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2008.10.18-19 【琵琶湖旅行記(彦根・近江八幡)】
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└ 今も多く残る商家屋敷 |
爽やかな秋空の下、琵琶湖畔の城下町彦根と
風情ある商人の町近江八幡に行って来ました。
ということで、今回の日記は旅行記です。
自宅のある静岡県三島市から、朝一番の始発
新幹線に乗り、約2時間で滋賀県の玄関口?
米原駅に到着しました。
そこからJR在来線に乗り換えて、30分ほどで
最初の目的地「近江八幡」に到着、降り立った
第一印象は、「意外に大きな町なんだな・・・」
といった感じです。
わたくし、滋賀県には今まで一度も行ったこと
が無く、琵琶湖畔にのんびりとした町並みが
点在していると勝手に想像していたのですが、
実際には、それぞれにしっかりとした地方都市
の機能を持っているところが多いようです。
また、日本を代表する大手企業の主要工場も
多くあり、経済的な一面に於いても滋賀県は
大きな役割を果たしているようでした。 |
さて、近江八幡は豊臣秀吉の甥、秀次によって
開かれた歴史深い商人の町、多くの屋敷が
残る場所までは、駅から3キロほどあるため
バスを利用することにしました。
小幡町資料館前で降り、少し歩けばそこはもう
江戸時代にタイムスリップしたかのような情緒
豊かな町並みが広がりを魅せ、重厚な佇まい
の商人屋敷は、訪れる旅人すべてに安らぎを
与えてくれるような・・・
そんな感じにさえ、させてくれます。
その町を楽しむためには、その町の歴史を
知ることが一番!ということで、まずは郷土
資料館を見学することにしました。 |
└ 風情ある近江八幡の町並み |
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└ 郷土資料館
■ 近江商人って何?
“買い手良し、世間良し、売り手良し”の
「三方良し」を家訓とする鎌倉時代から
戦前にかけて活躍した滋賀県出身の
商人のこと。
とくに江戸時代には、大阪・京都・江戸
を中心に行商をし、大阪・伊勢と並び
日本三大商人にも数えられています。 |
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└ 懐かしさを感じさせる館内 |
└ 展示されていた民俗資料など |
こちらの資料館は、元々は海外でも活躍した
近江商人「西村太郎右衛門」の邸宅跡だった
のですが、その後「近江八幡警察署」となり、
現在は資料館として活用されています。
元警察署ということもあり、何気に入る時に
緊張してしまう人もいるかもしれませんが、(笑
中に入ってみると警察署というよりかは、昔の
小学校のような雰囲気があって、と〜ても
落ち着けて良かったです。
歩くとギシ!ギシ!と鳴る板張りの廊下、
木製の扉やサッシ、江戸時代から残る商家
屋敷も日本人としての心の中に懐かしさを
感じさせてくれますが、この建物は俗に言う
お父さん世代が子供の頃を思い出すような
そんな感じの懐かしさです。
身近な懐かしさといったところでしょうか?
展示品は、主に郷土の歴史に関わったもので、
琵琶湖周辺から出土した石器や土器、昔の
生活に密着していた農耕具や家財道具など
多種多様に渉っていて、近江八幡の歴史や
当時の住民の生活習慣を肌で感じることが
できました。 |
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郷土資料館を後にして、次に向かったのが
向いにある市指定文化財「旧伴家住宅」です。
こちらの建物は、文政十年(1827年)〜
天保十一年(1840年)の十数年という長い
月日をかけて建築されたもので、屋号を
「扇屋」といい、初代の伴庄右衛門は、主に
畳表・蚊帳を商いとし、豪商となったようです。
現存する建物は、七代目伴庄右衛門能伊が
本家として建てたもので、明治時代になって
町に譲渡してからは、小学校→町役場→
女学校→市立図書館と移り変わった後に、
現在は資料館として一部活用されています。
邸内に入ってまず思ったことは、広間にしても
階段にしても、普通の旧家に比べ、一回りも
二回りも大きいなという印象でした。
分かりやすく言うと、子供達が走り回っても
ぶつからないような大きさという感じです。
恐らく町に譲渡された後、学校としての機能
を果たすため、ある程度の改装もされたので
しょう。 |
└ 旧伴家住宅邸内 |
└ 旧西川家住宅邸内 |
商家というよりかは、明治から昭和初期に
かけての学校という雰囲気が色濃く残って
いました。
旧伴家住宅に展示されている資料は、当時の
商家での暮らし向きを窺い知ることができる
衣類品や装飾品、また近江八幡は江戸時代に
国交が回復した朝鮮との間で、朝鮮通信使が
京都から江戸に向かうルート上に位置していた
ことから、朝鮮通信使を模した瓦人形などが
特に目を引きました。
こうした、一つ一つの民芸品からも、当時の
歴史的背景を知ることができるんですね。
改めて歴史資料の大切さを痛感です。 |
さて、旧伴家住宅を出て次に向かったのが
重要文化財「旧西川家住宅」です。
さすがに重要文化財ともなると、建物自体が
貴重な展示資料ということもあり、当時のまま
の間取りがそのままの姿で残されています。
こちらの旧西川家住宅は、屋号を「大文字屋」
といい、初代数政から昭和5年に11代徳淨
が没するまで、約300年も続いた由緒ある
商家で、当時は主に畳表や蚊帳を商いとして
いたようです。
11代徳淨没後、西川家親族の意向により
土地・建物共に近江八幡市に寄贈された後、
昭和58年1月に重要文化財に指定され、
それに伴い昭和60年10月より保存修理が
行われて現在に至っています。
主屋は、宝永3年(1706年)に建てられ、
その京風の造りは、間口六間半奥行九間の
居室部と間口二間半奥行五間の座敷部で
構成され、広い敷地に残る三階建の土蔵は、 |
└ 太い梁と高い天井 |
└ 美しい日本庭園 |
天和年間(1681年〜1683年)に建てられた
もので、これだけ古いものは全国的にみても
大変貴重だそうです。
邸内に漂う日本建築独特の匂い、止まって
しまったような時間、空気感、窓から入り込む
やわらかい日差し、歴史的建造物って本当に
いいですよね。
そこに居るだけで、心が癒されます。
しばらくの間、美しい日本庭園を眺めながら、
何も考えずにボ〜っとしていました。
こんな贅沢な時間も、たまには必要です。
■ 近江八幡市市立資料館
地元豪商の旧邸宅を活用した資料館。
旧近江八幡警察署だった郷土資料館
をはじめ、江戸時代に建てられた商家
屋敷、歴史民俗資料館、旧西川住宅、
旧伴家住宅の4箇所が一般公開されて
います。
開館時間: 9:00〜16:30(16:00入)
休館日: 月曜日・祝日の翌日・年末年始 |
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旧西川家住宅を出て、次に向かったのが
市街地を一望すことができる八幡城跡です。
古い町並みを抜け、大きな鳥居をくぐれば、
目の前に標高283mの八幡山が姿を現し
ました。
頂上までは、ロープウェイを使えば約4分で
到着します。
八幡城は、豊臣秀次が天正13年(1585年)
に、近江143万石を与えられた際に築いた
山城で、今は石垣だけが当時の面影を残して
います。
山頂駅からは、城跡を一周することができる
遊歩道が整備されているので、ちょっとした
ハイキング気分で歩いてみることにしました。 |
└ 山麓にある日牟礼八幡宮 |
└ 西の丸跡から眺める琵琶湖 |
歩き始めるとすぐに、2体の可愛らしいお地蔵様
が迎えてくれるお願い地蔵堂の前に出ます。
年配の女性が「あら、可愛らしいお地蔵様ね。」
と言いながら顔を撫でていた姿が、とっても
印象に残りました。
そこから深い森に囲まれた遊歩道をしばらく
歩くと、西の丸跡の展望台に出ます。
展望台から見る琵琶湖や比良山系の眺めは、
まさに爽快の一言に尽きます。
「こんな良い眺めが見れるなんて、本当に来て
良かったな」と心から思いました。
周りにいた観光客の方々も、ここからの眺めに
感動していたようで、夫婦や家族で記念撮影を
されていた人も多く見られました。
そこから大杉秀雲龍神の横を通り、眺めの良い
北の丸跡を過ぎると、豊臣秀次の菩提寺の
瑞龍寺への分岐点に出ます。
最近は座り仕事が多く、運動不足気味の私に
とっては、ちょっとキツメの階段のように見えた
のですが、せっかくここまで来たので寄り道を
してみることにしました。 |
ちょっとキツメかな?と思った階段も、上り始めればあっという間です。
思っていたより短かったので、ホッ!としました。
村雲御所瑞龍寺は、豊臣秀吉の怒りに触れ切腹を命じられた秀次と処刑された妻子の菩提を
弔うために秀次の実母「智」によって開かれた日蓮宗の寺院、昭和37年に京都嵯峨野の村雲
から現在の本丸跡に移築されたとのこと。
八幡城最盛期を偲ばせるどっしりとした本丸石垣、歴史を語りかけてくるような釈迦三尊像や
観音菩薩立像、一緒に移された庭園は名庭として全国的にも知られているそうです。
下山後、旅の安全祈願をするため、麓にある日牟礼八幡宮を訪ねてみることにしました。
見事な彫刻が目を引く山門をくぐると、宮大工の高い技術が覗える檜皮葺(ヒワダブキ)の
拝殿や本殿が、古木が立ち並ぶ深い緑の中、厳粛な佇まいで迎えてくれました。
ここは、近江商人信仰の宮社、地元豪商西村太郎右衛門が奉納した「安南渡海船額」は、
国の重要文化財に指定されています。 |
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└ 傍らに咲くコスモス |
└ 八幡堀沿いの風景 |
日牟礼八幡宮で旅の祈願をした後、近くにある
八幡掘へと足を進めてみることにしました。
八幡掘りは、豊臣秀次が八幡城を築いた際に
琵琶湖から城下町への交通の要とするために
造られた運河で、堀端に整備された石畳の
遊歩道沿いには、白壁の土蔵を構える商家
屋敷の家並みが、風情ある景色を醸し出して
います。
桜なども多く見られたので、春に訪れるのも
オススメかもしれません。
そんな旧家に囲まれた遊歩道をのんびりと
歩いていると、市が運営する瓦ミュージアム
という博物館が目に留まったので、入ってみる
ことにしました。
私自身、瓦といえば屋根に乗っているもので、
観てなにか面白いことでもあるのかな?という
偏見を持っていたのですが、なかなかどうして
奥が深いものなんだなと改めて感じさせられ
ました。
歴史を調べてみると、八幡瓦は江戸中期から
始った地場産業のようで、このミュージアムも
かつての瓦工場の跡地に建てられたようです。 |
└八幡堀と遊覧船 |
館内には、瓦の歴史や基礎知識をはじめ、昔懐かしい鬼瓦や花瓶などの創作瓦製品の展示、
世界各国で使われている瓦の紹介もされていました。
瓦って、日本独自の文化かと思っていたのですが、世界各国で色々な種類の瓦が使われて
いるのを初めて知りました。
よく海外旅行用のパンフなどで、地中海を望む白い壁とオレンジ色の屋根が密集する街並みの
風景を目にすることがあると思うのですが、あのオレンジ色の屋根も瓦だったとは・・・
恥ずかしながら、知りませんでした。(^_^;)
瓦ミュージアムでは、オブジェなどの製作体験も行われているので、時間のある方はぜひ。。。
そうこうしているうちに、かなり昼時も過ぎてしまい、お腹の虫も鳴り始めたので、すぐ隣にある
瓦亭という喫茶店に入り何か食事をとることにしました。
さっそく近江牛入りカレーというのを頼んだのですが、もう切らしてしまったということだったので、
きつねうどんを頼むことにしました。
ところで、何で喫茶店に「うどん」があるんでしょうかね?近江八幡に来て気付いたことなのですが、
街の店舗を見てもうどん屋さんが多いような気がしました。
「近江八幡」と「うどん」、何か深い関係でもあるんですかね?
とりあえず、出されたきつねうどんを一口食べてみたのですが、喫茶店なのに何でこんなに
美味しいんだろう?と、不思議に思ってしまうぐらい鰹だしが効いた美味しいうどんでした。
きっと何かあるんでしょうね。(謎
食事の後は、まだ時間に余裕があったので、八幡掘りの周辺を歩いて見ることにしました。
釣りをしながら休日をのんびりと過ごす人、自転車で走り回る地元の小学生達、傍らに咲く
コスモス、久しぶりにゆっくりとした時間の中で旅行を満喫出来た気がします。
商人の町近江八幡、またぜひ機会があったら訪れたい町の一つになりました。
帰りは、駅までの3キロの道程を勢いそのままに歩いて戻り、今晩宿泊する予定の彦根へと
向かいました。 |
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└彦根城天守閣 |
翌日は、ホテルで朝食をとった後、当初から
観光予定に入れていた彦根城へ行って見る
ことにしました。
宿泊していたホテルが、隣の南彦根駅周辺
だったので、彦根駅へ降り立つは初めてで、
まず第一印象は、彦根城を中心に碁盤の目
のように通りが整備されていて、城下町らしい
綺麗な町だなという感じです。
そんな風情ある街並みみを抜けて、15分程
歩くと、どっしりとした構えの城垣の上に
白亜の美しい天守閣が見えてきました。 |
天守閣自体は、小ぶりな造りのようですが、
城全体の敷地は、隣接する玄宮園も含め
かなり広大なものになっている上、構造も
敵の侵入を防ぐためのものだけあって、
迷路のように複雑になっていました。
しかしながら今は現代、さすがに彦根観光の
要だけあって、入城口周辺には「ここが入口
です!」とばかりに、露店や売店などが
建ち並び、すごくわかりやすかったです。
今が昔なら、あっという間に攻め込まれて
いたでしょうね。(笑
さっそく博物館とのセット券を購入して、
天守閣へと足を進めてみることにしました。 |
└中濠と城垣 |
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└太鼓門櫓 |
└天秤櫓入口付近 |
本丸まで続く坂道を上ると、最初に見えてくる
のが重要文化財指定の天秤櫓です。
ここで大手門からの上り道と合流し、天秤櫓を
抜けて本丸へと続くのですが、この天秤櫓に
掛かる橋が立派で、行きかう旅行者の目を
惹いているようでした。
さらに太鼓門櫓をくぐれば、国宝天守閣を
正面に見ることができる本丸に到着します。 |
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└本丸着見台から見る天守閣 |
彦根城の建設は、慶長9年(1604年)から
約20年間かけて行われたとのこと。
本丸には、現在天守しか残ってはいませんが、
かつては、藩主の居館でもある「御広間」や
「宝蔵」、「着見櫓」なども建っていたそうです。
現在の天守は、昭和32年〜35年にかけて
解体修理されたもので、その時に発見された
墨書のある建築材から天守完成が慶長12年
(1607年)頃ということが判明したようです。
また、その時の調査で、この天守が別の場所
から移築されたものであることもわかり、藩主
井伊家年譜から推測すると、元々この天守は
大津城のものであることが、濃厚視されて
います。 |
彦根城の城主は、代々井伊家が受け継いで
いるのですが、井伊家といえば歴史の教科書
でも登場してくる井伊直弼が有名ですよね。
井伊直弼は、幕末に於いて開国を推進した
人物で、日米通称友好条約にも調印し、地元
では「開国の父」として敬意を表されています。
ただし、大老就任後に行った安政の大獄は、
決して許されるべきことではないのですが、
彦根時代には藩や民のために、積極的に
藩改革などにも取り組み、名君と呼ばれて
いたことを考えると、井伊直弼という人物も、
幕末の動乱に人生を狂わされてしまった
一人だったのかもしれません。
■ 井伊直弼
彦根藩第十三代藩主で、文化十二年
(1815年)、第十一代藩主井伊直中
の十四男として生まれる。
彦根藩時代は、藩改革などを積極的に
行い、民から厚い信頼を得ていたが、
幕府の大老に就任後は、安政の大獄を
行ったことにより、安政7年(1860年)
桜田門外の変で暗殺され死去。 |
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└愛らしいキャラクター「ひこにゃん」 |
さて、本丸広場で周りを見渡すと、何やら特設ステージがもうけられ、人が大勢集まっているのが
目に留まりました。
どうやら、子供達に人気のご当地キャラクター「ひこにゃん」が登場するようです。
ここに来る途中でも、店先のマイクから“ひっこにゃん♪ひっこにゃん♪ひっこにゃんにゃん♪♪”
という繰り返しフレーズの「ひこにゃん音頭」を耳にしていたし、キャラクターグッズなども目にして
いたので、可愛らしいキャラクターということは認識していたのですが、等身大ひこにゃんを見て
びっくり!! かなりデカイ!(笑
でも、子供達には人気があるようでした。^^
ひこにゃん旋風で盛り上る特設ステージを後にした私は、今回の旅行で楽しみの一つにしていた
天守閣へと上がって見ることにしました。
入ってみると、中は3階建て3重屋根の構造になっていて、各階には甲冑などの歴史資料の
展示もされています。
殆ど垂直に近い階段を最上階まで攀じ登り、花頭窓から眺める城下町や琵琶湖の風景は、
来て本当に良かったなと思わせるほど素晴らしいの一言に尽きました。 |
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└彦根博物館内の居間 |
その後、本丸から西の丸へ抜け、今回特別に
公開していた三重櫓を見学してから、上って
来た順路を戻り、表門にある彦根城博物館へ
行ってみることにしました。
途中小腹が空いたので、本丸広場の売店で
軽食を食べたのですが、売店のお母さんが
「本当によく来てくださいましたね!」と、来客
一人ひとりに挨拶している姿がとっても印象に
残りました。
地元の人たち皆で、彦根市を盛り上げようと
頑張っているんだなと、つくづく感じました。
頑張っている町って、凄く好きです。
さて、小腹も満たされたところで、彦根城を
表門まで下り、彦根城博物館を見学しました。
さっきチケットを購入した際に、誘導していた
警備員の方が、先にこちらを見学した方が
良い感じのことを言ってくださったのですが、
確かに博物館を先にした方が、再び同じ道を
戻らずに玄宮園まで行くことができたので、
そうした方が良かったかもしれません。
人の親切は、素直に受け止めるべきでした。 |
彦根博物館は、江戸時代の武家屋敷を復元
した建物で、譜代大名だった井伊家伝来の
武具や古文書、美術工芸品などが数多く
所蔵されています。
わたくしの場合、どちらかというと古文書より
美術工芸品に興味があるため、見事に彫刻
された能面は、とくに時間をかけて見させて
もらいました。
ちょっと怖い感じのものから、ユニークなものまで、
ひとつひとつ表情が異なり、当時の彫刻師の
技術の高さをうかがい知ることができました。 |
└日本庭園を眺めながら・・・ |
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└ 玄宮園全景 |
└ 鳳翔台・八景亭 |
└ 趣のある木橋 |
博物館見学後は、彦根城に隣接する名園
「玄宮園」に行って見ることにしました。
玄宮園は、江戸初期(1677年)に4代藩主
井伊直興により造園された大池泉回遊式の
日本庭園で、国の名勝に指定されています。
敷地は思った以上に広く、さすが大名庭園と
いったところでしょうか。
中国湖南省の洞庭湖にある、唐時代の離宮
庭園を参考に造られたようで、趣のある木橋や
美しい庭石、池に飛び出たように建てられた
八景亭など、日本庭園の美しさを心置きなく
堪能できる数少ない名園のひとつといえそう
です。
紅葉の時期なんかは、ライトアップもされて
凄く良いみたいですよ。
こうして、日本を代表するような名園を散歩
していると、昔の人は本当に四季を楽しむ
のが上手なんだな〜と、しみじみと感じて
しまいました。
暦自体も、太陽暦ではなく旧暦でしたからね。
生活リズムも、現在と違って季節の移り変わり
に密接していたのかもしれませんね。 |
茅葺屋根が美しい、築300年が経つ八景亭に
寄ってお茶でもしたかったのですが、一人だと
ちょっと敷居が高そうだったので、今回はやめて
おきました。
次回は一人ではなく、誰かと一緒に来れれば
良いのですが・・・
さて、玄宮園でしばらくゆっくりしてから、隣にある
楽々園を覗いてみることにしました。
楽々園は、井伊直興の下屋敷として造られた
もので、江戸時代には欅御殿と呼ばれていた
そうです。
その後、12代藩主井伊直亮により、楽々の間が
増築され、明治時代以降に楽々の間に因んで
楽々園と呼ばれるようになったとのこと。
こちらの建物も茅葺屋根で、歴史を感じさせて
くれる重厚な佇まいでした。 |
└ 楽々園(欅御殿) |
そろそろ昼時になり、かなりお腹が空いてきたので、この旅の目玉でもある「近江牛」を食べるため、
彦根観光のメインストリートでもある「夢京橋キャッスルロード」沿いの店を探してみることにしました。
歩いていると、あるわあるわ!どこもかしこも近江牛の看板だらけで、どのお店に入ってよいのか
わからなかったので、とりあえず前菜として店先で販売していた近江牛コロッケを食べてみることに
しました。
一口食べてみて、うん確かに美味しいとは思うのですが、何か物足りなさを感じてしまうのです。
ヤッパリここは、ガッツリと肉そのものを食べないと!ということで、四番町スクェアでちょっと気になる
お店があったので、そこに入ってみることにしました。
そこは「蔵羽本店」というところで、近江牛を重箱に詰めた名物「ステーキ重」が有名なようです。
洒落た感じの店構えで清潔感があり、奥に小さなカウンターもあったので、わたくしのような一人客
でも気軽に入ることができる良い雰囲気のお店でした。
しかしながら、さすがに近江牛といったところでしょうか?値段はとても気軽とは言えず、グレードの
一番低い肉を使ったものでも2800円という昼食にしては、かなり高めの値段設定だったのですが、
せっかくここまで来たので、思い切ってグレードの一番低い↓もので頼んでみることにしました。(笑
ところが、出て来てみてびっくり!これって、グレードの一番低い肉なの???
と、思ってしまうような見事なまでの霜降りで、食べてみてさらにびっくり!!
なんか・・・噛まなくても溶けていってしまうような、そんな感じです。
とっても分かりやすく言うと、最初は2800円という値段設定が高いと言ってしまったのですが、
食べた後は2800円という値段設定が、すっごく安いと感じてしまうほど、肉の風味が良く
抜群に美味しかったです。
近江牛、本当にオススメです。彦根に来た際にはぜひ。。。
実は今回の旅行、最初は京都に行こうと思っていたのですが、京都計画中に突然頭の中に
琵琶湖沿いの町並みを旅行する自分の姿が、インスピレーション的に沸きあがってきたので、
急遽行き先を変更して近江八幡と彦根を旅行することになったのです。
元々わたくし、小江戸とか小京都と呼ばれるような、こじんまりとしながらも奥の深い町並みが
好きだったものですから、近江八幡も彦根も自分の思い描く旅行スタイルにピッタリとマッチした
素敵な場所で、本当に来て良かったと思いました。
滋賀県というと、なかなか馴染みの薄い方もいるかとは思いますが、皆さんにもぜひオススメ
したいですし、自分でもまた来たいなと思わせてくれるほど今回は思い出深い旅になりました。
『ありがとう』 |
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