伊豆石やなまこ壁の家を訪ねる下田旧町内散策
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前のページでは、幕末下田の歴史的な背景を見てきましたが、このページでは現在に戻り、
今も旧町内に残る旧家を皆様と一緒に訪ねてみたいと思います。
それでは、駅前交差点にある観光協会前から、国道135号横の歩道を海岸の方向へと
少し歩いてみることにしましょう。 |
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観光協会前を出発し、50メートルも歩くと
すぐに石造りの工場跡が見えてきます。
これは旧南豆製氷所といい、外壁などに
伊豆石がふんだんに使われた、歴史的にも
貴重な建造物のひとつです。
大正12年に建造され、後に製氷工場として
操業され続けたこの工場も、下田漁協製氷
工場完成に伴い、2004年の4月をもって
現役を退きました。
今後は、街の歴史的建造物として市内の
活性化のために運営される予定です。 |
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旧南豆製氷所の手前の路地を、旧町内へ
入り、さらに三つ目の角を右折すると間もなく
喫茶店「邪宗門」の前に出ます。
この建物は、江戸後期に建てられたもので、
築後約180年を経過しています。
店内はモダンで落ち着いた雰囲気があり、
入口から差し込む柔らかい光が、疲れた心も
癒してくれそう・・・
レトロな小物類も販売もされているようなので、
「ちょっとお茶をしたいな」と思ったらぜひ。。。
■ 喫茶店「邪宗門」
営業時間: 10:00〜19:00
定休日: 水曜日 |
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邪宗門がある連尺町から、先ほど右折して
来た角を通り過ぎると、すぐに「なまこ壁通り」
に出ます。
この周辺は須崎町と言って、船着場が近くに
あることから、なまこ壁の蔵が多く残されて
いる場所です。
なまこ壁というのは、外壁に平らな瓦を張り、
その継ぎ目を漆喰により接着したもので、
火災や防湿防虫効果に優れていることから、
江戸時代の土蔵などによく使われています。
そんな風情ある須崎町で、ひときは美しく
立派な家があったので、ちょっと話を聞いて
みることにしました。 |
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こちらの旧家は、屋号を「さいちゅう」といい、
家主が代々同名を受け継ぐ由緒ある家柄
です。
約180年前に建造された家で、江戸時代には
回船問屋を営み、昔使われていた道具類も
今なを大切に保管されているとのこと。
当時は6隻もの船を所有し、米麦などの食料品
から薪炭などの燃料、呉服や雑貨に至るまで
多品目に渡り扱っていたようです。
江戸の昔から、下田の繁栄に大きく携わった
家といえるでしょう。
幾度となく津波にも襲われ、家の中まで水が
入ってきたようですが、これだけ立派な家に
なると多少の津波では流されないようです。 |
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回船問屋さいちゅうを後にして、河岸に向かい
少し歩くと、大川端通りに突き当たります。
右折して、次のポイントの山善河岸までは、
潮風を浴びながらの散策となります。
ここ大川端通りには、異国情緒漂うガス灯が
並んでいて、夜の静かな散歩にも最適です。
また、岸壁沿いには数多くの漁船が停泊して
いますが、その中には下田の特産品「金目鯛」
を採りに行く金目船なども見ることができます。
金目鯛は、伊豆大島から八丈島にかけての
深い海を回遊する魚で、下田市は金目鯛の
水揚げ量では日本一を誇っています。 |
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金魚のような鮮やかな赤、怪しく光る金色の目、
どこから見ても作り物の魚のようで、お世辞にも
美味しそうな感じには見えない金目鯛ですが、
これが意外や意外、煮魚にしても刺身にしても
脂が乗っていてとても美味しいのです。
とくにオススメは干物で、皮がパリパリッ!とした
逸品です。
大川端通り近くの干物横丁をはじめ、旧町内の
多くの干物屋が、金目鯛を扱っていますので、
下田に来た際にはお土産にぜひ・・・
また、金目鯛以外にもアジやエボ鯛、サンマの
丸干しなども人気があります。
イカの塩辛も、甘塩仕立てで美味しいですよ。 |
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回船問屋さいちゅうから、大川端通りを歩き
伊豆の踊り子別れの場である「山善河岸」
までは、10分足らずで着くことができます。
文豪川端康成の名作「伊豆の踊り子」。
学生時代の康成が、伊豆を旅する途中で
旅芸人一行と知り合い、清らかな踊り子の
姿に引かれていく代表作です。
物語の中で、川端康成本人を描いた学生は
大横町通りを抜け、この船着場で見送りに
待っていた踊り子と別れたとされています。
そんな2人の切ない気持ちに想いを馳せて、
ここから大横町通りを歩くことにしました。
今回は1人だったので、別の意味で切ない
気持ちになりましたが・・・(T-T) |
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踊り子別れの場「山善河岸」から、大横町通りを
商店街に向かうと、通りを挟んで左側が大工町、
右側が原町ということになります。
船着場から、50メートルほど進んだ右角にある
なまこ壁の老舗が「松本旅館」です。
こちらの旅館は、安政2年に建てられたようで、
築後約150年が経っています。
現在も旅館業は続けられています。
下田は、昔から風待ち港として栄えたことから、
基本的に現在旧町内に残されている旅館の
多くは、江戸時代には船宿として営業されて
いたようです。 |
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松本旅館の角を過ぎると、大横町通りを挟み
左側が同心町、右側が伊勢町に変わります。
明治24年、日本で第一号の薬剤師の認定
を受けた「もりおの薬局」の前を通り過ぎると、
間もなく「旧阿波屋旅館」が見えてきます。
阿波屋旅館は、古文書によると徳川家康が
亡くなる頃、元和三年(1617年)には船宿を
営んでいたと記録されていています。
その昔、阿波の国(現在の徳島県)の藩船が
江戸に塩を運ぶ際、行きも帰りもこの旅館を
利用したことから、阿波藩の定宿に指定され、
それが名前の由来と推測されています。 |
この歴史ある阿波屋旅館には、「勝海舟」や相撲の「双葉山」、相撲取り時代の「力道山」や
浪曲が大衆娯楽として人気を博していた頃の「寿々木米若」、「天中軒雲月」などの著名人も
多く宿泊しました。
現存の阿波屋旅館は、昭和20年代に改築されたものですが、長い間休館中だった建物を
下田商工会議所が数年前から借用し、「阿波屋いっぷく堂」と改名され旧町内散策のための
無料休憩所として再利用されています。 |
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阿波屋いっぷく堂(旧阿波屋旅館)を後にして、
25メートルも歩けば「平野屋」の前に出ます。
平野屋は江戸時代の欠乏所跡で、約250年の
歴史があります。
欠乏所の後は旅館になり、その後民家を経て
現在は洋食レストランとして営業されています。
店内に入ると、ステンドグラスの光を活かした
モダンな造りになっていて、欠乏所時代の
展示品やクラシカルなレコードプレーヤーが
訪れる人の目を引いているようです。
ステーキをメインに扱っているレストランですが、
もちろん喫茶だけでもOKです。
わたくしは今回、カフェオレをいただきましたが、
香りが良くとても美味しかったですよ。 |
■ ステーキ&喫茶「平野屋」
営業時間: 10:00〜22:00
定休日: 火曜日 |
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欠乏所というのは、1854年の日米和親条約締結後、入港してくる外国船に対して
航海中に欠乏した燃料や食料などを供給した場所です。 |
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伊豆の踊り子別れの舞台となった大横町通り
ですが、学生と座長の栄吉がタバコ「敷島」を
4箱買い求めた店がこの「たるや」です。
平野屋からひとつ先の角の家です。
築後90年ほど経っていて、当時はタバコ屋
でしたが、今は商売はしていないようです。
康成がタバコを買い求めた当時は、この家も
まだ建てられて間もなかった頃なのでしょう。
そんなことを考えると、つくづく歴史の重み
というものを感じずにはいられませんでした。
ちなみに敷島というタバコは、明治37年に
発売された口付きのタバコ、「敷島」「大和」
「朝日」「山桜」のひとつで、大正時代には、
庶民や文人の間で人気が高かったようです。
そうそう、川端康成がよく通った実家近くの
銭湯の名前も「敷島湯」だったそうですよ。 |
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たるやから、大横町通りをこのまま直進すると
「吉田松陰拘禁之跡」、マイマイ通りを右折し
下田駅の方向に歩けば、お吉さんの菩提寺
でもある宝福寺に出ます。
今回は旧家を訪ねるために、マイマイ通りを
左折し了仙寺へと向かうことにしました。
了仙寺は1854年、日本とアメリカ両国間で
日米和親条約付録「下田条約」が結ばれた
場所でもあります。
例年5月中旬から下旬には、アメリカジャスミン
が境内いっぱいに咲き乱れ、訪れる人の目を
楽しませています。 |
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了仙寺境内を抜けて小さな山門をくぐると、明治から大正にかけての旧家が多く残された道筋へと
辿ることができます。
次のページでは、明治・大正のロマン漂う街並み、ペリーロードに皆様をご案内したいと思います。 |
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