリチュアリズムとか、死後の精神世界についてとか、臨死体験を会得する方法とか、瞑想によって体が宙に浮くとかね」
「へえ・・・」
「そうゆうばあちゃんに俺は唯一好かれていたんだ。俺もばあちゃんのことを好きな唯一の人間なんだ。ばあちゃんは何より俺に考える力を呉れたから。とにかく、考えろって。ちゃんと生きろって」
「なんだかかっこいいね」
「ははは。俺も凄いばあちゃんだなって思うけど、自分にも他人にも厳しくて周りが大変なんだ」
「おばあちゃん、元気なの?」
「ううん、最近は元気がなくて凄く心配で。だから俺は今から個人的にばあちゃんのお見舞いするけど、どう?一緒に」
啓介君は口の隅で微かに笑った。あたしは自分でも驚くくらい大きく頷いた。
「いいよ」
「勝手口から多分入れると思う」
啓介君はゴミに登り、そこからひらりと塀を乗り越えて敷地の中に入っていった。あたしは花火を鞄に入れて、啓介君の真似をした。
勝手口は確かに周りにゴミがなかった。
がちゃっと勢いよくドアが開いた。
「ばあちゃーん、あがるよー」
啓介君は青いエアフォースを脱いで台所に上がった。
「ばあちゃんどこにいるんだよー」
啓介君は家の奥に入っていった。あたしはローファーを履いたまましばらく待っていた。家の中は外見とは相反して臭くない。それどころかアジア雑貨屋のような、中国の甘いお菓子を焼いているような不思議な匂いがした。
「ばあちゃん」
啓介君の声が聞こえた。でもそれは今までのような彼の冷静でマイペースな口の利き方ではなかった。
「ばあちゃん!」
「どうしたの?あがるね、お邪魔します」
あたしはローファーを脱いで上がった。居間に行くとそこにはおばあちゃんが布団に寝ていた。あたしは固唾を呑んだ。
「ばあちゃん」
啓介君は布団の横に座っておばあちゃんの顔を覗いた。あたしはその側で立ちすくんだ。
小さなおばあちゃんは石のように冷たくてごわごわな顔を微動だにしない。皺は緊張して顔に鋭く刻まれて動かない。顔の真ん中には真っ黒な丸い穴が開いたまま固まっている。歯のない口だ。
「なんだこれ、なんだこいつ、動けよ、なんか言えよ、なに口開けてんだよ」
啓介君は繰り返す。あたしは啓介君の反対側にたへりこんで、そっとおばあちゃんの顔に触れた。おばあちゃんはもはや死んでいるようでもないし、生きているようでもなかった。啓介君は何も言わない。あたしは啓介君をじっと見た。家の外の放置されたごみはざわついていたが、この部屋の流動はぴたりと止んでいた。あたしはずっとおばあちゃんのほっぺたと言えないほっぺたを触っていた。
「ねえ、おばあちゃん、どこか具合悪かったの?」
啓介君は頭を擡げる。
「鬱病だったんだ。生きも死にも出来ない時間を何年もこの家で過ごしてた。じいちゃんが死んでからはずっと鬱状態が続いていたから。自殺しようか、それとも生きようか」
「鬱病?それって一種の精神異常?」
「多分。でも、精神異常じゃ無い人なんていない」
あたしは今日まで、一体どんな人がこの家に住んでいるのだろうと、想像を巡らして生きてきた。この家の住人が自らの殻に閉じこもっているのなら、その住人の心をこじ開けようと花火とライターを持ってあたしは強硬手段に出た。それはゴミが迷惑だから片付けて欲しいという理由ではない。ただ隣人の顔が見たかっただけだ。心に隠しているものをばらまいて、それをあたしに見せて欲しい、じゃなきゃあたしまで狂いそうだったのだ。この住人がどんな人物で、どういう紆余曲折があってゴミを溜めていったのか。あたしは他人の心を覗き込もうといつも必死だった。覗き見したい、ただそれだけ。そしてさらに誰かに覗かれようとしている。精神異常はあたしかもしれない。
いつのまにかあたしは泣いていた。啓介君は布団にくっつけた頭を手で抱えた。ゴミで包まれたこの空間は家ごと町から宙に浮いていた。
「啓介君、誰か、呼んだ方が良い?」
「もうちょっと待ってて」
啓介君はそう言ってしばらく動こうとしなかった。
おばあちゃんは今日から寡黙の人になった。死が成立するということ、それは残された人々が死者をこの世界から排除し、新しい人間関係を再建していくこと。
ちょっとよそ見をしているうちに、振り向くと必ず何かがなくなっている。
誰かがいた、何かがあった。残るは不在を知るあたしだけ。
直に救急車が来る。そして親類も葬儀屋も来るだろう。
「ねえ花火やろう。使わなかったから。今やろう、屋根に登って」
不意を付いて啓介君が言った。
「うん」
あたしたちは花火を持って屋根に登った。町は暮れなずんでいた。あたしは空の中央から空の端に向けて視線を転がしていく。空の端では製紙会社の煙突が雲のようなポリューションを吐き出し、最終的には空の色に溶けていく。金星と白い月がよく見える。
「ねえ、もしあたしが今此処で死んだら、あの月も一緒にこの世から消えてなくなると思う?」
啓介君は黙ってしばらく考えていた。
「あたしは、消えて無くなると思うんだ。あたしたちっていつも五感で物事を意識しているじゃない。目に見えた物とか聞こえる音とか。それを意識する自分自身が死ねば、何もかもこの世にはいなくなるんだよ、月も海も全部」
「ふーん」
「だから宇宙もなくなるんだよ、面白いでしょ」
「面白いね」
啓介君は花火を握りながらそう言った。
「じゃあ宇宙より大きいものはなんだろう?って俺よく考えていたんだ。それはもしかしたら宇宙のことを際限なく意識できる自分自身の心の中かもしれない。ウソかホントかわからないけどね」
「そっか。多分間違いじゃないと思う。あたしもそんな風に考えるの結構好きだよ」
「うん、嫌いじゃない」
啓介君は立ち上がり、打ち上げ花火を持ったまま火を点けた。シュウシュウ音がして、花火が白い海に吸い込まれていくように打ち上がっていった。
サイレンが聞こえ、火花がほろほろと堕ちていった。