〜考察〜
 出生前診断。
 そんな検査の存在そのものを知るよしもない6年前。僕ら夫婦は待望の初めての妊娠に心躍らせた。
 女の子だったらいいな。いや、男でも良いな。
 女の子の方がかわいい服が着せられるし。
 男の子だったら、野宿させよう。
 名前なんにする?
 ”結”の一文字を入れたい。

 そんな会話を夜中まで、毎日飽きもせずに繰り返していた。
 
 時系列は飛んで、1歳と少しして病気がわかり・・・・←この辺は日記とかでもいろいろ書いたから、省略。

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 ゆめが大きくなって、出生前診断を知ったらどう思うだろう。現実に自分の親が、ゆめの兄弟をあきらめたことを知ったらどう思うだろう。
 ○自分を否定されたような気になるのだろうか。
 ○第1子で命拾いしたと思うのだろうか。
 ○僕ら夫婦は第2子をあきらめたが、だからといってゆめや障害者を不必要だとは思っていないと言うことを信じてくれるだろうか。
 
 診断して産むか産まないかを決めるのは親の判断、それはそうだ。しかし、その結果産んでもらえなかった子供にしてみればたまったモンではないだろう。また、当然のごとく、現実に今病気を持って生活している人たちにしてみれば、自分たちの存在までもが否定されたように感じるだろう。
 『生命を選択する権利』と言いきって良いのかわからないが、この言葉だけ見ればたとえ親でもそんな権利は確かにない。
 でも一方で、障害を持っていると知りつつ産むと言うことにも、やはり親として抵抗がある。育てられないとか、自信がないとかそういうことではなくて、5体満足で産んでやりたい。そう願うことはおかしな事じゃないだろう?それがはなっから叶わないことがわかっていても、産むべきなのだろうか。

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 現実、ゆめが何らかの障害を持っていると妊娠中にわかっていたらあきらめたかと言われれば、わからない。初めての子供だ、たとえ障害を持っていてもそれがどういう生活なのかわからずに大丈夫、産もうと思ったかもしれない。
 そして少なくとも、今はゆめを産んで良かったと思っている。ゆめは紛れもなくかわいいし、ゆめがいない生活なんて考えられない。ゆめを精一杯幸せにしたいと思うし、実際にそうなるべく努力しているつもりだ。
 以前テレビで、ゆめと同じ筋ジスの福山型の娘さんを育てている番組を見た。その父親は、生まれ変わっても、たとえまた病気を持っていても、もう一回彼女を娘に持ちたいといっていた。
 ゆめに照らし合わせたとき、その気持ちはわかる。俺にしても、何回でもゆめの父親になりたい。
 障害を持っていても、ゆめを否定しないし、いらない子だとも思わない。
 

 それでも、それでもやはり、第2子は考えてしまう。。
 これは人でなしな考えか?
 障害者を否定していることになるのか?
 我が子を否定していることになるのか?

 逆に、なぜそれでも考えてしまうのか。それでも考えてしまうのは、親の俺の身勝手が原因なのか?