イメージ 下田 開国の歴史とロマン漂う街並の散策

下田湾
└ 寝姿山から見る下田湾
“美しい自然と開国の歴史が交差する街角”
幕末の世、数々の名優たちが、風のように
通り過ぎていった時間へ・・・
このページでは、わたくしの故郷でもある
伊豆下田に皆様をご案内したいと思います。

さて、今回いきなり綺麗な書き出しで始まって
しまいましたが、わたくし地元ということもあり、
下田旧町内を歩いていることも多く、観光客とも
よくすれ違うのですが、最近ちょっと気になった
ことがありました。

旧町内には、開国にまつわる史跡が多く残って
いるのですが、散策をしているご夫婦や若者、
グループなどの旅行者が、どこに行ったら良い
のか分からずに歩き回っている姿を、至る所で
見かけるのです。
皆様も、旅先で同じような経験をしたことは
ありませんか?
わたくしも、よくやってしまいます。(^^;
歴史の深い観光地では、そのような光景を
よく見かけるのですが、原因は予備知識の
不足から来るものと思われます。

街の歴史を多少なりとも知ってさえいれば、
楽しい旅行になること請け合いなのですが、
社会人になってまで、歴史の勉強というのも
なかなか気が進まないものですよね。
現実、いざ勉強しようと書店に行けば、難しい
専門誌が所狭しと並んでいるような状態・・・

さらには、旅行雑誌やインターネット上の
地域情報関連のサイトでは、個々の史跡に
ついての歴史は紹介していても、ひとつの
時代の流れとして特集を組んでるものは
意外と少ないことにも気づかされます。

そのようなことから、このページでは開国に
まつわる歴史を、「時間の旅」をテーマに
紹介していきたいと思います。
「歴史と散策のガイドブック」といった気楽な
気持ちでご覧下さい。
ペリーロード沿いの街並
└ 風情あるペリーロード沿いの街並
また、今回は最初の2ページを開国の歴史についての紹介ページ、後の2ページは
下田旧町内に今も残る旧家や素敵なお店を紹介するページとさせていただきました。
歴史はちょっと・・・という方は、お手数ですが2ページ先までお進み下さい。

それでは、これから18世紀後半のアメリカまで時間をさかのぼり、ペリーの生まれた
1794年のニューポート市からスタートしてみることにしますが、あまり細かいことには
こだわらず、全体的な流れとして憶えて頂ければ、下田に来た際には十分に楽しんで
もらえると確信しています。

【第一章】 ペリー誕生から黒船出航まで(1794年〜1852年)

1794年4月10日、アメリカのロードアイランド州ニューポート市で、ひとりの男の子が
この世に生を受けました。
彼の名はペリー、父は商船の船長、兄は海軍仕官だった影響もあり、後にペリーも
軍人への道を進むことになります。

15歳で海軍士官候補生になったペリーは、その後順調に昇進を続け海軍大尉となり、
1837年に「いかにアメリカ海軍が弱いか」という論文を発表します。
当時、軍力を最も誇っていたイギリスは蒸気船21隻、フランスも21隻、それに対して
アメリカは蒸気船をまったく持っていないという状態・・・
風力だけに頼る帆船では、それらの国々に対抗できるはずがなかったのです。
彼は蒸気船視察のために、自らイギリスやフランスに出かけ、その技術を習得して
実験的に作らせたのが、アメリカ最初の蒸気艦船「フルトン号」でした。

フルトン号の初代艦長になったペリーは、その後も大型蒸気艦船「ミシシッピー号」や
「ミズリー号」などの建造に携わり、アメリカ海軍の軍力向上に力を注ぎました。
このことから、後に彼は「蒸気海軍の父」とまで言われています。
ペリーは1846年〜1847年、この蒸気艦船を率いてメキシコ戦争に参戦勝利し、
1852年には東インド艦隊司令長官となり日本行きを命じられることとなりました。
重要な役割を任されたペリーは、ニューヨークやロンドンから日本や日本人に関する
本を取り寄せることにより、相当な日本通になっていたと伝えられています。

さて、当時なぜアメリカは日本との国交を強く望んでいたのでしょうか?
アメリカは1815年頃から捕鯨が自由化され、メキシコ戦争などの勝利を足がかりに
多くの捕鯨船や商用船が、太平洋にまで出て行くようになりました。
長い航海の中では、石炭・水・食料などの欠乏品を補給する場所が当然必要になり、
日本は燃料補給基地として適した場所にあったようです。

さらに軍事的な面では、1842年にアヘン戦争で清がイギリスに敗戦し、各国が我先へと
中国へ進出を始めたという背景があります。
アメリカもこれに遅れてはならないと中国進出を目論んでいましたが、太平洋を横断して
中国に進出するためには、燃料や食料など欠乏品の補給において日本は絶対に外すことの
できない重要な位置にありました。
また、太平洋航路を独占することにより、ライバルであるイギリスに対して有利な状況に
立つことができるという理由もあったようです。

以上のことから1852年、当時のアメリカ大統領「ミラードフェルモア」の国書を携えて、
58歳になっていたペリーは日本への長い航海に旅立って行きました。
その国書の内容は、日本アメリカ双方の友好関係と開港貿易、アメリカ船の日本近海での
漁の許可、遭難時の救出や財産の保護、蒸気船立ち寄り時の水・石炭・食料など欠乏品の
供給依頼などが書かれていました。
大統領は、日本に警戒心を抱かせないために、あくまでも友好関係を築きに来たということを
強調したかったようです。


● マシュー・ガルブレイス・ペリー Matthew Calbraith Perry

1794年 4月10日 米国ロードアイランド州ニューポート市に生まれる。
1809年         海軍士官候補生。
1813年        海軍大尉。
1837年        米国初の蒸気艦船建造を監督し艦長となる。
1842年        提督に昇進。
1846年〜1847年 小艦隊を率いてメキシコ戦争に参戦。
1853年 6月     東インド艦隊指令長官兼遣日合衆国特派大使として浦賀に来航。
1854年 3月     日米和親条約の締結に成功。
1858年 3月4日  病気を患い、ニューヨーク市で心臓発作のため63歳で没する。
開国記念碑
└ 下田公園内にある「開国記念碑」
旧町内のガス灯
└ 異国情緒漂うガス灯(旧町内)
カロネード
└ 江戸時代に使用されていた大砲
1829年製30ポンド「カロネード」
姉妹都市提携
ペリーの故郷ニューポート市と下田市は、
1958年5月17日に、姉妹都市提携を
結びました。
現在も、両市で開催されている黒船祭
などを通じて、互いの文化を紹介し合い
友好関係を深めています。

下田市の黒船祭は、毎年5月に開催され、
アメリカ海軍のパレードや打ち上げ花火、
ジャズコンサート、下田条約調印式再現
など、様々なイベントが行われています。

【第二章】 黒船来航から日米和親条約を経て下田条約調印まで(1853年〜1854年)

この章では、母国アメリカを旅立ったペリー提督よりひとあし早く日本に戻り、江戸の末期から
話を進めてみることにします。
江戸も末期になると、長引く大飢饉の影響による一揆や打ち壊しが各地で勃発すると同時に、
海外に目を向ければイギリスなどの列強国が、アヘン戦争を背景に中国への進出を始め、
当時鎖国を続けていた日本にとっても対岸の火事では済まされない状況になっていました。
幕府は1852年に、長崎の出島でわずかな国交を結んでいたオランダから、アメリカによる
大規模な艦船派遣が近いうちに行われるとの情報を得ていたことから、一揆の鎮圧の他に
海防策にも従事しなくてはならなくなり、国内外に大きな問題を抱え揺れ動いていました。

そんな混乱の最中、船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が浦賀に来航したのは、
1853年(嘉永6年)6月のことです。
それはまぎれもなく、226日にも及んだ長い航海の末、日本に到着したペリー艦隊の姿でした。
蒸気船の旗船「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」、帆船の「サラトガ号」と「プリマス号」から
なるペリー艦隊は、母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、
香港・琉球を経由して日本へとやって来ました。
ペリーは久里浜にて、開国を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を
聞くことを約束して、一旦日本を去ることにしました。

香港まで引き返したペリーが、時を待って再び来日したのは翌年1854年(嘉永7年/安政元年)
の正月、最新鋭の蒸気艦船「ポーハタン号」をはじめとする9隻の艦船を率いて江戸湾(東京湾)
奥まで強引に入り込み、勝手に測量を始めるなどの威圧行為を行いました。
さらに、2月には数百名にも及ぶ乗組員を横浜に上陸させ、条約草案を提出することにより
幕府との話し合いの場を設けることに成功します。
今回ペリーは、日本と戦争をしに来たわけではなかったのですが、これだけ強引な手段に
出たのには理由がありました。

実は前任の東インド艦隊司令長官だった「ビドル」が、以前日本との条約を結びに来日した
のですが、友好関係を築こうと愛想良く出かけて行ったことから、浦賀奉行に追い帰された
という経緯がありました。
そのためペリーは、「絶対に愛想を振りまかない」「上位役人としか面会しない」「場合によっては
武力行使も辞さない」といった断固たる態度で臨んだようです。
それに対して幕府側は、「交渉は長崎でしか受けられない」などの引き延ばし作戦に出ますが、
今回はペリーの強引さに押されたという形になりました。

日米双方の交渉が横浜で進む中、開港を求めたアメリカに対し、江戸近隣での開港を嫌った
幕府側から、下田・函館両港の開港案が提示されると、ペリーはさっそく事前調査のために
2隻の艦船を下田に派遣しました。
外洋と接し、安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「天然にしてこれほどの
良港は望めない」と絶賛したそうです。
こうして同年3月3日、下田・函館の開港、航海中に不足した水・食料・薪・石炭などの欠乏品を
日本政府が供給することや、漂流民の保護、下田湾内の犬走島から七里四方(28キロ圏内)での
アメリカ人の行動の自由などが盛り込まれた、全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)
結ばれました。


● 日米双方で交わされた贈り物

アメリカから将軍家に贈られたものは33種類にも及び、代表的なものとしては、蒸気機関車の模型
(4分の1サイズで人が乗って走れるもの)・有線電信機・時計・農具・薬品・望遠鏡など。
将軍家からアメリカへは、絹織物・漆器・磁器などの伝統工芸品が贈られました。
蒸気機関車の模型や有線電信機は、街頭での実演も行われ、レール上を走る機関車にまたがって
遊ぶ者が出たり、馬と電信機で伝達の速さを競い合ったというエピソードも残っています。


● 黒船が初めて来航した時の日本人の驚き

それはまさに、当時の人たちにとって天と地がひっくり返るほどの大事件だったようです。
江戸の千石船が全長20メートル・重量100トンに対して、ペリー艦隊旗船の「サスケハナ号」は
全長78メートル・重量2450トンもありました。
船体には、防水のための黒いコールタールが塗られていたこともあって、その並外れた大きさ
と真っ黒な姿が人々を驚かせた要因のようです。

噂を聞きつけた町民たちは、外国が攻めてきたものと勘違いをし、わらじやローソク、おにぎり用の
梅干や味噌、竹の皮などの避難用品を買い求めに店舗へ殺到し、2日間で品切れ状態・・・
侍に至っては、戦いのための鎧や刀を買いに走り回ったことから、なんと当時の武具類の物価が
2倍にまで跳ね上がってしまったという話も伝わっています。
写真の恐ろしい形相で描かれたペリーの肖像を見ても、当時の人々の心境をうかがい知ることが
できますよね。^^
ベイステージ下田
└ 当時描かれた色々なペリーの肖像
まどが浜公園
└ ペリー提督が絶賛した現在の下田湾
みさご島(手前)と犬走島(奥)
【第二章の続き】

日米和親条約締結後、7隻のペリー艦隊は3隊に分かれて下田に順次入港し、ペリーの乗る本船
「ポーハタン号」が到着したのは1854年(安政元年)3月21日のことでした。
艦隊入港後、ペリーや艦船の乗組員たちは下田湾沿いの鼻黒(現在の下田公園下)から次々と
上陸を果たし、平滑川沿い(現在のペリーロード)を軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら
了仙寺へと入りました。
その騒ぎを聞きつけた町民たちが、物珍しげに大勢集まってきてしまったことから、了仙寺境内で
一般人を対象にした「日本初の洋楽コンサートの夕べ」も開催されています。

さらにアメリカ人たちは、先の和親条約で認められた遊歩権(七里四方での行動の自由)により
街中を自由に歩き回り、下田町民と民間レベルでの異文化交流が始まることとなりました。
敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、当時の下田町民たちはフレンドリーでユーモラスな
アメリカ人とすぐに打ち解けることができ、普通に接することで友好関係を築き上げていたようです。

同年5月、函館港の調査から帰港したペリーは、林大学頭(はやしだいがくのかみ)をはじめとする
幕府側代表と交渉を進め、和親条約では決められていなかった細かい規定、アメリカ船の上陸場所
(下田・柿崎など)、休息所(了仙寺・玉泉寺)、埋葬所(玉泉寺)、町内店舗での商品購入法などが
定められた、日米和親条約付録「下田条約」を、25日了仙寺にて調印することに成功しました。


● アメリカ人から見た日本の印象

ペリー一行が下田に上陸して最初受けた印象は、自分たちが考えていた以上の生活水準の高さ
だったようです。
道に敷かれた石畳、川に汚水が流れ込まないように完備された下水溝など、西洋並みともいえる
土木技術や、寺子屋や藩の学校で学ぶ子供たちの教育水準の高さ、また設計図などを使わずに
伝統工芸品を寸分の狂いもなく作ってしまう職人たちの手の器用さにも驚かされたようです。

日本の風習にも、相当なカルチャーショックを受けたようで、ペリーは日本女性の「おはぐろ」を見て
酷い虫歯と勘違いしてしまいました。
後で事情を理解しましたが、「これではキスもできないし、夫に対して魅力的ではない!」と、
かなり批判的だったと伝えられています。
また、女性は膝をついてお辞儀ばかりしているという印象を持ったようです。

さらにペリーを驚かせたのは、「混浴」という風習でした。
江戸時代の銭湯は、混浴が当たり前だったため、夫以外の男性に妻が平気で自分の裸を見せる
という行為が理解できなかったようです。
「これでは夫婦離婚の危機・・・」と思ったかどうかは知りませんが、西洋文化が浸透した現在の
日本でも、その部分は理解できませんよね?
了仙寺
└ 下田条約が調印された「了仙寺」

ペリー上陸の碑
ペリー艦隊の乗組員が上陸した地に、
建てられた記念碑。
作者は故村田徳次郎氏で、記念碑の
前の鎖は、米海軍からの寄贈品です。
ペリー上陸の碑
└ ペリー上陸の碑(下田公園下)
黒船レプリカ
└ 黒船レプリカ(下田駅前広場)
下田に来航した黒船
下田湾には7隻の黒船が来航し、
中でもペリーが乗船していた旗船
ポーハタン号は、船体に派手な
赤い線が引かれていたことから、
「赤すじポーハタン」の愛称で、
親しまれていました。

下田来航時の、黒船停泊位置と
各艦船の詳細はこちらです。
● 吉田松陰と金子重輔の渡米計画

吉田松陰は、1830年に長門国萩東松本村(山口県萩市)で杉百合之助の次男として生まれ、
1836年に吉田家の養子となりました。
その後、江戸に出て佐久間象山の教えを受けた松陰は、「世界に眼を向けることが大切」と説く
師の教えに共鳴し、国禁を破る海外渡航を決意します。
像山の勧めもあり、1853年長崎に来航していたロシア船へ乗り込もうとするが間に合わず、
翌年ペリー艦隊を追い、弟子の金子重輔を供に下田にやって来ました。
下田の岡方屋や蓮台寺の村山邸に隠れ、渡航の機会をうかがっていた二人は、1854年3月27日
柿崎の弁天島の祠に潜み、夜になるのを待って黒船へと向かいます。
渾身の力で小船を漕ぎ、ミシシッピ号に接近したところ、船員から手信号でさらに沖に停泊している
ポーハタン号に行くよう指示され、やっとの思いでポーハタン号に辿り着くことができました。

船上で通訳ウイリアムズを通し、渡航の意思をアメリカ側に伝えたが、江戸幕府との関係悪化を
避けたペリーに、「今しばらく時を待ちなさい。必ず道は開けます。」と穏やかな口調で乗船を
断られてしまいます。
翌日二人は地元名主に自首をして、下田の長命寺観音堂に留置された後、平滑の牢屋行き
となりました。
松陰は4月11日に江戸に送られ、その後山口県萩市に幽閉されることとなります。
故郷でもある萩に戻った松陰は、後に「松下塾」を開校し、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文など
明治維新の立役者となった人物の育成に努めました。
1859年10月27日、吉田松陰は井伊直弼の行った安政の大獄により、江戸伝馬町の獄で
処刑されてしまいます。享年30歳という若さでした。
吉田松陰と金子重輔像
└ 弁天島の吉田松陰と金子重輔像
弁天島
└ 吉田松陰が渡航を計った「弁天島」
島中央に見えるのが隠れ潜んだ祠
村山邸
└ 松陰が隠れていた蓮台寺「旧村山邸」

吉田松陰縁の史跡
松陰が一時期留置された長命寺跡は、
現在は市の教育委員会になっています。
平滑の牢獄跡は、下田開国博物館の
斜向かいにありました。
吉田松陰拘禁の跡
└ 松陰が一時留置された長命寺跡

【第三章】 ロシア使節プチャーチン下田来航と日露和親条約の締結(1854年10月〜12月)

ペリー艦隊が下田を去って間もない1854年(安政元年)10月、ロシア使節プチャーチンが
日露和親条約交渉のためディアナ号で下田に来航します。
ロシアは前年の1853年(嘉永6年)、開港と北方国境の取り決めのため、すでに長崎へ
来航していましたが、幕府との交渉がまとまらず一旦日本を去っていました。
日米和親条約締結の話を聞きつけ、再び交渉のため下田を訪れたのです。
幕府側代表の大目付筒井政憲・長崎奉行川路聖謨(かわじとしあきら)が1週間程遅れて
下田に到着し、福泉寺にて第1回目の交渉が始まりました。
途中、安政の東海地震による大津波で、ディアナ号大破というアクシデントにも見舞われますが、
1854年(安政元年)12月21日、長楽寺にて日露和親条約が結ばれます。
日露和親条約は、基本的には日米和親条約と同内容のものですが、日露の国境問題が
盛り込まれている部分に大きな違いがあると言えます。
この条約により、択捉島とウルップ島の間に国境が定められたことから、旧暦の12月21日
(現在の2月7日)は北方領土の日として、1981年1月6日の政府閣議で決められました。


● 安政の東海地震とディアナ号沈没

1854年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を
襲いました。
後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして
呑みこまれてしまったそうです。
被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い
大惨事になってしまいました。
津波によって生じた渦巻きによりディアナ号も大破してしまい、大砲などの下敷きとなって
亡くなってしまった水兵の墓は、今も玉泉寺の敷地内に残っています。

大破したディアナ号は、修理のため西伊豆戸田港に向かいますが、途中激しい嵐に遭遇し
駿河湾に沈没してしまいます。
すぐに代船建造が決定され、伊豆の船大工と救助された乗組員による日露の共同作業、
日本で最初の洋式造船「ヘダ号」の建造が始まりました。
これによりプチャーチン一行は、1855年(安政2年)3月に帰国の途へつくことができました。
ヘダ号は翌年、日露和親条約批准書交換のため下田に来航したロシア使節ポシェットにより
返還されています。

ちなみに日本で最初の洋式帆船は、1605年(慶長10年)伊東市松川河口で、2隻の船が
イギリス人のウイリアム・アダムス(三浦安針)の手により造られましたが、その後江戸幕府
の鎖国政策により造船技術の発展は妨げられ、このヘダ号造船が実質的に伊豆船大工の
技術を向上させ、以後の洋式造船の発展に繋がったことから、戸田は洋式造船発祥の地と
されています。
長楽寺
└ 日露和親条約が調印された「長楽寺」
玉泉寺
└ ディアナ号水兵の墓がある「玉泉寺」

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