イメージ 開国の陰に消えた悲劇の女性「唐人お吉」

【第四章】 日本総領事ハリスの下田着任と日米修好通商条約(1856年〜1859年)

1856年(安政3年)7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が、下田に
就任します。
当初ハリスは、江戸に入ることを希望していましたが、さっさとアメリカに追い返してしまいたい
幕府側の思惑と、領事駐在規定に関する「和文」「英文」の解釈の違いなどから、双方の間で
もめごとが起こり、着任にはかなりの時間を費やしてしまいました。
最終的には下田柿崎の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置され、これから3年もの間
オランダ人通訳ヒュースケン・中国人召使と共に下田に滞在し、通商条約締結に向けての
幕府との粘り強い交渉に臨むこととなりました。

ハリスは玉泉寺滞在中、日米和親条約での不備点でもあった、日米金銀貨の同種同量での
交換や、米側の領事裁判権などの内容が盛り込まれた下田協約を、1857年(安政4年)
5月に下田奉行との間で結びました。
10月には、江戸に入ることが許されたため、陸路天城を越えて江戸城へと向かいます。
ハリスが江戸に入ることを頑なに拒んでいた幕府が、ここに来て考えを緩めた理由には、
前年に中国で勃発したアロー号事件という国際的背景がありました。
これにより、英仏連合と中国(清)との間で再び戦争が始まり、そのことが日本にとっては
脅威となり、彼にとっては有利に働いたようです。
また、この戦争(アロー戦争)に敗戦した中国は、1858年に天津条約、1860年に北京条約
という二つの不平等条約をイギリスやフランスなどの列強国と結ぶことになってしまいます。

江戸城で将軍に大統領親書を渡したハリスは、老中堀田正睦(ほったまさよし)に世界情勢と
貿易の必要性を説得した後、下田奉行井上清直や目付岩瀬忠震(いわせただなり)との間で
根気強く条約交渉を進めた結果、1858年(安政5年)6月19日、日米修好通商条約
横浜沖に停泊中のポーハタン艦上で調印することに成功しました。
1859年(安政6年)5月、日米修好通商条約規定による横浜・神戸・新潟・長崎・函館の
5港が開港されると、ハリスも江戸善福寺に移り、玉泉寺の総領事館は閉鎖されました。
そして同年12月、日本の開国に大きな役割を果たした下田は閉港となり、元の静かな
港町へと戻って行きました。
下田柿崎玉泉寺
└ 日本最初の米総領事館「玉泉寺」
現在のハリスの小径
└ ハリスが散歩をした柿崎海岸
● タウンゼント・ハリス Townsent Harris

1804年アメリカニューヨーク州サンディーヒルズに生まれる。
その後、ニューヨーク市に出て陶器や絹を扱う中国貿易に従事し成功しました。
また教育にも熱心で、ニューヨークの教育委員長も務めています。
子供の頃、貧しい家庭で育ったハリスは、貧困にかかわらずすべての子供たちが同じ教育を
受けられるようにと、現ニューヨーク市立大学の前身でもあるフリーアカデミー(無月謝大学)を
設立し、1849年1月29日に落成式兼第一期生入学式が行われました。

元々東洋貿易の経験者だったハリスは、日本に対して特別な興味を持っていたことから、
ペリーが日本に旅立つ際、便乗の申し入れをするが失敗し、後に政府に働きかけることにより
今回は総領事として日本行きを晴れて命じられました。
1855年に来日したハリスは、幕府との交渉を続け1856年8月に玉泉寺総領事館を設立、
約3年間の長い月日を経て1858年6月19日に日米修好通商条約の調印に成功します。
条約締結後、江戸に移ったハリスは公使に昇進、麻布善福寺を公使館とし、その後の
日米外交に深く携わりました。
1862年に辞職帰国をした後、1878年に病気で亡くなりました。
ニューヨーク市ブルックリンのグリーンウッドにある墓には、日本をこよなく愛した彼の栄誉を
称え、日本の灯篭と桜が植えられています。

今回の日米修好通商条約で特筆すべきは、日本がアメリカと対等な立場で条約を結べた
という点です。
当時、中国をはじめとするアジアの国々が、欧米などの列強国に不平等な条約を結ばされ
支配されていった中、日本だけがそれら列強国と対等な立場で条約を結ぶことができ、
明治以降の目覚しい発展を遂げられたのは、日本人のことを誰よりも考え理解してくれた
ハリスのお陰と言えそうです。


● ヘンリー・ヒュースケン

ハリスの片腕となり、日米の外交に務めたオランダ人通訳。
1832年1月20日、オランダアムステルダムで生まれる。
14歳で父を亡くしたヒュースケンは、21歳の時に夢を抱いてアメリカに渡る。
当時の日本には、英語を直接話せる通訳がいなかったことから、ハリスはオランダ語と
英語が堪能なヒュースケンを通訳兼秘書として日本に同行させました。

敬謙なクリスチャンだったハリスとは異なり、ヒュースケンは社交的で、下田滞在中には
平滑川沿いの遊郭(現在のペリーロード)にも、時折姿を現したと伝えられています。
また、ハリスが病気で倒れた時には、ハリスに代わり幕府との条約交渉という大切な
役割を任されました。
さらに、イギリス・フランスの対日交渉の際にもその支援にあたり、通訳としての才能を
遺憾なく発揮しています。

ヒュースケンは乗馬好きで、よく江戸城の周りを乗馬している姿が見られていたことから
開国反対派の浪士たちの怒りに触れ、1861年(文久元年)1月20日の夜、善福寺への
帰り道に、それら浪士たちの襲撃に遇い翌日死亡しました。
享年28歳、誕生日を目前にした非業の死でした。
この出来事で、幕府はヒュースケンの母親に対し、扶助料・慰労金合わせて1万ドルを
支払ったとされています。
息子の死と送られて来た慰労金を見て、母親はどう思ったのでしょうね・・・


● 写真家下岡蓮杖

我が国最初の商業写真家「下岡蓮杖」は、本名を桜田久之助と言い、1823年(文政6年)
下田の中原町に生を受けます。
若い頃に画家を目指し、江戸に出て狩野派に学んでいた時に銀板写真と出会いました。
江戸で銀板写真を知った蓮杖は、なんとかその技術を学びとろうと足軽にまでなり、当時
領事館だった玉泉寺に出入りするようになります。
そこで、すでに世話人として奉公に上がっていた、顔馴染みの「お吉」や「お福」を通して
ハリスに頼み込み、通訳ヒュースケンから写真術の基礎を習得しました。

下田閉港後、彼は横浜に渡り、アメリカ人写真家「ジョン・ウイルソン」から機材一式を
譲り受け、1861年(文久元年)横浜で我が国最初の写真館「全楽堂」を開業しました。
写真を志してから、実に18年目の功績です。
下岡蓮杖は、長崎で写真術を学んだ「上野彦馬」と共に、日本に商業写真を普及させた
草分け的存在として並び称されています。
下岡蓮杖記念碑
└ 下田公園にある下岡蓮杖記念碑
現在のペリーロード
└ ヒュースケンが通った旧遊郭街
● 悲劇の女性お吉さんのこと

わたくしが今回最も苦労したのは、「唐人お吉」についてのことでした。
というのは、お吉さんは一般人だったために、彼女についての公的な資料はわずかしか
残っておらず、ほとんどが知人などによる言い伝えが大半を占めていたからです。
そのため、市内の各資料館の唐人お吉についての資料も、簡単にまとめたものだったり
微妙に違っていたりと、判断に迷ってしまうことが多々あったからです。
彼女本人として残されている肖像写真も、ほぼ間違いないであろうと言われていますが、
100%立証されていないのが現状です。

それでは、お吉さんについてこれから話を進めていきたいと思うのですが、そもそも
イジメが有ったか無かったかという論争もあるかもしれませんが、昔から「火の無い所に
煙は立たぬ」と言いますから、当サイトではイジメが有ったという判断で進めて行きたい
と思います。
また、わたくしがこれから書くことは、今回調べた中で最も信憑性が高いのではないかと
判断した部分と、時代的な背景や今も昔も変わらない人間の本質なども考慮に入れて
個人の考えでまとめたものですから、すべて信じることはせずにあくまでも参考程度
留めて置いてください。

「きち」は本名を斉藤きちといい、1841年11月10日に愛知県知多郡内海で、船大工
市兵衛の次女として生まれています。
父が船大工だったこともあり4歳の時に下田の坂下町に移り住み、7歳で村山せんの
養女となり遊芸を仕込まれながら幼少の頃を過ごしました。
養母せんが亡くなり14歳で芸妓になったお吉さんは、安政の東海地震による大津波で
家が流失したことから実家に逃れ、17歳の時にハリスのめかけ(夜の情事のための女性)
として、当時支配組頭の地位にあった伊佐新次郎の再三の説得により、奉公にだされる
こととなります。

なぜお吉さんが、めかけとして奉公にだされたかというと、ハリスが幕府との条約交渉
の最中、多量の吐血をして倒れてしまいました。
元々胃潰瘍を持っていたハリスですが、疲労が原因で悪化させてしまったようです。
そのため、病床で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府側に
要求したのですが、幕府は「ここぞ!」とばかりに、めかけとしての女性を送り込むことで、
今後の交渉を優位に進める作戦に打って出ました。
そこで、下田一と評判の高い芸妓だった、お吉さんに白羽の矢が立ったという訳です。
彼女には、当時鶴松という幼馴染の恋人がいたのですが、無理やり別れさせられ、
お国のためと心ならずも領事館にめかけとして奉公に上がることとなりました。
そのことを知ったハリスは激怒し、たった3日で帰宅させてしまいます。
ハリスは頭の良い人だったので、幕府の策略などすぐに見破ってしまったのでしょう。

その後、お吉さんは再び二ヶ月もの間、玉泉寺領事館へと奉公に上がるのですが、
それに関しては、彼女の家族側から領事館に改めてのお願いがあったようです。
当然、家族は帰宅したお吉さんから領事館側が世話人を探していたことや、真面目な
ハリスの人柄も聞かされただろうし、それより何より支度金として受け取った25両という
金額は、家族全員を何年も養えるほどの大金でした。
さらに、当時領事館での月手当てが10両だったこともあり、改めて家族側からの
お願いに至ったものと思われます。

それにより、再度領事館へ奉公に上がったお吉さんでしたが、結果的には二ヶ月間で
暇を出されてしまいます。
その際、彼女には三ヶ月分の月手当てが支払われました。
「え?何で二ヶ月しか働いていないのに三ヶ月分貰えるの?」と皆さんも思われたかと
思いますが、これには日米で使用されている暦の違いが関わっています。
当時のアメリカは、現在使用している太陽暦をすでに用いていたのですが、日本では
まだ旧暦(太陰太陽暦)を使っていました。
旧暦というのは、月の満ち欠けが暦を司っているため太陽暦に比べてかなり誤差が
生じてしまい、2〜3年に1度はうるう月があり、その年には1年が13ヶ月もあるような、
今考えるとかなり厄介なものでした。
お吉さんが奉公に上がっていた年は、旧暦のうるう月に当たってしまっていたために、
太陽暦ではちょうど二ヶ月でも、旧暦では数日分オーバーしてしまい、三ヶ月目に
入っていたことから、三ヶ月分の手当てが支払われることになったようです。
坂下町周辺
└ 現在の坂下町周辺

下田町坂下町
お吉さんが幼少の頃を過ごした
坂下町は、ペリーロード沿いに
位置していて、住んでいた家は
すでに無くなってしまいましたが、
写真上の道を進んだ坂の上に
ありました。
坂下町を示す道標
└ 街角にひっそりと佇む道標
領事館から暇を出されたお吉さんでしたが、後に町の人たちからイジメを受けることに
なってしまいます。
異国人に肌を許した女「唐人」や「らしゃめん」と差別的な目で見られてしまうのですが、
これにはちょっと不可解な点が見受けられるのです。
当時領事館へは、彼女の他に4人の女性「ふく」「さよ」「まつ」「きよ」が仕えたのですが、
最初に仕えたお吉さん以外にイジメがあったという話は伝わっていないという点です。
恐らく、領事館内では不純な行為など一切行われていなかったことを、町の人たちは
色々なところから情報を得て知っていたのでしょう。
ハリスとしても、国を挙げての大切な使命を担っているので、女性に手を出して幕府側の
言いなりになるようなミスはしないと思います。

それでは、なぜお吉さんだけがイジメられてしまったのでしょう?
そこでイジメられたお吉さんと、そうでなかった他の4人とでは、どこが違うのかを考えて
みることにしました。
すると、イジメられる要因として、2点ほど他の4人と違う部分が浮かび上がって来ました。
ひとつに、一度帰されているにもかかわらず、月手当ての高額な領事館へ再びお願いして
奉公に上がったこと。
もうひとつの点として、約二ヶ月しか働いていないのに三ヶ月分の手当てを受け取ったこと。
以上のことから、イジメの原因として「一度断られたにもかかわらず、再度お願いをし奉公に
上がった」ことに対しての町民の制裁と、「約二ヶ月しか働いていないのに、三ヶ月分に
当たる30両もの大金を手にした」ことへの嫉みが、その大半を占めているのではないかと
思われます。
ちなみに当時は、10両盗むと首が飛ぶと言われるほど1両の価値が高かったようです。

さて、町の人たちから屈辱的なイジメを受けたお吉さんですが、ハリスが江戸に移って
しばらくの後、彼女も下田を出て行ってしまいます。
約9年後、横浜に流れ着いたのですが、その間の動向は今も明らかになっていません。
当時下田から横浜までの陸路は、天城峠を越えて三島を経由し、そこから箱根を越えて
東海道を横浜まで歩くしかありませんので、恐らく三島をはじめとする街道沿いの宿場町で
数年間滞在しながら辿って行ったと推測されます。
また、生活費などは天職である芸妓業で稼いでいたのでしょう。

横浜に流れ着いた彼女は、幼馴染の鶴松と再会し28歳で世帯を持っています。
2人はその後下田に戻り、鶴松は船大工に従事し、当時31歳になっていたお吉さんは
髪結業で生活を営んでいました。
しかしながら、その頃になると2人の間で夫婦喧嘩が絶えなくなり、彼女の乱酒も原因で
5年後に別れ、鶴松はその後すぐに病死、お吉さんは三島宿にある金本楼に住み込み、
36歳で芸妓業を再開しています。
三島で2年間芸妓をした後、下田に戻ったお吉さんは髪結業がてら宴会の席をもこなし、
42歳の時に有力者の後援を得て小料理屋「安直楼」を開業しました。
安直楼は、それなりに流行っていたようなのですが、未だに昔のことを憶えている心無い
人から「唐人」と罵声を受けることもあり、2年で廃業し人手に渡ってしまいます。

後の数年間は、とくに仕事もせずにお酒ばかり飲んで暮らしていたようなのですが、
貧困から来る不摂生により体調を崩し、1891年(明治24年)3月27日の豪雨の夜、
稲生沢川門栗の淵(現在のお吉ヶ淵)に身を投じ50歳の生涯に幕を閉じました。
2年ほど前から、ホームレスのような生活を送っていたために彼女にはすでに身寄りが
無く、当時の宝福寺住職竹岡大乗師がその亡骸を引き取り手厚く葬られたそうです。
宝福寺
└ お吉さんの菩提寺「宝福寺」
お吉ヶ淵
└ 身を投げたとされる「お吉ヶ淵」
最終的にお吉さんは、自らの命を絶ってしまったことになっていますが、わたくしには
どうも納得のいかない部分があります。
確かに豪雨の中、世を儚んだ1人の女性が自ら投身自殺をしてしまったという話になれば、
悲劇の女性の最後としては綺麗にまとまってしまうのですが、そもそもお吉さんは本当に
自らの命を絶ったのでしょうか?
もし、彼女の死が投身自殺でなかったとすると、本人としては不本意かもしれませんので、
少し別の観点から今回は考えてみることにしました。
「こんな考えをする人も世の中にはいるんだな・・・」程度に流して読んでもらえれば幸いです。

まず最初に、何で自殺した場所が門栗の淵(現在のお吉ヶ淵)だったのかという点です。
お吉さんにとって、何の縁もないこの場所で自殺をする意味がまったくわかりません。
実際この場所は、当時の道筋だと町から5キロ近く離れていたし、身を投げるのであれば
こんな遠くまで来なくても、近くにいくらでもあったような気がします。
しかしながら、この場所で実際にお吉さんの亡骸が発見されたことは否定できませんので、
この場所に来る理由が何かあったと考えてみることにしました。

すると、ひとつだけここに来る理由を見つけることができました。
ここは、お吉さんが若き日にイジメに遭い、それが原因で下田を出た際に通り過ぎた場所
だったということです。
その後、三島を経由して横浜に流れ着いたと思われるのですが、「三島」は彼女にとって
何か特別な場所だったのかもしれません。
36歳で鶴松と別れた時にも、お吉さんは再び三島に働きに出ています。

実は、わたくしもよく出かけるのですが、三島という土地は門前町ということもあり、穏やかで
親切な人が多いように見受けられます。
恐らく、当時の三島の人たちも、外から流れて来たお吉さんに対して、よそ者扱いをせずに
温かく迎えていた可能性が十分に考えられます。
彼女にとって、そこでの生活は生涯の中で最も充実した日々だったのかもしれません。
今までの人生を振り返ってみても、何か辛いことがあると三島へ働きに出て鋭気を養い、
再び次の行動に移っているような気がしてならないのです。
すでに、ホームレスになっていた彼女自身も、心の中では「このままではいけない!」
という気持ちはどこかにあったはずです。

そのことから、わたくしは次のように考えてみることにしました。
お吉さんは、再び自分を取り戻すために前向きな気持ちで三島へと向かいました。
お金の持ち合わせがなく宿をとることが出来なかった彼女は、昼間の内に天城峠を
越えようと夜が明ける前に下田を出発したのですが、体が弱っていたことから門栗の淵の
さらに上流で足を踏み外し、川に転落したことにより亡くなってしまったという感じです。
彼女の亡骸は、翌日の豪雨で門栗の淵まで流されて来たのでしょう。
そうなると、お吉さんは志し半ばで不慮の事故死を遂げてしまったことになります。

わたくしは今回、お吉さんについて調べた中でひとつだけ強く感じたことがあります。
それは、彼女は自殺をするような内向的な人間ではないということです。
若干17歳で異国の文化に触れ、後に下田を出て三島という東西の新しい情報が行きかう
場所で数年間を過ごし、さらには近代文化が開花する横浜に旅立った若き日。
鶴松と別れた後、三島からの再出発とその後の安直楼開業。
彼女の人生は、常に何か新しいものを追いかけていたような気がしてなりません。
また、彼女は下田一評判の高い芸妓だったことから、明るく華やかで、ちょっとお酒好き
ですが竹を割ったような性格だったと想像がつきます。
皆様は、お吉さんについてどう思われますか?
三島市街地と東海道(旧国道1号)
└ 三島市の中心を抜ける「東海道」
三嶋大社本殿
└ 三嶋大社本殿
三島大社境内
└ 昼下がりのひととき・・・
三嶋大社境内
└ 厳粛な雰囲気が漂う境内
お吉さんが愛してやまなかった東海道三島宿、その足跡をちょっと訪ねてみることにしました。
三島宿は、三嶋明神(現三嶋大社)を中心に東西に東海道、南北へ下田往還道と甲州道が
交差する伊豆随一の宿場町です。
右も左もわからないわたくしは、何はともあれ総本山三嶋大社に向かうことにしました。
大きな鳥居を抜けると、街の喧騒とは反対に静かな時間が流れていました。
境内にいるハトたちも、陽だまりの中でのんびりと過ごしているようです。

早速三嶋大社の人に事情を話し、昔の遊郭があった場所を尋ねてみましたが、詳しい場所は
分からないとのことでした。
「そもそも、三嶋大社に遊郭があった場所を聞くのが見当違いでは?」と言われてしまえば
返す言葉もありませんが・・・(汗)
ただし、三島広小路駅より少し西に行った場所に以前あったという話を聞いたことがあると
教えてくださったので、三島広小路周辺に手がかりを求め行ってみることにしました。
何しろ昔の話、こんな時に頼りになるのは地元の人たちと、手掛かりになりそうな旧家を
探し歩いたのですが、最近ではそのほとんどが建て替えられてしまい、見つけることすら
困難な状態になっていました。

途方にくれながら歩いていると、旧家までは古くないのですが昭和20年代〜30年代前半に
建てられたと思われる1件の漬物屋が目に留まりました。
店に入ると、奥からお年を召した1人の女性が出てきたので、事情を話し遊郭のあった場所を
尋ねてみると、三島市の清住町にあったことを教えてくれました。
数年前までは、遊郭の入り口にあった鳥居がそのままの姿で残されていたようなのですが、
現在は取り壊され無くなってしまったとのことです。
さらに、三島広小路駅から100メートルほど三嶋大社に向かった場所に「割烹呉竹」という
割烹料理の老舗があり、「当時は宿を営んでいたので、何か知っているかもしれない・・・」
との有力な情報まで親切に教えてくれたので行ってみることにしました。

早速、割烹呉竹で昔の遊郭について聞いたところ、興味深い答えが返ってきました。
実は割烹呉竹も、宿を営む以前は遊郭だったというのです。
当時の三島宿には、清住町の他にも色々な場所に遊郭が存在したとのことでした。
2000年に東海道三島400年祭という事業が行われ、昔の三島宿についても改めて
調べ直されたそうです。
現在の三嶋大社から三島広小路に抜ける東海道(写真上)は、鎌倉時代以前は裏通りで、
表通りは北側に1本ずれた桜小路から鎌倉古道の道筋だったことも、その時の調査により
判明したようです。
確かに鎌倉古道沿いには、昔遊郭があったと思しき細い路地がいくつも点在していました。
もしかしたら、お吉さんが勤めていた金本楼もその周辺にあったのかもしれません。

残念ながら、今回は金本楼跡を見つけることが出来ませんでしたが、お吉さんを温かく
迎えてくれた三島の人たちの優しさを、身をもって実感することができました。
突然の訪問にも親身になって対応してくださった三嶋大社の皆さん、割烹呉竹さん、そして
店名は忘れてしまいましたが、三島広小路駅から数百メートル西に向かった場所にある
漬物屋のお母さん、本当にありがとうございました。

さて、歴史的背景についてはこの辺で終わりにして、次のページでは現在の下田に戻り、
下田旧町内に残る旧家や素敵なお店を紹介したいと思います。
また、開国の歴史については、下田市内の各資料館などでも詳しく紹介されています。

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